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●鬼界へ墜ちない為に 《癒しの杜の会》は、一つの試みとして、幸福に至る近道は、ひたすら、幸福だけを追い求めるよりも、不運・不幸の原因究明を徹底的に行い、この糸口から幸福に至る路程を探った方が、より近道だという結論に達しました。 人間の運勢には、眼に見えない不可視現象が深く関与しているのです。そしてこの現象の中には、不幸現象も、幸福現象も表裏一体の関係で内包されていて、いわゆる過去からの因縁(喩えば精神分裂病や酒乱)による場合が極めて多く、これが顕在化(げんざいか)されるという現象を起こしている現実という「非実在世界」を作り出しているのです。 この現世の顕在化現象において、ある著名な大企業家は、自分一代で巨大な財を成し、現在の地位に至ったことを、「運が八割だ」と回想しいます。そして、たった一文字の「運」という言葉でそれを言い捨ています。 この人は自分の足跡を辿って、運が八割と悟ったのでしょうが、人の人生において、運が大半以上を占めているという事になると、その運を徹底的に解明しなければならないのですが、この運の解明によって、人間は運・不運が決まることになるのでしょうか。 さて、「運」という字を考えてみましょう。 この字は「軍」が「走る」(シニョウの「之繞」の撥音化は「走」の意味)と書きます。軍が走るのですから、軍隊が走るわけで、槍か刀や弓矢を持った軍隊の流れを変える為には、命賭けの努力が必要であると言うことが分かります。そしてこうした「軍が走る」流れを変えようとする時、ともすれば先祖の力を借りたり、神仏の力や、占い師や祈祷師の力を借り用とする人が居ますが、自らの運は、自らが開くものであり、他人がどうこうできるものではありません。 人の世は、自分の思う通りに物事が運びません。したがって不運に見舞われると、迷い、悩み、苦しんだ挙句に焦ります。 そして焦りが次の不運を招き、不幸現象を招いて次々に連鎖反応を起こしているように見えます。 これは何かに妨害されているような錯覚に陥り、自分が運命の糸に操られているという風に観(かん)じはじめます。しかしこうした「観じる」現象が、現象世界の想念であり、これは非実在界の事象にしか過ぎないのです。 自分の想い描いた事は、現実の事として、実現する。これは紛れもない真理です。ここが不可視現象(表皮)の裡側(うちがわ)に、不可視現象の「何か」が存在しているのです。 幸運に恵まれ、順風満帆の人生を送っている人、好調に仕事の業績を延ばした人、良縁を授かって良き人生の伴侶に巡り会えた人、健康で朗らかで長寿を全うした病気知らずの人、こうした人は何処か眼に見えない強力な協力者がいて、それを後押しされているような、「何か」の力が働いているに違いありません。それは眼に見えない良質な細菌かもしれないし、また先祖の加護に護られた不可視現象であるかも知れません。しかし、その「何か」を究明しない限り、運・不運に迫って行く事は出来ません。 とにかくいずれにせよ、何らかの「関与者」がいることは間違いようです。 《癒しの杜の会》では、この関与者が一体何者なのか、そして運・不運にその格差が生じるとするならば、何が原因で様々な事物・事象が生まれるのか、その深層部を探って、不運・不幸の解消術を試みてみました。他力本願に陥ったり、焦って、悪足掻きをして、くれぐれも鬼界に墜ちないようにしなければなりません。 ●不幸の徹底研究こそが幸福への最短距離 人は皆、幸せを求めて毎日努力しています。はじめから不幸を想い、それに向かって人生を歩いている人はいなはずです。しかし現実問題として不幸は存在し、幸せな人より、不幸な人の方が圧倒的に多いのは周知の通りです。 かつてユダヤ人は「ユダヤ黄金率」を発見し、金持ちと貧乏人の比率は全体を100として、その分離比は「28対72」のパノラマステージを唱えました。このパノラマ・ステージこそ、「ユダヤ黄金率」の真髄としたのです。縦28に対し、横72が最も美しい宇宙のバランスであり、このバランスが崩れない限り、イスラエルの民は永遠に神から祝福され、自分達だけが神から選ばれた民族としての、未来永劫の恩恵を受けるとしているのです。 |
▲ユダヤ黄金率。この黄金率ではその縦と横の配分が28:72が最も均整がとれて美しいと言われるパノラマ・ステージの配分比であると言われる。 |
彼等ユダヤ人達の唱えたこの「ユダヤ黄金率」は、まんざらウソでもなく、世界全体に28の割り合いの金持ちがいますと、72の貧乏人が存在する事になり、28の金持ちは、72の世界の富を独占し、72の貧乏人は28の財産を72の貧乏人全体でこれを分け合っているというのです。 28の金持ちとは、個人資産が10億円以上の「超スーパーリッチ層」を指すのであって、ひと握りのエスタブリッシュメント(establishment/国家・市民社会のさまざまな次元で、意志決定や政策形成に影響力を及ぼす既成の権力機構)を言い、彼等は日本にも約4000人程度(日本人の超裕福層)と推定されています。 世界比率では「28対72」の関係が成り立っているのですが、日本国内だけで考えると、これはたったの0.0314%であり、お金の為ために、99.9686%のその他大勢が彼等に黄金の奴隸として奉仕している事になります。 その他大勢の99.9686%の庶民は、お金のために働き、ローン会社やサラ金の奴隷となり、税金を収めるために働き、何処までも搾取される輪廻の輪の中で、自分の人生を「ラットレース」のみで、潰えさせようとしているのです。 そしてデフレ不況の真っ只中、貧富の格差は益々広がり、憂鬱(ゆううつ)の嵐が吹き荒れています。 街を歩いていても、電車やバスに乗っても、どんよりとした曇りの日のように憂鬱(ゆううつ)が垂れ込み、無表情の紳士や淑女が、なぜか俯(うつむ)いて奔走しているように映ります。 キチンと背広は着込んでいても、気障なライフジャケットに身を包んでいても、あるいは取り澄まして最先端のファッションを追っかけていても、その胸の裡(うち)には、何処か憂鬱に充ちた不安で覆(おお)われ、悩み、迷い、焦りを募らせて、言い知れぬ苦悩が充満しているように映ります。そして心配事を胸中に秘めて、外に漏れないように苦慮しているのが分かります。 またそれが、何時爆発するともわからない表情をしているようにも映ります。 人はこうした現実の中で、毎日幸せを求めて精一杯活動し、働いています。誰一人、不幸になろうとは夢にも思っていません。しかし、それなのに何故こんなに苦しみ、悩み、迷い、人の同情を集めるような生き方をしなければならないのでしょうか。 また自身の心の裡では様々な葛藤を繰り返し、処世術を駆使して、何故苛酷な世渡りをしなければならないのでしょうか。 これは実に深刻な問題であり、人間社会での処世術の難しさを思い知らされます。ために、喜怒哀楽は浮世の常と諦めることで、これが納まればよいのですが、そこで打開策を求める人ならば、今まで自分は何をして来たのだろうか、と反芻(はんすう)が趨(はし)ります。 正直言って、何もしてきていないのだ。ある意味で、その日暮らしであったのではなかったか。そんな、反芻(はんすう)すればするほど、ここに行き着きます。 そして平凡な、誰もがしてきていることを、画一的に、単純に模倣してきただけではなかったか、と思い当たります。 こうした結論に行き着くとき、人は安易に偶像的な神仏に頼り、新興宗教に身を委ねようとします。 しかしこれこそ他力本願の最たる結末なのです。不幸・不運の更に上塗(うわぬり)をしていることになります。 自分だけの幸せを願い、奔走する輩(やから)は決して少なくありません。しかし彼等の奔走の根底には金銭欲に繋(つな)がる行動原理が働いていて、拝金主義、金銭至上主義の、「幸福イコール金持」という図式が、必然的に出来上がっているのです。これが金持ちを英雄とする考え方です。 金を得る為に、多くは、飽くなき奔走をするという愚行を繰り返しています。しかし現代は、単に汗水垂らして働くだけでは金銭を容易に得ることが出来ない、複雑な社会構造となっています。 そこで真剣になって研究しなければならない事が、「不運とは何か」「不幸とは何か」という事であり、社会現象の根底を覗かない限り、不運・不幸の解消の糸口は見つからないのです。 不運・不幸を細かく検討すれば、その中に置かれている自分が、何故迷い、苦しみ、悩んでいるのかということが分かるはずです。もっと自分自身を見つめ直さなければなりません。「自分とは何か」と言う事を、真剣に模索しなければなりません。 人は、幸せに向かって一方通行の、幸福街道を驀進(ばくしん)しているかのように見えます。誰もがそう思っているに違いありません。しかし、この幸福街道を突っ走っていると思いながら、実は逆走している人が殆どなのです。正反対の方向に逆走していては、幸せになれはずもありません。 「人間は幸福の時には、偉大に見えるかも知れないが、真に向上するのは不運の時である」と言ったのは、ドイツの詩人シルレルでした。 人は各々の立場で、日常生活に起こりうる問題点を掘り下げ、その修復に向かって軌道修正する事が出来ます。そして不運あるいは不幸という事象の裏を返せば、幸福の始まりと理解する事が出来ます。陰が極まれば、陽に転ずるのがこの宇宙の理(ことわり)です。 ●あなたは金銭や物財以外に、何か違った誇れるものを持っているか 自分の人生を力強く生きて行く為には、毅然(きぜん)とした態度で何事も接したいものです。そして人間の持つ道義と道徳が、一つになるところの絶対善で、仲良く、平和に暮らし、そういうもので世の中は覆われて欲しいと誰もが願っています。 ところが歴史を見てみますと、そうばかりではありません。 善い事を行う人、あるいは正しい事を実行する人が幸福になり、逆に悪い人、不正行為を働く人、人に多大な損害と迷惑をかける人が不幸になればいいと思っています。間違えば、罰を受けるように、人生とはそうあって欲しいと誰もが思っています。 しかし世の中はそうなってはいません。 正しい人は正しい為に、善を行い人は道徳や道義を守る為に、かえって苦難の一生を送らねばならぬ、人生の縮図が、歴史の至る所で実例として残されています。既に、生きると言う事が、「苦悩」であると言う現実がここにあります。 さて、「恐れるものは皆来る」とはキリストの言葉です。臆病風に吹かれれば、やがて案じている事が増えて自分に降り掛かるものです。 また臆病は運気を下げ、卑怯未練は人格を下げ、目先に転べば人間性が失われます。こうした人間的素養も、運気には大きく関与する現実がこの世にはあります。 「運命」という文字を『広辞苑』(岩波書店)で引きますと、「人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。人生は天の命によって支配されているという思想に基づく。めぐりあわせとも」とあります。 総じて差し障りのない、一般的な、無難な解釈になっています。つまり「運の良さ」を言うのであろうと思われます。 だが「運が良い」とは、どういうことなのでしょうか。 恐らくこうした運勢論を支持する人は、何事も順風満帆(じゅんぷうまんぱん)に運び、各々が持ち得る運命が人生行路において一度も座礁(ざしょう)する事なく、己の都合通りに運んだとき、これを幸運というのでしょうか? しかし、これでは片手落ちも甚だしいではないでしょうか。 運命といえば、ベートーベンの交響曲『運命』を連想して、如何にも重々しく感じますが、これを文字の配列を逆にして「命運」と読み直せば、一段と分かりやすくなるのではないでしょうか。 命運とは「命を運ぶ」と解され、生まれて死ぬまでの人生行路の旅路において、人は自分の命を時間と共に運んでいるのです。 その路程は時空と共に、刻一刻と過ぎていき、この路程がラッキーに包まれた旅路であれば幸福であるといえますし、そうでなければ不幸といえるでしょう。 更に「運」という字を分析しますと、先にも述べた通り「軍」が「走る」と解釈する事が出来ます。つまり軍隊が走るのです。昔ならば槍や刀や弓矢でしょうが、現代ならば高性能銃を持った高度に訓練された軍隊でしょうか。こうした軍隊の流れを変える為には、命賭けの努力が必要です。 人間が、「自分」という実体に迫る時、自分と言うものは、自分の言う事を中々聞かない実に頑固者であると言う事に気付かされます。 ともすれば、私たちは「軍」が「走る」軍隊の流れを変える為に、先祖の力や、神仏の力や、甚だしくなれば占い師や祈祷師の力を借りて、この流れを変えようとしますが、こうした力は依頼者の願いを破れ易いチリ紙に包むようなもので、自らの運命は自らが切り開くべきもので、他人がどうこう出来るものではありません。 そこでもう一度、「幸福とは何か」、そして「不幸とは何か」ということを検討してみたいと思います。 人間にとって幸福とは、一切の「苦しみがない」と言うことです。逆に不幸とは「苦しみに満ちている」と言う事になります。 不幸の第一が、不健康であり、病気がちであるという事です。 第二が不安や、迷いや、悩みや、また焦りがあり、こうした事が自分で解決できないという事です。 第三が自分の取り巻きの環境が、豊かでなく、快適でなく、不便利であり、しかも悪い境遇の為に、何をやっても失敗ばかりで、小さい時から貧乏ばかりして、お金や物に不自由している事です。 第四が以上三つを総じて、山のような借金を抱え、日々新たに失望を感し、思考が低下し、何事にも無関心になり、つまらなくなって、愉(たの)しい人生を全うしたくとも、それが出来ず、毎日汲々とした生活を送っているという事です。 逆に、健康であり、安泰であり、金品などの豊かさが総べて揃い、これが充実して人生が全うできれば、幸福者と言えるし、そうでなければ、やはり不幸者となります。 しかし人間の運命と言っても千差万別です。 人間はこの世に生まれた時から、様々なハンディを背負わされています。ある人は富豪・資産家の家に生まれ、またある人は貧乏な家に生まれます。また、ある人は美男子で生まれ、ある者は醜男(ぶおとこ)で生まれます。女性に至っても、女優にしていいくらいの美女で生まれる人もいれば、醜女(しこめ)で生まれる人もいます。 知能や能力、素質や天分のバラつきも、そうです。賢い人もいれば、愚かな人もいます。ここに千差万別の縮図があります。この縮図に描かれた幸・不幸の判断は、前者を幸福とし、後者を不幸と定義します。 さて、大富豪でありたいという人生の幸福必要条件で考えれば、貧乏の星の許(もと)に生まれた人は、最初から不運という大きなハンディを背負っていることになります。 しかし、ここは考えようです。 果たして、資産家の子が親以上に出世して大富豪になったか、あるいは貧乏人の子が、世をはかなんで人生を諦めてしまったか、否、むしろこれは逆転している場合が少なくありません。何不自由なく、過保護に、温室で育った子弟が抵抗力は弱く、スタミナもバイタリティーも欠乏しています。 逆に不自由を積み重ねている人は、若くして苦労し、困難に打ち勝つ努力を重ねています。そして苦労を積んだ子弟の方が耐えぬく力は強く、バネもあり、雑草的だといえます。「人生総(すべ)て塞翁(さいおう)が馬」という言葉通り、人生には時としていろんな事が起こります。 運命は、逆転の繰り返しであるという事を胆に命じたものです。 |