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希望への哲学

 どんな境遇の苦境に立たされていても、「道は必ず開ける」と教えるのが、《癒しの杜の会》の信条とする「希望への哲学」の定義です。

 地獄のようなドン底を、いま這い回っていても、そこから這い上がろうと、真剣に努力する人は「希望」が与えられます。
 しかし、今のドン底の一局面を、辛い等と不満を言い、不平を洩らす人は、その生涯を通じて「墮落」と「敗北」と「困窮」が与えられます。

 現世の構造は、人生を工夫する「愛する想念」によって、現状が良くもなり、悪くもなる心理的なメカニズムが働きます。
 ところが愚者は、自分自身の境遇改善に、占い師や祈祷師を頼って、折角の人生の修行の試煉を台無しにします。

 人生の修行は、悪かったことを改め、良き想念を取り込むことにあります。こうした折角のチャンスに、他力本願で、安易に潰してしまうのは、愚の骨頂です。その為に、開けるはずだった道が閉ざされます。

 今日の憂
(うれ)いを、まだ来ても居ない明日によせて、不安を訴える人がいます。これは人生における、「今日の連続」を識(し)らない人です。また、今日の影法師にひきずられて、ありもしない恐怖に怯えている愚かな人の姿です。

 「今日」という、またとない「今日一日」を、暦
(こよみ)を捲(めく)って、日の善し悪しを占ったり、今日が吉日か厄日か、《運勢暦》や《九星気学早見表》を捲って、日取りを易断する人がいます。何と愚かなことではありませんか。

 今日とは、今日しなければならない人生に課題が与えられている今日一日であり、「今日」という、またとない今日一日を、こうした占いや方位で、潰してしまう人は、今日の連続である、人生をも潰してしまう人です。
 また「今日」を取り逃がす人は、自分の一生をも取り逃がしてしまう人です。

 「今」というこの一瞬は、一秒の集積であり、今を失う人は、今日一日を失う人であり、今日一日を失う人は、一生を棒に振ってしまう人なのです。人生の連続である、「今日一日」を、生涯、またとない吉日にするか、あるいは、どんなに恐ろしい危険が待ち構える厄日にするか、それはあなた自身の内側にあるのです。

 またとない今日一日を、暦に出ている厄日として嫌い、これに蓋
(ふた)をして、明日へと先送りしますと、あなたの抱える苦悩や迷いは、一生取り払うことが出来なくなってしまいます。

 もし、今あなたが、自身を不幸と思っているのなら、是非、このページを読破して、その解消法を見つけて下さい。
 不幸を消去する答えは、この中にあります。きっと、新たな打開策が見つかると思います。

 苦難は、
《幸福の門》と言うではありませんか。
 そして苦難の後に、
《幸福の門》が開かれるとも言います。




人は何故生まれてくるのか

 人間は何の為に生まれてくるのでしょうか。
 また、人の人生は多くの苦しみに満ちていますが、どうしてこんなに苦しみに満ちているのでしょうか。それを解く鍵は、私たちが心の中で齎(もたら)す「想念」にあったのです。「想念」が一日の中の一喜一憂を作り出し、「想念、が人生の喜怒哀楽を作り出しているのです。
 では「想念」とは何なのでしょうか。

 パウロの黙示録の冒頭には、
   人間は災いなり、
   罪人は災いなり、
   なぜ、彼等は生まれたのか。
  

 とあります。

 パウロは人間である事の「災い」を指摘しています。「想念」に迫る上で、パウロの言葉は重要な意味を秘めます。
 パウロ(Paulos)は、キリスト教をローマ帝国に普及するのに最も功の多かった伝道者です。彼はもと熱心なユダヤ教徒で、キリスト教徒の迫害に加わりましたが、復活したキリストに接したと信じて回心しました。生涯を伝道に捧げ、西暦64年頃ローマで殉教しています。
 そして、彼は「異邦人の使徒」と言われました。その書簡は『新約聖書』の重要な一部となっています。その書簡の中でも、最も有名なのが「ローマ人への手紙」です。

 パウロは見て来たままの事を書簡に認(したた)めます。そして黙示録の冒頭に、「人間は災いなり」を持って来ます。
 では、人間の齎す災いは、一体なんだったのでしょうか。この災いは、不運であり、不幸現象を捉えた言葉だったのです。パウロの言葉を借りれば、不運・不幸のエッセンスは、既に人間の心の裡(うち)に災いが内在されていると言うことを指摘しているのです。

 パウロに言わせれば、人間は災いなのです。人間のうちで、罪を何一つ犯さない者は誰一人としていないのです。だから災いが必然的に人間の方にやってきて、人間に、不幸を齎すと言うのです。

 「私は自分のしている事が分からない。私は自分のしている事をせず、むしろ自分の憎む事をするからである」(ローマ人への手紙」第七章15)

 パウロは人間の裡(うち)には罪が内在することを指摘します。
 そして黙示録の冒頭に並べられた「人間は災いなり」と、「罪人は災いなり」と同義語であり、人間は罪人なるが故に「災いを内在する」と言っているのです。

 さて、不運や不幸現象を捉える場合、これ等をある一点で捉えて思考することは出来ても、これを総合的に分析し、検討するのは極めて困難な難題でした。それは世の中の何処を探しても、「不幸」や「不運」について語っているものは、今までになかったからです。「幸せ」や「幸福」や「喜び」等について語るものは多くありますが、直接的に「不幸・不運」を指摘したものは皆無でした。

 しかし本ページは、災いの現象面をその深層部に掘り下げ、そこに焦点を当て、それを内面から凝視する形をとることにより、その原因究明の糸口を探り当てる事に、具体的に成功したのです。
 もし、今あなたが、「不幸だ」「不運だ」「何をやってもうまくいかない」「ついていない」とお思いでしたら、このページを最後までお読み下さい。

 また人生を諦め、借金地獄にもがき苦しんでいるようでしたら、その地獄から無事に生還出来るように正しい答えをこの中から見つける事ができると思います。

 更に、難病で苦しみ、意舎から見放されているような難病・奇病を患っているとしたら、これを解消するもっとも最短な近道をお教えします。解消法はこの中にあります。

 総じて、怪我、事故、事件、病気、家庭不和、不倫、離婚、倒産、天変地異、戦争などを「不幸現象」と言います。この中にはこうした不幸現象の数々を取り上げ、その解消法に迫ってみました。
 ちなみに「解消」と「解決」は哲学的に、根本から違っているので、この事は十分にご理解下さい。
 では、不幸現象の根本原因に迫って行く事にしましょう。



●不幸現象は何処からきたのか

 今まで、「幸せ」や「幸福」を題材にした、この手のものは多く存在しました。

 「こうすれば幸せになります」
 「こうすればお金持ちになります」
 「こうすれば成功出来ます」
 「こうすれば病気が治ります」  

 等の、こうしたことについて語ったものは多くありました。

 しかし、どれを実行しても、幸せにはならなかったし、必死で働いたのにお金持ちにもなれなかったとぼやいている人も少なくありません。また、努力したのに関わらず、成功はままならず、更に長年来苦しんでいた病気も完治する事はなかったし、あるいは未だに、不幸現象を引き摺っている方は多いのではないでしょうか。
 そして実行したが、「何の効果もなかった」「何の御利益もなかった」というような、厭世観に陥り、失望された方もいたのではなかったかと思います。

 では、何故効果がなく、何故御利益がなかったのでしょうか。それを解明する鍵は、この中にあります。
 巷間(こうかん)には「幸福論」に関する情報で満ち溢れています。しかしどの情報も、正しいものはありませんでした。間違いだらけの幸福論でした。では、どうして、間違いだらけだったのでしょうか。

 理由は簡単です。幸福について語っていますが、幸福と対峙(たいじ)する、不幸現象については何一つ語っていないからです。設定する目標がピント外れだったからです。
 このページでは不幸現象を徹底的に追求し、その原因を探ります。
 不幸現象から脱出する為には、不幸に関して、あるいは不運に関して、その原因を究明し、解消していく糸口を発見しなければなりません。

 巷間に出回る情報は、その多くが不運・不幸に対して、抽象的な「激励論」や「宗教論」で誘導している事が少なくありません。
 その為に、こうしたものを何度取り入れても、解決の糸口は見つからず、具体的な結論が見出せないのが実情です。どうすればいいか、具体的にも書いていません。多くは現象面を、単に統計的に要約したに過ぎず、「何故そうなったか」という根本の究明に迫っていません。

 また、九星気学や四柱推命術や西洋占星術等の「占い形式」で、幸福の統計学的資料に基づいて論(あげ)っている情報がありますが、多くは、統計的な枠組の中で、人間の持つ災いを、外的現象面だけを捉え、従ってそれを考え、裡(うち)に潜む悪因を、総合的かつ具体的に分析、あるいは解消法などについて何一つ語っていません。

 ある「占い書」等、無責任に「運命と因果律の法則」を上げ、「水子があるからその祟(たた)りだ」とか「先祖供養をしてないから、借金地獄に落ち込むのだ」とか「憎いと言う気持ちを持てば、呼吸器系の病気になる」等と、いかにも不明瞭な誘導で、人それぞれには、運命がある等と言い捨てます。

 そしてその欠陥は、こうした占い師の類が、金銭にほだされて易占の範疇(はんちゅう)を逸脱した、祈祷師や呪術師の類に成り下がり、人心を欺(あざむ)いていることです。結局、呪術・祈祷によって作り出された解決策は、全部金儲けの為の常套手段であり、巧みなウソであったと、最後には気付かされます。
 この世が呪術・祈祷によって救われるのなら、この世の中はもっと平和であり、活気が充ち、デフレ不況もなく、今日のように世の中は混沌とはしていないはずです。

 ところが、こうした手合いが持て囃(はや)され、詐欺擬いの占い商法に引っかかるのは、大半以上の人が、依頼心が強く、他力本願であるからです。そして解消の糸口を、自分で努力して見つけようとしないからです。解決の糸口は、外側にあるのではなく、あなた自身の心の裡側(うちがわ)にあるのです。
 そして、日の吉凶を運勢暦をめくって調べ、それによって行動するという愚かしい習慣を身に付けてしまっては、本当の今日一日の良き日を、あなた自身が取り逃がしてしまうのです。かくして「今日一日」は、暦によって判断され、暦によって厄日とされてしまうのです。

 苦悩から脱出する努力を、何故他人に頼り、そのウソの多い愚かな言に頼るのか!と言いたのです。
 また、素人判断で占の類に手を出し、これによって方位を占ったり、吉凶を占うのは禁物であり、特に素人にも親しみやすい統計分類から割り出した九星気学は、統計上分類された「言葉の暗示」によって、自分自身の持つ感性を狂わせ、想念を狂わせるものですから、その扱い方には厳重な注意を要します。くれぐれも、素人判断で、こうしたものを鵜(う)呑みにしないことです。

 素人の毛の生えた程度、あるいは自称セミプロ級と豪語する輩(やから)は、九星気学の「気学」が、実は、気違いの「気」であることを知しません。気違いの気は、「気狂い」の気であり、「気違い」は鬼界(きかい)に隣接した「鬼」を指すのです。したがって、これには充分に注意をしたいものです。

 その為、ある程度の独学・興味の類で、九星気学の大まかが理解できたとしても、本当の「気界」に行き着くことは中々できません。気界に到達したつもりが、実は「鬼界」に落ちていたということは決して珍しくないのです。気学で云う気界の「気」は、気違い学の「気」であることを胆に命じ、鬼界に落ちてしまうことを忘れてはなりません。

 九星によって吉凶を判断する占いの背後に絡むものは、人間の欲望と、それを実現する為の「吉」への願望です。人は自分の健康を願う一方で、他人の健康を呪い、隙あらば陥れようと画策します。人の心には、このように両義性を持ち、これこそが「魔」と言われるものであり、また「鬼」と言われる所以です。

 種々の占いには、人生に幸福を願う欲望と、他人には秘密にして行きたい呪う欲望の二面性があり、これこしが人の心に宿る魔性であり、この魔性が「気」と名の付く占象(うらかた)には、人為的なカラクリによって延々と蓄積されて来た形成があります。こうしたものに、素人が興味半分に近付くものではありません。そしてその表現型には、吉に転じるかと思えば凶に転じ、鎮めるかと思えば呪いに転じ、護るかと思えは脅しに転じるのです。果たして、素人が、こうしたものを扱いきれるでしょうか。

 本来、占いなるものは呪文化されていたのです。しかし、今日は願望と言うものが直截な願いに直接的な働きかけになりました。これは非常に危険なことを意味します。そして多様な思いが、魔界化される傾向にあります。

 神社仏閣に詣でただけでも、そこに掲げられているものは、まさに人間の欲望です。家内安全、商売繁盛、病気治癒、子宝授与、交通安全、入試合格、恋愛成就、無病息災、安産祈願、受験合格、学業向上、夜泣き封じ、水子供養、縁切祈願、不況脱出、景気回復、五穀豊穣、豊年満作等が祈られています。
 しかし、こうした願望の裏には、それ相当の他への裏返しになった、「呪う」という両義性があり、一方を欲して他方を受け入れないでは、この願望は成就しないのです。そこに願望思想の盲点が隠れていることを知らねばなりません。つまり、他を圧っして「自分だけよければよい」という考え方であり、他人の為に祈願し、あるいは祈念すると言うものではないからです。

 自分だけよければよいと言う、これに使われたエネルギーは、やがてその裏返しとなって、自分自身に跳ね返って来ます。これがつまり「不幸の根源」です。不幸の実体は自分だけよければ、他はどうなっても構わないと言う利己的なことが起因して、不幸が表面化して来るのです。
 自他同根の考え方からすれば、他を差し置いて自分だけ他人取り一歩先に出て、幸せになろうとする行為自体が、つまり不幸の始まりと言えるでしょう。

 人間の想念は、深層域で同根として繋がっているのですから、自分が念ずることは、一時的に他人との裏返しの現象として顕われ、自分が幸福であれば、他人は益々不幸になると言うのが今日の資本主義市場経済には有り、この支配下において、相対的に幸・不幸が顕われていると言わねばなりません。つまり、自分と自分の家族だけの幸福は、他人と他人の家族の不幸を意味し、これは時を経て自分に跳ね返って来るというのが、「巡り」の現象のメカニズムです。
 その最たるものが、「祈願」や「占い」と言う、自分一人の幸せ、自分の内輪のみに幸せを願った利己的な思考です。これに考え方が傾斜した時、人はその後で、とんでもないしっぺ返しを受けることになります。

 人間が運命の陰陽に支配されて生きる生き物ですから、この支配から制約を受けないと云う人は殆ど居ません。多くに人が陰陽に支配され、好調と不調を繰り返しています。

 あなたは、卜占者(ぼくせんしゃ)が、願望成就と共に、それに似合うだけの呪いの代償を求めていることを、ご存じだったでしょうか。
 他力の助言で「動く」と言うことは、実は、こうした意味合いも含まれていたのです。