●《癒しの杜の会》とは 禍(わざわい)を逃れ、苦しみから脱却して「幸せに生きたい」と願うのは、誰もが持つ同一の願いです。しかし誰もがこうした希望を抱きながら、これが成就出来ているでしょうか。 世の中を見回してみますと、「ヤミ」は公然と存在し、ヤミによって多少の悪事を仕出かしても構わないと言う風潮があります。 政治の世界でも、経済の分野に於いても、腐敗や墮落が罷(まか)り通り、国会での報告は常に嘘(うそ)が蔓延(まんえん)していて、経済を見ても生存競争や競争原理の働く資本主義の世では、故意に作成された経済の目安が、その景気動向の目標になっています。何から何まで、作為の許(もと)に、仕掛ける側と仕掛けられる側の鬩(せめ)ぎ合いが、社会構造の根底があるように思われます。 嘘(うそ)と作為が蔓延(まんえん)する世の中では、やがてその民族は崩壊に向かいます。一度、嘘の味を知り、弱い者を搾取(さくしゅ)する横柄の癖(くせ)がつけば、正義を全うするとか、勤勉に働くとかの熱意が失われ、善を為(な)す者はいなくなります。ここにあるのは滅びの道だけになってしまいます。 パウロの黙示録の冒頭には、 人間は災いなり、 罪人は災いなり、 なぜ、彼等は生まれたのか。 とあります。 また、パウロは言います。 「義人は居(い)ない、一人も居ない。悟る者が居ない、神の求める者が居ない。みな道に迷って、みな腐れ果てた。善を行う者は居ない、一人も居ない」(「ローマ人への手紙」第三章10〜12) この件(くだり)は「善人なし、一人だになし、善をなす者なし、一人だになし」という書き出しで有名です。 ではパウロに、何故、ここまで激しい口調で言わしめたのでしょうか。 それは人間の心の裡側(うちがわ)に「ヤミ」なる部分が存在するからです。そして人々は今、ヤミなる衰亡の道を急速な勢いで下っているのではないでしょうか。 ここに現代社会の病める所があり、人間が不幸現象を齎(もたら)す元凶があります。 さて《癒しの杜の会》は、こうした不幸現象を解消する為に如何の8つの命題に取り組み、自らの努力によって、日常生活を創意と工夫によって未来を切り拓(ひら)く事を目的として活動している相互扶助の会です。 |
《癒しの杜の会》の掲げる8つの命題
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1.
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食養を通じて相互扶助を行い、「体質改善」をはかると共に、これまでの様々な悪想念を断ち切り、運勢を好転させる事を目的とする。 | ||||||
2. | 経済相互扶助を行い、貧困の起因を追求して、もし今、貧困で苦しんでいるのならこの具体的な解消策を教示する。 | ||||||
3. | 人体は「食の化身である」という思想を大前提に、あらゆる不幸現象を、食事の改善によって好ましい方向へと進歩させる。玄米正食を実践し、また肉体を鍛える修法として、「福知山登山」をフォー・シーズン(春・夏・秋・冬)ごとに実践する。 人間が弱り始める箇所は、「足」である。足を鍛えない人は、その晩年が惨じめである。「今、この一瞬」を真剣に生きる為に、是非とも、足は鍛えておきたい箇所の一部である。
※詳細は洗心錬成会のHPを参照。 |
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4. | 病気は種々の悪想念が招いた現象人間の事象である。悪想念の招来した想念の中には憑衣が招いた「ガン疾患」があり、憑衣と憑霊が招いた「精神障害」がある。これらは最先端を自称する現代医学を以てしても、完全に完治させることは出来ない。したがってこれを解消する手段として《霊導法》なる《癒しの杜の会》が得意とする不成仏霊の悟りを促す方法を用いて以上の不幸現象を、金輪際(こんりんざい)解消する法を用いる。 | ||||||
5. | 《癒しの杜の会》は霊界を命題として不幸現象を取り除く主旨は持っているものの、宗教団体では談じてない。したがって教義もなければ、信仰もない。ただあるのは、固定観念に惑わされて今迄に積み上げた先入観を捨て去る為の、具体的は方法論である「間違った固定観念」の消却である。不幸現象の元凶は、こうした様々な悪想念が齎した自他離別の意識が病気をや怪我や事故を引き寄せているのである。安易に抱く固定観念から生まれた悪想念を、直ちに消去すれば、人が誰でも倖(しあわせ)になれるのである。 | ||||||
6. | この世の現象世界は、可視世界(肉体の五官で感じる範囲)のみならず、不可視世界が大きく関与している。現象世界は一部を微視的に見つめても、全体の仕組みは見通す事が出来ず、不可視世界までも「見通す」ことが出来て、はじめて宇宙の仕組みが分かると言うものである。《癒しの杜の会》はこの仕組みを真摯に見つめ、宇宙玄理に則した生き方を成就することを目的とする。 | ||||||
7. | 人間の目的は、人生を全うする事だけが、その目的ではない。人生はあくまで生きて行く為の、単なる手段に過ぎない。人生を目的と考えるから種々の不幸現象が発生し、人と人が争う競争原理の資本主義の過酷な競争の中に身を置かねばならず、ここに肉体的精神的な種々の憑衣・憑霊現象が派生する。 魂は永遠であり、はじまりのない次元から、終わりのない次元まで永遠に連続しているのである。その中で人間の魂は進化する命題を所有し、この命題こそが真当(ほんとう)の目的である。 |
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8. | 心像化現象を実生活に応用する。世の中の多くの成功者達は人間の心の働きを知っていて、これを実生活に応用した人達である。心に描き、それを想念すれば、その結果は必ず未来に現れて来ると言うのが、心像化現象の秘密であり、心の造り方を、明瞭(めいりょう)な生き生きとした希望に満ちた歓喜の伴った未来像に形成していくのである。 |
以上の8つの命題を掲げて《癒しの杜の会》は健康増進の為に活動する団体であり、私たちは近年に至り、人間として生きる価値観を物質文明に求め過ぎた観があります。物質文明の発展は副守護神を旺盛にして、正守護神を消極的にし、その活動を封じ込めてしまう世界ですから、人間の思考は拡散・膨張の方向へと向かいます。しかしそれは、右回りの西洋流の思考と処世術で世界が動きますから、結局、物質文明は文明そのものを「文迷」へと誘ってしまう欠点を持っています。 昨今多発する種々の不幸現象は、あまりにも副守護神(ふくしゅごしん)旺盛な、物質的価値観だけを求めた結果であり、この事が人類に拝金主義や金銭至上主義を齎(もたら)しました。ここにこそ、不幸現象の元凶があります。 そして多くの人々は、資本主義の輪廻の輪の中に閉じ込められ、この輪から一歩も外に出る事が出来ない人生を余儀無くされています。これはまるで、ケージ飼いされている鶏か、狭い檻(おり)の中に閉じ込められてしまった牛か豚の生活と少しも変わりません。 牛や豚などの動物は、生まれながらに、肥らされ、やがて喰われてしまうという輪の中から、一歩も外に抜け出す智慧(ちえ)を知りません。 動物は心配事も無さそうだし、「良い」と言う人がいます。人間のように苦しみがないから、動物に生まれても「悪くない」と言う人がいます。しかし果たしてそうでしょうか。 こうした考え方は動物の「生の本質」を見ないで末端だけを捕らえた考え方です。 例えば海に住む動物の事を考えてみて下さい。果たして彼等は一切の心配事がなく、苦しみや悲しみはないものなのでしょうか。 生まれたばかりの、魚や貝や亀は隙(すき)があれば、それよりも大きな動物に食べられてしまいます。これよりもっと小さな小動物でも同じです。大きな動物は小さな動物を食べ、小さな動物は大きな動物の傍(そば)にへばりついて躰(からだ)の窪(くぼ)みを食い荒らします。そして彼等は食物連鎖の輪の中にあって、この輪の中から一歩も外に出る事ができません。 他の動物を食べ、また、自らも他の動物の餌食(えじき)となっていきます。それどころか、この連鎖の輪の中から抜け出す智慧(ちえ)も持ち合わせません。 陸に住む動物でも同じです。他の動物に食べられたり、人間に殺されて食べられます。あるいは使役される事から免れません。いつも警戒してビクビクしていなければならず、耳や眼で周囲の警戒が怠れません。この間、ゆっくりと寛(くつろ)ぐ時間さえありません。 特に人間に殺され、使役されている動物達は自分の自由と言うものを生まれながらにして奪われています。羊は羊飼いに飼われて毛を奪われます。虎や熊や銀狐は人間に狙い撃ちされて、毛皮を奪われます。医療の研究施設や大学病院で飼われている二十日鼠やモルモット、ウサギや犬などは、自らの命を捧げて現代医療に奉仕させられています。こうして動物達は、人間の欲望を満足させる為に殺されていくのです。 しかし最初から殺されて肉と取られる為に飼われている動物達は、更に哀れです。彼等は殺される為に生まれ、育てられているからです。こうした動物達は、自由を奪われ、こうした状態にありながらも、そこから抜け出す事ができません。殺される運命を、自分でどうしたら良いか、分からないのです。 こうした動物に言える事は、自らの心が曇らされ、愚かさや果てしない無智の為に、現在の苦しみの中にありながらも、その中で埋没する事に何の疑問も抱かないのです。 これは現代人が物質文明の基礎を作り上げた、資本主義社会の中で消費の為の消費を繰り返し、それに対して何の疑問も抱かない現実と酷似しています。 近代資本主義を極度に発達させた金融経済の中で、「契約」というプロテスタンニズムを安易に享受し、借金漬けにされて死ぬまでラットレースに与(くみ)され得ている労働者の構図によく似ています。この点においては、現代人は、まさに動物の食物連鎖と酷似し、支配階級の餌食に被支配階級の人間が「喰(く)われている」という現実が起こっているのです。そしてこの食物連鎖と同様の輪の外に一歩も抜け出す事が出来ないでいるのです。マイホームを構え、高級乗用車に乗っていても、その実態は借金であり、この借金を払い続ける為に一生働き続けなければなりません。 特に、契約社会での信用保証が許されたサラリーマンは、ボーナス等を当てにして何等かの大ローンを組み、それを支払う為に一生働き続けます。多少のお金が剰(あま)ればこれを銀行に預金し、足らなくなれば銀行系のVISAカード等から借金をして買物をしたり、旅行やレジャー等のうつつを抜かします。そして最も哀れな事は、大ローンで建てたマイホームやマイカーを自分の資産と思っている事です。ここに悲劇の元凶があります。 この悲劇だけを考えれば、まさに動物以上の苦しみと悲しみを背負っている事になります。 そして、このラットレースに与(く)されている信用保証が許されたサラリーマンは、「よき労働者」であるかも知れませんが、決してよき金銭哲学の持ち主ではありません。 また曇らされている点にしても、動物のそれか、それ以上で、資本主義や民主主義の巧妙な仕掛けの裏側を見抜けない無知が同居し、しかもその中に埋没する人生を選択しています。 これを、人間に食べられる為に飼い殺しされる「牛」に当て填(は)めてみて下さい。牛を飼う牛飼いは支配階級であり、牛そのものは被支配階級です。牛飼いは自分で牛を食べる為に、牛を飼うのではありません。牛を少しでも高く売る為に、手間暇を掛け、これを高額な値段で第三者に売り渡すのです。 仔牛(こうし)は生まれると、六カ月までは抗菌性物質製剤を投与されます。これは人間に例えるならば高栄養の粉ミルクか、母親の母乳(現代人の母乳の要素の多くは動蛋白によって構成されている)に当たります。仔牛は肥りを速くする為に、こうした製剤が使われ、即席優良児を作ろうとする現代育児の考え方に酷似します。 現代人が大自然の厳しさや雄大さを忘れ、畏敬の念が薄らいでいるように、仔牛達も牛飼いの思惑に従ってケージ飼いが試みられます。このケージ飼いこそ、母親の溺愛(できあい)から起こる「過保護」であり、仔牛もこれと似た環境で育てられます。なるべく危険な動きや行為は制限され、できるだけ動かないようにして育てられる人間社会の幼児達は、仔牛が骨を細くされ、肉の「歩留(ぶど)まり」を狙う牛飼いの思惑を狙う、過保護な母親と酷似します。牛飼い達は、肉をつける為に、徹底した管理を試みます。食欲を出させる為にビールを飲ませ、焼酎で躰を拭いてやります。
これを人間の世界に例えるならば、マイホームにおける食事管理と、豊かに快適に便利に暮らしていく為のエアコンシステムに似ています。快適な環境の中で知識を詰め込み、学歴・学閥社会に少しでも有利な条件で大企業に、我が子を売り込みたいと考えるのは、まさに牛飼いの少しでも高く、自分の牛を第三者に買い取ってもらいたいと言う、利潤追求の思惑と酷似します。 |