●《癒しの杜の会》とは

 禍(わざわい)を逃れ、苦しみから脱却して「幸せに生きたい」と願うのは、誰もが持つ同一の願いです。しかし誰もがこうした希望を抱きながら、これが成就出来ているでしょうか。
 世の中を見回してみますと、「ヤミ」は公然と存在し、ヤミによって多少の悪事を仕出かしても構わないと言う風潮があります。

 政治の世界でも、経済の分野に於いても、腐敗や墮落が罷(まか)り通り、国会での報告は常に嘘(うそ)が蔓延(まんえん)していて、経済を見ても生存競争や競争原理の働く資本主義の世では、故意に作成された経済の目安が、その景気動向の目標になっています。何から何まで、作為の許(もと)に、仕掛ける側と仕掛けられる側の鬩(せめ)ぎ合いが、社会構造の根底があるように思われます。

 嘘(うそ)と作為が蔓延(まんえん)する世の中では、やがてその民族は崩壊に向かいます。一度、嘘の味を知り、弱い者を搾取(さくしゅ)する横柄の癖(くせ)がつけば、正義を全うするとか、勤勉に働くとかの熱意が失われ、善を為(な)す者はいなくなります。ここにあるのは滅びの道だけになってしまいます。

   パウロの黙示録の冒頭には、

  人間は災いなり、
  罪人は災いなり、
  なぜ、彼等は生まれたのか。
                とあります。

 また、パウロは言います。
 「義人は居(い)ない、一人も居ない。悟る者が居ない、神の求める者が居ない。みな道に迷って、みな腐れ果てた。善を行う者は居ない、一人も居ない」(「ローマ人への手紙」第三章10〜12)

 この件(くだり)は「善人なし、一人だになし、善をなす者なし、一人だになし」という書き出しで有名です。
 ではパウロに、何故、ここまで激しい口調で言わしめたのでしょうか。

 それは人間の心の裡側(うちがわ)に「ヤミ」なる部分が存在するからです。そして人々は今、ヤミなる衰亡の道を急速な勢いで下っているのではないでしょうか。
 ここに現代社会の病める所があり、人間が不幸現象を齎(もたら)す元凶があります。

 さて《癒しの杜の会》は、こうした不幸現象を解消する為に如何の8つの命題に取り組み、自らの努力によって、日常生活を創意と工夫によって未来を切り拓(ひら)く事を目的として活動している相互扶助の会です。

《癒しの杜の会》の掲げる8つの命題
1.
 食養を通じて相互扶助を行い、「体質改善」をはかると共に、これまでの様々な悪想念を断ち切り、運勢を好転させる事を目的とする。
2.  経済相互扶助を行い、貧困の起因を追求して、もし今、貧困で苦しんでいるのならこの具体的な解消策を教示する。
3.  人体は「食の化身である」という思想を大前提に、あらゆる不幸現象を、食事の改善によって好ましい方向へと進歩させる。玄米正食を実践し、また肉体を鍛える修法として、「福知山登山」をフォー・シーズン(春・夏・秋・冬)ごとに実践する。
 人間が弱り始める箇所は、「足」である。足を鍛えない人は、その晩年が惨じめである。「今、この一瞬」を真剣に生きる為に、是非とも、足は鍛えておきたい箇所の一部である。

福知山
福知山山頂にて

 詳細は洗心錬成会HPを参照。

4.  病気は種々の悪想念が招いた現象人間の事象である。悪想念の招来した想念の中には憑衣が招いた「ガン疾患」があり、憑衣と憑霊が招いた「精神障害」がある。これらは最先端を自称する現代医学を以てしても、完全に完治させることは出来ない。したがってこれを解消する手段として《霊導法》なる《癒しの杜の会》が得意とする不成仏霊の悟りを促す方法を用いて以上の不幸現象を、金輪際(こんりんざい)解消する法を用いる。
5.  《癒しの杜の会》は霊界を命題として不幸現象を取り除く主旨は持っているものの、宗教団体では談じてない。したがって教義もなければ、信仰もない。ただあるのは、固定観念に惑わされて今迄に積み上げた先入観を捨て去る為の、具体的は方法論である「間違った固定観念」の消却である。不幸現象の元凶は、こうした様々な悪想念が齎した自他離別の意識が病気をや怪我や事故を引き寄せているのである。安易に抱く固定観念から生まれた悪想念を、直ちに消去すれば、人が誰でも倖(しあわせ)になれるのである。
6.  この世の現象世界は、可視世界(肉体の五官で感じる範囲)のみならず、不可視世界が大きく関与している。現象世界は一部を微視的に見つめても、全体の仕組みは見通す事が出来ず、不可視世界までも「見通す」ことが出来て、はじめて宇宙の仕組みが分かると言うものである。《癒しの杜の会》はこの仕組みを真摯に見つめ、宇宙玄理に則した生き方を成就することを目的とする。
7.  人間の目的は、人生を全うする事だけが、その目的ではない。人生はあくまで生きて行く為の、単なる手段に過ぎない。人生を目的と考えるから種々の不幸現象が発生し、人と人が争う競争原理の資本主義の過酷な競争の中に身を置かねばならず、ここに肉体的精神的な種々の憑衣・憑霊現象が派生する。
 魂は永遠であり、はじまりのない次元から、終わりのない次元まで永遠に連続しているのである。その中で人間の魂は進化する命題を所有し、この命題こそが真当(ほんとう)の目的である。
8.  心像化現象を実生活に応用する。世の中の多くの成功者達は人間の心の働きを知っていて、これを実生活に応用した人達である。心に描き、それを想念すれば、その結果は必ず未来に現れて来ると言うのが、心像化現象の秘密であり、心の造り方を、明瞭(めいりょう)な生き生きとした希望に満ちた歓喜の伴った未来像に形成していくのである。

 以上の8つの命題を掲げて《癒しの杜の会》は健康増進の為に活動する団体であり、私たちは近年に至り、人間として生きる価値観を物質文明に求め過ぎた観があります。物質文明の発展は副守護神を旺盛にして、正守護神を消極的にし、その活動を封じ込めてしまう世界ですから、人間の思考は拡散・膨張の方向へと向かいます。しかしそれは、右回りの西洋流の思考と処世術で世界が動きますから、結局、物質文明は文明そのものを「文迷」へと誘ってしまう欠点を持っています。

 昨今多発する種々の不幸現象は、あまりにも副守護神(ふくしゅごしん)旺盛な、物質的価値観だけを求めた結果であり、この事が人類に拝金主義や金銭至上主義を齎(もたら)しました。ここにこそ、不幸現象の元凶があります。
 そして多くの人々は、資本主義の輪廻の輪の中に閉じ込められ、この輪から一歩も外に出る事が出来ない人生を余儀無くされています。これはまるで、ケージ飼いされている鶏か、狭い檻(おり)の中に閉じ込められてしまった牛か豚の生活と少しも変わりません。

 牛や豚などの動物は、生まれながらに、肥らされ、やがて喰われてしまうという輪の中から、一歩も外に抜け出す智慧(ちえ)を知りません。

 動物は心配事も無さそうだし、「良い」と言う人がいます。人間のように苦しみがないから、動物に生まれても「悪くない」と言う人がいます。しかし果たしてそうでしょうか。

 こうした考え方は動物の「生の本質」を見ないで末端だけを捕らえた考え方です。
 例えば海に住む動物の事を考えてみて下さい。果たして彼等は一切の心配事がなく、苦しみや悲しみはないものなのでしょうか。

 生まれたばかりの、魚や貝や亀は隙(すき)があれば、それよりも大きな動物に食べられてしまいます。これよりもっと小さな小動物でも同じです。大きな動物は小さな動物を食べ、小さな動物は大きな動物の傍(そば)にへばりついて躰(からだ)の窪(くぼ)みを食い荒らします。そして彼等は食物連鎖の輪の中にあって、この輪の中から一歩も外に出る事ができません。
 他の動物を食べ、また、自らも他の動物の餌食(えじき)となっていきます。それどころか、この連鎖の輪の中から抜け出す智慧(ちえ)も持ち合わせません。

 陸に住む動物でも同じです。他の動物に食べられたり、人間に殺されて食べられます。あるいは使役される事から免れません。いつも警戒してビクビクしていなければならず、耳や眼で周囲の警戒が怠れません。この間、ゆっくりと寛(くつろ)ぐ時間さえありません。

 特に人間に殺され、使役されている動物達は自分の自由と言うものを生まれながらにして奪われています。羊は羊飼いに飼われて毛を奪われます。虎や熊や銀狐は人間に狙い撃ちされて、毛皮を奪われます。医療の研究施設や大学病院で飼われている二十日鼠やモルモット、ウサギや犬などは、自らの命を捧げて現代医療に奉仕させられています。こうして動物達は、人間の欲望を満足させる為に殺されていくのです。

 しかし最初から殺されて肉と取られる為に飼われている動物達は、更に哀れです。彼等は殺される為に生まれ、育てられているからです。こうした動物達は、自由を奪われ、こうした状態にありながらも、そこから抜け出す事ができません。殺される運命を、自分でどうしたら良いか、分からないのです。

 こうした動物に言える事は、自らの心が曇らされ、愚かさや果てしない無智の為に、現在の苦しみの中にありながらも、その中で埋没する事に何の疑問も抱かないのです。
 これは現代人が物質文明の基礎を作り上げた、資本主義社会の中で消費の為の消費を繰り返し、それに対して何の疑問も抱かない現実と酷似しています。

 近代資本主義を極度に発達させた金融経済の中で、「契約」というプロテスタンニズムを安易に享受し、借金漬けにされて死ぬまでラットレースに与(くみ)され得ている労働者の構図によく似ています。この点においては、現代人は、まさに動物の食物連鎖と酷似し、支配階級の餌食に被支配階級の人間が「喰(く)われている」という現実が起こっているのです。そしてこの食物連鎖と同様の輪の外に一歩も抜け出す事が出来ないでいるのです。マイホームを構え、高級乗用車に乗っていても、その実態は借金であり、この借金を払い続ける為に一生働き続けなければなりません。

 特に、契約社会での信用保証が許されたサラリーマンは、ボーナス等を当てにして何等かの大ローンを組み、それを支払う為に一生働き続けます。多少のお金が剰(あま)ればこれを銀行に預金し、足らなくなれば銀行系のVISAカード等から借金をして買物をしたり、旅行やレジャー等のうつつを抜かします。そして最も哀れな事は、大ローンで建てたマイホームやマイカーを自分の資産と思っている事です。ここに悲劇の元凶があります。

 この悲劇だけを考えれば、まさに動物以上の苦しみと悲しみを背負っている事になります。
 そして、このラットレースに与(く)されている信用保証が許されたサラリーマンは、「よき労働者」であるかも知れませんが、決してよき金銭哲学の持ち主ではありません。

 また曇らされている点にしても、動物のそれか、それ以上で、資本主義や民主主義の巧妙な仕掛けの裏側を見抜けない無知が同居し、しかもその中に埋没する人生を選択しています。
 これを、人間に食べられる為に飼い殺しされる「牛」に当て填(は)めてみて下さい。牛を飼う牛飼いは支配階級であり、牛そのものは被支配階級です。牛飼いは自分で牛を食べる為に、牛を飼うのではありません。牛を少しでも高く売る為に、手間暇を掛け、これを高額な値段で第三者に売り渡すのです。

 仔牛(こうし)は生まれると、六カ月までは抗菌性物質製剤を投与されます。これは人間に例えるならば高栄養の粉ミルクか、母親の母乳(現代人の母乳の要素の多くは動蛋白によって構成されている)に当たります。仔牛は肥りを速くする為に、こうした製剤が使われ、即席優良児を作ろうとする現代育児の考え方に酷似します。

 現代人が大自然の厳しさや雄大さを忘れ、畏敬の念が薄らいでいるように、仔牛達も牛飼いの思惑に従ってケージ飼いが試みられます。このケージ飼いこそ、母親の溺愛(できあい)から起こる「過保護」であり、仔牛もこれと似た環境で育てられます。なるべく危険な動きや行為は制限され、できるだけ動かないようにして育てられる人間社会の幼児達は、仔牛が骨を細くされ、肉の「歩留(ぶど)まり」を狙う牛飼いの思惑を狙う、過保護な母親と酷似します。牛飼い達は、肉をつける為に、徹底した管理を試みます。食欲を出させる為にビールを飲ませ、焼酎で躰を拭いてやります。

近代資本主義社会は不可解な現象は、動物を食べる信仰により、現代人が真に求めなければならない精神文化を疎外している。現代人は何ゆえ、仏典では保護しなければならない牛や豚などの動物を食べるのだろうか。

 一方、鯨の捕獲禁止や調査捕鯨に反対する運動は、いったい誰の差し金なのだろうか。鯨が知能が高いから殺してはならないと言う一方で、牛や豚は知能が低いかた食べてもよいという考え方がある。知能が高ければ食べてはならず、知能が低い方食べてよいというのは、一体どういう道徳から来るのだろうか。

 ここに資本主義の総本山である、アメリカの意向が、現代人の食生活に働いていることは間違いなさそうである。かれらは何ゆえ日本人までの食生活に口を出し、コントロールしようとするのであろうか。
 その際たるものが、国連の国連食糧農業機関
(FAO/Food and Agriculture Organization of the U.N)指導する食糧政策である。世界の食糧および農業問題の恒久的解決を図ることを目的とするというこの国際機関は、「鶏卵」を基準値に起き、動蛋白摂取を大いに奨励している。

 これを人間の世界に例えるならば、マイホームにおける食事管理と、豊かに快適に便利に暮らしていく為のエアコンシステムに似ています。快適な環境の中で知識を詰め込み、学歴・学閥社会に少しでも有利な条件で大企業に、我が子を売り込みたいと考えるのは、まさに牛飼いの少しでも高く、自分の牛を第三者に買い取ってもらいたいと言う、利潤追求の思惑と酷似します。

 人間も、高校大学の受験期には、牛の肥育期と同じような事が試みられます。
 肥育期に入った牛は、快適な牛房では餌は喰い放題となります。常に濃厚飼料と水がベルトコンベアー上を流れていて、それを牛達はせっせと腹の中に収めていきます。そこに流れているものは餌としては高級な、大麦やフスマや大豆粕(だいずかす)です。
 その上に、良質の乾草(ほしぐさ)が間断なく与えられます。牛が余念なくこうした餌が食べられるように、牛房は静かに保たれ、薄暗く、餌を食べる事だけが専念できるようになっています。それでも牛飼いは更に牛に食べさせようとして、無理矢理ビールを注ぎ込みます。

 人間の、現実には殆ど役に立たない、知識知識の連続で、知識を詰め込む事で賢くなった錯覚を抱かせる現代社会を彷佛(ほうふつ)とさせます。
 一方、牛は高値で販売しようとする牛飼いの思惑があって、第三の栄養源の秘密兵器である、「甘酒」を飲ませる方法や、密かに抗生物質を与えると言う遣り方が試みられます。人間の受験勉強や、就職試験を受ける為の最後の追い込みに状態によく似ています。

 肥育後期の入ると、餅米が与えられ、黒砂糖が与えられます。受験を控えた受験生の面倒を見る過保護な母親の構図に酷似します。牛は焼酎で躰(からだ)を拭かれ、マッサージされて、塩が与えられ、肉の色をよくする為に、今度はカルシウムが一日に50グラム程を与えられます。ここまでされて、肥らなければ、本当にどうかしています。

 仕上げ期に入ると、一日に700グラムの割り合いで肥らされていきます。もはやここまでくると、牛が庇護(ひご)されるべき、一つの生命体として扱われているのではなく、単に物質的な機械として扱われている事が分かります。何が何でも肥らされ、一円でも高く売れる為の、牛飼いの欲が絡んだモノとしての忌(いま)わしさがあります。もう、ここには生命と言う尊厳はありません。

 常に濃厚な餌が与えられ、多種多様の抗生物質が投与され、ビタミンやリジン等が与えられます。上質の乾草が与えられ、ビールに焼酎と言ったものまでが与えられ、甘酒や黒砂糖までが与えられます。更には酵母菌まで与えられ、牛そのものの動物の体臭を消す為に、様々な抗生物質が、これでもか、これでもかと牛の口の中に押し込まれます。こうして一円でも高く売る為に、あらゆる手段が講じられ、結局、最終的には二、三歩と歩けない巨大に肥満した「歩留(ぶど)まり」の牛が人為的に完成します。

 まさに学歴や学閥を引っさげた、就職試験に良い条件を少しでも勝ち取り、有利な条件で就職をすると言う人間の脳力の売買によく似ています。
 牛の場合は第三者に高値で買われて数時間後には屠殺(とさつ)されるのですが、人間の売り込みはこれからが飼い殺しの第一歩となる為、この一歩を踏み出した途端に契約社会の一員にされて、借金漬けの第一歩が始まり、資本主義の競争社会に放り込まれ、ラットレースに与される事が決定されてしまいます。ある意味で、こうした事を背景に借金漬けされて人生を奔走しなければならないのですから、苦しみは牛以上かも知れません。

 牛の屠殺は、牛が屠殺を敏感に感知した時から牛自身の苦悩が始まります。牛の感覚器官は人間以上に敏感であり、屠殺の数週間前にその死期を悟ると言われています。牛は嗅覚に優れ、聴覚に優れている動物で、自身の運命を悟る能力があると言われます。そして出荷の当日ともなると、トラックに乗せようとしても、これに中々乗ろうとはせず、牛飼いを手こずらせます。僅か一日で50キログラムも肉が落ちるといわれています。それは死との格闘による疲労もあるでしょうが、死の恐怖が牛自身の気持ちを苛(さいな)むと言われています。

 この時、牛は自らを反芻(はんすう)します。何の為に今まで肥らされてきたのかを、そしてどういう理由で餌を詰め込まれてきたのを。
 牛自身が鋭い嗅覚と聴覚を以て、それを駆使して「何故だったか」という我が身の人生を反芻するのです。我が身を構築する霜降の肉は人間に最初から食べられる為の、人間が作った人造のものであったと気付きます。濃厚飼料と抗生物質群と、夥(おびただ)しい数に昇る医薬品とビールや、焼酎、甘酒、黒砂糖。そして人間は何故、牛を喰うのだろうかと思います。

 牛を一つの機械として飼うのは明かに邪道です。しかしこうした邪道で育てられた肉の珍味と称されるこの肉を、珍重する人間が、またいるから牛はこうして機械のような方法で育てられ、人間の飽くなき美食への食欲の犧牲になるのです。非情なる牛の飼育。牛の薬漬け。どこか人間社会の矛盾が、ここには蔓延(まんえん)しています。

 この世の中には、一つの物ばかりに固執する現実があります。食べるものに偏(かたよ)る人間の美食へのおぞましさがあります。こうした動物を食べる食文化は、利潤追求の為に研究に研究を重ね、肥育するという「企業秘密」という秘密主義をつくり出したばかりでなく、これを維持する事で富みが独占できると言う資本主義社会のもう一つの恥部に人間の欲望は翻弄(ほんろう)されているからです。

 ユダヤ教の『タルムード』の中には、盛んに「ゴイム」と云う言葉が登場します。「ゴイム」とは「豚」という意味です。肥らされ、最後には喰(く)われる媒体を「ゴイム」と言います。
 豚の飼育について述べますと、豚は非常に狹い檻(おり)の中で喰いたい放題に食わされます。この豚の入る檻は、回転も出来ない程狭い檻で、急激に肉だけをつける飼い方がされます。まさに鶏のケージ飼いにも匹敵する飼い方で、骨を太らせず、肉が多くつくように飼います。こうした飼い方をされた豚は、外に出しても自力では数歩と歩けず、ブロイラーにも匹敵します。出来るだけ骨が細くなるように育てられ、枝肉にした時に「歩留まり」を考えるからです。したがって、歩かせるとちょっとした事で骨折してしまいます。だから出来るだけ動けないように、動きを少なくして肉だけが人間に持ち去られているのです。

 口から様々な抗生物質と飼料を詰め込まれ、肥らされ、やがては肉を奪われる為に屠殺場へと向かわされます。屠殺場に向かう当日は、後込みし、足を突っ張ります。貌(かお)を左右に振って悲しい泣き声を張り上げます。殺され、皮(かわ)を剥(は)がれ、肉は無慙(むざん)に奪われます。
 動物達が苦しみに喘(あえ)ぐ現実はここにあります。

 人間もこうした動物に酷似した世界で生きています。
 特に現代社会と言う、近代資本主義が極度に発達した金融経済が、実態経済を上回るような社会では、当然のように搾取(さくしゅ)する側と、搾取される側に別れ、ここに支配階級と被支配階級の格差が生まれます。人間はこの格差の中で、巧妙に偽装された資本主義の輪廻(りんね)の輪から抜けだせないでいるのです。こうして観て行くと、喰われる為に飼育される動物に酷似している事が分かります。



●人の心の畸形を作り出す現代

 「人」と言う語は、「統一の中心」という意味を持ち、それは天地を繋(つな)ぐ中心に置かれます。この中心が認識される時、人生を再度瞶(みつ)め直し、損得勘定と言う相対性を超越する事が出来ます。そして自分の中心に「真我(しんが)」というものが存在し、それが「魂」である事に気付きます。

 真我は、真に存在する公平な無私の人格であり、その発見は、人間の絶えざる源初人間(肉体を持たない初期の霊魂)の習慣を継続しながら、未来とその意志力の正しい使用の仕方を教示します。しかし、真我が無視され、霊的食物と霊的訓練が与えられない場合、真我は眠ってしまい、釣り合いのとれた人格を形成する事は出来ません。

 人間と言う存在は、どの部分を抑圧してみても、偏った性質が進行して現代病を招く危険を所有しています。科学技術が発達した時代に、何故こうも、人は、なおも躰(からだ)と心の病気に悩まされ続けるのでしょうか。
 また、民主主義の世の中で、平等と自由を憲法に謳(うた)い、誰もが一見豊に見える世の中に、何故こうも、一方で貧困が存在しているのでしょうか。
 世は飽食に時代の真っ只中にあり、暴飲暴食を繰り返している反面、一方では飢えが生じ、更には使い捨ての時代でありながら、原材料の不足が高じてくるのでしょうか。そして人は、自分自身に誠実なのでしょうか。
 それとも、人は真我の何たる事を全く心に掛けないのでしょうか。

 現代人の圧倒的多数の人が、魂の源である真我の存在に気付かず、魂の高処(たかみ)は言うに及ばず、物質的な存在レベルさえ超えられずにいます。しかし一方で、心の育成に精進する人もおり、このうち、ごく僅かの人が高い知的発達を遂げる事が出来ますが、知的発達を遂げた知性の持ち主でも、霊的面の発達に心掛ける人はそれほど多くありません。そして内なる霊的自我を発見する為には、ある程度の時間と努力が要求されます。

 普通、赤子は3000gから4000gくらいの間の重さで生まれていますが、絶えず運動させ、食させ、健康に注意しながら大切に育む事で、やがては大人になっていきます。健全な心も同様に育まなければならないのですが、物質的に豊かな国に於いて、それも科学技術が発達した先進国で、精神病が深刻化する現実は、一体何処から来るのでしょうか。

 精神分裂病、神経症、自閉症、登校拒否、離人症、家庭不和、離婚、殺人、自殺、交通事故、大型台風の来襲や地震での事故死、倒産、自己破産といった事例が数を増やし、これは精神生活が不安定になって来ている事を顕(あら)わしています。
 こうした原因に対し、科学者をはじめとして、精神科医や心理カウンセラーたちは、私たちが衝動と願望を自然な形で満たした結果、正しく心に養分を与えない事が原因して、心理的な心の畸形(きけい)を作り出していると警告しています。

 現代にあっては社会構造が高度化するつけ、私たちは更に知性の訓練と、知力の養成に迫られ、知的能力の向上に急(せ)き立てられます。知的レベルの向上は、与えられた環境と機会でその開きが出来ますが、何千時間もの学問教育にこれが費やされるならば、特に才能のある人に限り、それを成就する事が出来ますが、絶えざる知的努力と訓練無しには、何も達成できない事は明白となります。

 しかし喩(たと)え、人が健全な肉体と健康な心、あるいは敏感な知力を築き上げても、その魂の源である前頭葉【註】大脳皮質の「中心溝」と「外側溝」によって囲まれた前方部であり、特に前頭前野はすべての大脳皮質、大脳核・視床・視床下部・小脳・脳幹との間に広範な線維連絡を持つとされている。この連絡路は意志・思考・創造など高次精神機能と密接に関連し、個々人の個性の座と見なされる)発達の訓練をし、心を育まなければ、その人は単に、霊的には幼児に過ぎません。心と身体と知性の調和を生む人間性の核は「魂」であり、魂に養分を与える事なしに、幸福も平和も、決して訪れることはありません。

 人間の中で体験される事実は、時間を追うごとに、間違いを発見し、固定観念の誤りを修正して、人を偽りから真理へ、破滅から腐敗へと導く、物質的、心的、知的、霊的な覚醒(かくせい)を齎してくれると言う事です。しかし、果たしてどれ程の人が、自分の中に霊的神性を発見する事が出来るでしょうか。また、この際限なきエネルギーと智慧(ちえ)を獲得する為に、どれ程の時間と努力と訓練が必要なのでしょうか。

 一方、終焉(しゅうえん)しつつある宗教最後のブームに、新興宗教は終焉の前の盛会を極めています。
 新興宗教に入信し、教会通いの壇徒や信徒に、「あなたはそこで、どんな努力と、どんな訓練をしているのか」と訊けば、その人は「規則的な教会通い」と「規則的な布教活動」を報告する事でしょう。しかし、その教会は「神はあなたの内側に存在する」とか「神の国は自分自身の裡側にある」と告げる代わりに、魂とは全く無縁の、心と身体に関する恐怖と罪責感とに重きを置き、「信心が足りないと天罰があたって死に至ったり、病気になる」等と脅しをかけ、教義の不勉強を指摘し、折伏(しゃくぶく)などの布教活動に拍車を掛けます。

 定期的に催される布教活動に疲れた壇徒や信者は、やがて教会を捨て、新たな新興宗教を求めて、何処かに、自分の満たされない心の空白を埋めようと、新たな答えを求めようとします。答えを得る事が出来なければ、怪し気な黒魔術や神秘主義の儀式に魅(み)せられ、あるいは薬物や性的快楽に耽(ふけ)り始め、やがて墜落していきます。

 現代人の心の空しさは、魂の存在とその癒(いや)し方を知らない無知から発生し、智慧(ちえ)と調和の力を無視する事から起っているのです。