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●小能く大を制す

 日本人の戦争観には太古以来の「小よく大を倒す」の意識が強く根付いています。誰が考えても、勝てないような敵と互角に渡り合い、それでありながら最後には勝ちをおさめるという日本流の戦争の極意があります。

 歴史の上から見ても、日本人の最も好む戦勝意識と戦績は、「義経の鵯(ひよどり)越え」であり、「楠木正成の千早城」であり、また「織田信長の桶狭間(おけはざま)」であり、更に付け加えれば「忠臣蔵」ではないでしょうか。孰(いず)れの出来事も、比較に絶する大敵に圧勝した例であるといえます。したがってこうしたものは、時代小説の中で繰り返され、映画や芝居の中で繰り返されました。

山形県酒田市の藤食倉庫の鈴木みなとさん。この力持ちの女性は、昭和15年当時、米を運搬する仕事に従事していた。怪力の美女として、新聞にも掲載された。

 では何故こうしたものが好まれ、日本人はこれ等の戦勝を好んだのでしょうか。
 その一つに、誰が見ても事前に、勝利など確信できない予想外のドンデン返しがあったからです。つまり客観的に見れば、「無謀な戦い」を敢(あ)えてしたということになります。
 「小よく大を倒す」の戦術思想の中には、最初から無謀であることは百も承知であり、誰が考えても勝てないわけですが、これを敢えて無謀とは言わず、こうした戦いには、むしろ名将に率いられてその配下が、ともに一心同体になって模範的戦闘を展開して、最後は勝利に導くといったドンデン返しの意外性がいつも存在していたのです。
 例えば鵯越えでは義経が、千早城では正成が、桶狭間では信長が、そして忠臣蔵では大石良雄内蔵助が集団を率いる名将となり、小兵力を以て大敵を破るという、こうした構図が日本人を惹き付けて、異常な情熱を傾けるという特異な気質があるからです。

 さて、これを考えた場合、では太平洋戦争当時を顧みて、まさに「小よく大を倒す」の、日本人好みの絶好の構図ですが、何故この戦争だけは、今日の戦史史家からは無謀な戦いと一蹴(いっしゅう)されるのでしょうか。
 当時のアメリカは国力から見ても、産業生産力から見ても、日本とは比べ物にならないくらいの巨大国であり、圧倒的な戦力においてその格差は歴然としたものだったと言われています。だから日本が、こうした巨大国アメリカと刃を交えたことは無謀だったと批評されています。

 しかしアメリカの圧倒的な国力に手向かうことをせず、これを一概に否定すれば、朝鮮人民は朝鮮戦争を戦わず、ベトナム人民はベトナム戦争を戦わず、尻尾を巻いてアメリカの軍門に降るべきだったのでしょうか。
 こうして考えると、太平洋戦争はアメリカの巧妙な誘導によって、開戦に持つ込まれた戦争であるということは、今日では常識になっていますが、では、何故太平洋戦争だけが無謀な戦いであったと、悪の譏(そしり)を受けなければならないのでしょうか。
 この戦争を無謀な戦争と一蹴するのは、あまりにも短見です。
 もし太平洋戦争を否定するのなら、鵯越えも、千早城も、桶狭間も、そして忠臣蔵も否定されなければなりません。また朝鮮戦争も、ベトナム戦争も否定されなければなりません。

ベトミン指導当時のベトナムの政治家ホー・チ・ミン。20歳頃に渡欧、フランス社会党・共産党に加入して独立運動に従事 ベトミン(Vietminh/ベトナム独立同盟会の略称)が組織された頃の解放戦線。1941年5月、ホー・チ・ミンが中心となって結成した民族統一戦線組織で、第二次大戦中ベトミンを組織して抗日運動を展開し、54年ジュネーヴ協定により独立を確保した。
晩年のホー・チ・ミン。1945年ベトナム民主共和国を建て、初代国家主席。 ベトナム戦争で活躍したアメリカ陸軍特殊部隊グリーンベレー。アメリカ陸軍の対ゲリラ戦用の特殊部隊だった。

 約60年に亘り、フランスの植民地として支配され続けたベトナム国民が、インドシナ共産党を中心にする「ベトナム独立同盟」、通称ベトミンの指導者ホー・チ・ミンを大統領として、ベトナム民主主義共和国臨時政府を樹立したのは、第二次世界大戦が終結した1945年9月のことでした。これは丁度、南方方面に駐屯していた日本軍の武装解除の時期と前後します。

 植民地支配の甘い蜜を吸い上げるその甘味な味が忘れられないフランスは、大戦中、眼の上の瘤であった日本軍の敗北に伴い、これ幸いと現地に抑留されていたフランス兵に再武装させ、更には、フランス本国やアルジェリア、モロッコやセネガル等のフランス領植民地から増援部隊をベトナムに送り込み、一挙に武力を使って、かつての植民地、ベトナムを粉砕しようと目論みます。
 これに対し、ホー・チ・ミンを指導者とするベトナム国民が必至に抵抗を試みた事は言う間でもありません。
 しかし一方、フランスは20万人にも上る大軍を派遣し、僅か数千人のベトナム正規軍とゲリラで編成されたベトミン軍を叩き潰そうと北部の山岳地帯に身を潜め、フランス軍の総攻撃の機会を窺いました。この当時、この勝敗は誰の眼から見ても明かでした。蟷螂(とうろう)の鎌で、戦車に立ち向かうようなものでした。

 ところがこの戦いは、容易には片付かず、ベトミン軍の抵抗は、何と九年も続いたのです。日米戦争の三年八ヵ月に比べれば、二倍以上の年月を戦った事になります。こうした状況に漸(ようや)くフランスも焦り出し、疲労の色が濃いくなった1954年3月、今度はベトミン軍が反撃に転じます。
 ベトミン軍の武装は、ラタニヤ椰子(やし)の枝で編んだヘルメットに、木綿の粗末なシャツとズボン、それに古タイヤで作ったサンダル履きのベトミン軍部隊は、フランス軍が作った難攻不落の大要塞をジリジリと包囲し始めます。この大要塞は、中国、ラオス、ベトナムを結ぶ最重要拠点であり、デンビエンフーの盆地に築かれた強固なものでした。しかし通常では考えられない独特なゲリラ戦術で、ベトミン軍は総攻撃を開始します。そして二ヵ月後には完全に占領してしまい、フランス軍の精鋭部隊はベトミン軍の前に屈します。

 これに対してアメリカも大量の武器援助と共に、空軍の空爆を仕掛け、フランスを掩護しますが、遥か彼方から、土龍(もぐら)のように塹壕(ざんごう)を掘って前進し、地下から思わぬ場所に姿を現すベトミン軍の前には歯が立ちませんでした。また、肉体もろとも爆砕するベトミン部隊に捨身の攻撃は凄まじいものがあり、ついにフランス軍守備隊はベトミン軍の前に降伏します。
 デンビエンフーを失ったフランス軍は戦争継続が出来なくなり、ついにベトナムの再植民地化を断念します。この後、インドシナ政策を引き継いだアメリカがベトナム戦争に登場する事になるのです。しかしアメリカも、フランスの辿った足跡を追って、敗北へと向かいます。

 特に、ベトナム戦争において、アメリカは毎年250億ドルの拒否をこの戦争に投じ、核兵器を除く、あらゆる新兵器を投入して、それでも勝てずに惨敗したという汚点を残しています。当時の勢力の大小や、物量の大小では、ベトナム戦争こそベトコン側(南ベトナム解放民族戦線)にとって、無謀谷(きわ)まる、愚かしい戦争ではなかったのでしょうか。
 それでもベトコン側は怯(ひる)む事なく、アメリカの軍門に降る道を選択しませんでした。そして、ついにはアメリカを惨敗に追い込みます。

 こうして考えてくると、アメリカが敗れ、北ベトナムが勝ったという、この裏側には、当然、なければならない秘密があるはずです。
 この戦争と、太平洋戦争を比較して見ますと、太平洋戦争は、もともと勝てるはずの戦争であったということが分かります。当時は、武器の優秀さや、物量においても、日本側は遥かにアメリカ側を凌駕(りょうが)していました。勝てるチャンスも最低三回はあり、また、神風の度々吹いていました。それなのに何故、敗北したのでしょうか。



●戦争を知らない日本軍首脳達

 まず、食糧について考えて見なければなりません。
 アメリカ側の戦記によく登場する記述は、先にも述べた通り、「日本軍は太平洋戦争当時、全戦線において、最後まで、米を主食として持ち運び、二十世紀の軍隊としては近代的でなく、極めて稀に見る戦争観の稀薄さと愚行が表面化された軍隊であった」と、殆どのアメリカの戦史家が、同様の意見を上げています。

 米という兵糧は、近代戦においては決して最良の食糧ではありません。全く、戦場には不向きの食糧なのです。
 この戦場不適合という食糧は、第四次川中島決戦にも、そのよき教訓を残しています。
 永禄四年九月十日、第四次川中島決戦の幕が切って落とされました。
 信玄軍は二万、上杉謙信の軍は一万八千。両者はこの川中島で対峙(たいじ)し、山本勘助(やまもと‐かんすけ)は「キツツキ兵法」なるものを立案し、早期決戦を進言しました。これが第四次川中島決戦の全貌です。
 謙信軍は既に八月二十日、犀川(さいがわ)を渡り、梅津城の前方を悠々(ゆうゆう)と横断し、妻女山に布陣しました。そして時には、琵琶(びわ)の音すら聞こえてくるのです。全く動く構えを見せませんでした。
 信玄軍は決戦の前日、軍議を開きました。重臣たちは早期決戦を主張しました。それは兵糧(ひょうろう)の欠乏が目に見え始めたからでした。

 そこで名軍師・山本勘助は「キツツキ兵法」なるもをの進言します。
 「キツツキ兵法」とは、樹木の裡側(うらがわ)の洞に籠(こも)っている虫を、キツツキが反対側の穴から嘴(くちばし)で叩き、虫が驚いて出てきた処を捕えて食べます。これにあやかり、その落ちこぼれも、麓(ふもと)で網を張って一網打尽に全滅させようとする作戦だったのです。
 信玄軍総兵力二万のうち、高坂弾正(こうさか‐だんじょう)昌信と真田幸隆が率いる一万二千を、キツツキ軍に割き、残りの八千で本陣の構えをとる策でした。そして戦術は、勘助と馬場美濃守信房(ばな‐みの‐の‐かみ‐のぶふさ)が当る事になりました。
 しかし謙信軍は、妻女山山頂から信玄軍のこうした動きを見抜いていました。何故かというと、信玄軍は食事の支度をはじめ、飯炊きの火があちらこちらに見受けられたからです。これは夜襲もしくは奇襲の準備と映ったからです。謙信軍は奇襲を察して移動を開始します。妻女山には数人の兵を残し、赤々と篝火(かがりび)を焚(た)かせ、旗指物(はた‐さしもの)を数多くゆらめかせるように申し付けました。そして音をたてぬように、馬には薪(まき)をかませて下山を開始したのです。

 この事を江戸時代後期の儒学者・頼山陽(らい‐さんよう)は、当時の思いを偲び、『山陽詩鈔』の中で、謙信軍の模様を「鞭声粛々(べんせい‐しゅくしゅく)、夜、川を渡る……」と詩(うた)ったことは有名です。
 一方、高坂弾正昌信と真田幸隆の軍・一万二千は、夜半、音を殺して妻女山の篝火と旗指物を目指して進軍しました。

 川中島は、現在の長野市南部の千曲川と犀川の合流点付近の三角洲です。天気のいい日が四、五日続くと霧が発生する特異な地点です。この日も、濃い霧が発生していました。
 ところが今まで濃い霧に覆(おお)われていた天候は、瞬(またた)く間に晴れ、謙信の思惑通りこの策が見破られ、逆奇襲が展開しました。そして信玄軍は意表を突かれた形となります。
 結局、キツツキ軍は、もぬけのからの巨木をつついた事になりました。そして謙信軍に柔躙(じゅうりん)される形となったのです。これは名軍師・勘助の一生の不覚でした。そして勘助は、信玄に別れを告げ、敵陣に飛び込んで行きます。その頃、武田軍の本陣の前に、白絹で頭を包んだ荒武者が躍り出ました。その武者は三尺ばかりの太刀で信玄に斬り付け、信玄はこれを軍配団扇で受け止めました。これが上杉謙信と武田信玄の一騎討ちです。謙信三十二歳、信玄四十一歳でした。
 これはまさに信玄危うしという場面でした。しかし妻女山から駆け降りて来た高坂昌信の一万二千に助けられ、信玄はこの危機を脱出する事が出来ました。
 一方、槍を受けて瀕死の重傷を負った勘助は、これを見て「間にあった」を口にして、松林の中にどっかりと腰を降ろし、もうこれで思い残す事はないという心境になります。
 勘助の最期(さいご)は、流れ矢で絶命したとも、雑兵に討ちとられたとも、あるいは部下が勘助の遺体を隠し、敵に頸を奪われる事なく葬られたとも言われています。
 この決戦で、大きな教訓が戦術以外にも残されています。それは兵糧である、米を炊き、その炊き火から策を読まれたという事実です。

 米の欠点は、食する前に必ず炊飯するという必要があります。したがって、炊き火は必然となり、煙が出て敵に所在を知られるということになります。これは第四次川中島決戦において、信玄軍の炊き火や煙を謙信軍の読まれたことです。

 また、太平洋戦争当時の回想からすると、米は特に、精白をした米は腐敗しやすく、貯蔵に適さないということです。更に欠点を上げれば、高温多湿な熱帯雨林の多い、太平洋戦争の戦場では、こうした精白米は最も不適合な食糧でした。これを要約すると、白米は、腸内に在(あ)っても腐るということであり、この腐ったものは、便秘の元凶となって腸壁に腐敗物として残留すると言うことです。



●体質を強固にするには未精白米が必要

 更に、白米食がビタミンB欠乏症の脚気(かっけ)を起こす事は周知の通りです。今日では典型的な脚気と言うものは珍しくなってしまいましたが、「疲れ易い」「頑張りが効かない」「遣る気がでない」「根気がない」「イライラする」「むかつく」等の、心身の変調は総てビタミンB1をはじめとしたB群欠乏のせいです。
 しかし、B群欠乏を補うビタミン剤では、こうした欠乏症を解消する事は出来ません。潜在性のものも含めて、脚気症候群を引き起こしている病因は、「胚芽不足」にあります。したがってビタミン剤では無理であり、胚芽をしっかりと摂取する必要があります。

 胚芽の重要性が一般の人々にも注目されるようになりましたが、それを受けて最近では「胚芽精米」が盛んです。しかし、こうしたものも「精米」している関係上、本来の玄米のような生きた米ではありません。
 生きていると言う事は、畑に撒いたらそのまま芽が出て来ると言う状態を指すのであって、丸ごと摂取する事によってそのバランスのとれた栄養分は補充することができるのです。
 成人病を予防したり、頑強な体質造りをする為には、真物の未精白穀物を丸ごと食べるのが一番であり、生きた穀物を食しない以上、強健な体質は養えません。
 発芽食品は少量で充分にエネルギー転換ができると言う長所があり、これは節食にも繋がる大事な要素です。