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●一二三の祝詞の中に隠されている光明思想

 一二三(ひふみ)祝詞(のりと)は次の通りです。

  ひふみ よいむなや こともちろらね
  しきる ゆゐつわね そをたはくめか
  うおえ にさりへて のますあせゑほれけ

 というものであり、これに「ん」を加えたものが日本語の総ての音節であり、四十八音となります。
 この一二三の祝詞を心の中で唱え、四十七回噛み、最後の「ん」で呑み込むようにします。

 正食による食事療法は、まず、「よく噛むこと」であり、玄米穀物御飯や野菜を口に中に入れ、その度に箸を置き、両手を膝の上に置いて50回、100回と噛む事であり、場合によっては一二三祝詞を5回繰り替えして、よく噛んで唾液と混ぜ合わせ、口の中でトロトロになるまでにして、最後に呑み込むと言う方法で病気を治していきます。
 胃潰瘍等は、動蛋白食品を完全に断ち、玄米穀物御飯と、葉野菜や海藻だけで、噛む事に専念して光明思想を抱き、その喜びと共に徹底して想念を明るい方に導けば、僅か10〜20日くらいで治ってしまいます。

 一二三は「日文(ひふみ)」という文字が充(あ)てられ、対馬国の卜部阿比留(うらべあひる)氏の秘伝という、ヒフミヨイムナヤコトモチロなどの47音を顕(あら)わす表音文字ですが、平田篤胤(あつたね)が『神字日文伝(かんなひふみのつたえ)』に挙げているもので、朝鮮のハングルに模して偽作したものと考えられている節も強いようです。
 しかし言霊としての霊威は、不可視の霊的な空間から発せられるものであり、その原点は「縄文人が知っていた言語のもつ不思議な力」です。その霊妙なる力によって、人の幸福も不幸も同時に併せ持つものであり、言葉を発する事、あるいは念じる事によって、聽く聴かないに関わらず、これは実際に事象に作用するものです。

 人体の肉体的動作として、「合掌」「印」「拍手」(かしわで)等がありますが、その顕現(けんげん)するものと、これらの動作を伴わずに効力を発揮するものの二つがありますが、言霊の霊威(れいい)は肉体的動作と言霊とを合体させて、その威力が発せられるもので、食事療法に於ける動作も、こうした動作と、言霊の組み合わせを用います。霊威と言うものは、単に肉体的な唯物思考では得られずはずがなく、肉体を支配しているその上の存在である、不可視の霊的空間から発せられる霊の力の具現です。
 そしてその根底には「光明思想」が流れていなければならず、《感謝》《讃歎》《仁慈》が不可欠であり、将来への明るい「見通し」の想念を抱かねばなりません。明るい見通しとは、自身が健康を恢復(かいふく)した時の姿であり、この自分の姿を克明にイメージするのです。



●半身半霊体こそ真の人間美

 霊的食養道では、単に健康食を実践して「健康になる」という事だけに止まらず、人間の原人脳である外表系を更に進化させ、前頭葉を発達させる為に亜人類の領域を脱出して、真の「霊人(たま‐びと)」域にまでその体躯を高める事を目指します。その為には霊肉共に均整のとれた体躯を獲得しなければなりません。

 均整ととれた体躯とは「半身半霊体」です。霊肉の孰(いず)れにも偏(かたよ)らず、霊肉が合致した体躯は、まさに「美」そのものであり、これは仏像等の体躯(たいく)であり、均整のとれたものとして、これまで多くの人々の尊敬を集めて参りました。そしてこれは、霊体美と肉体美が兼ね備わってこそ、はじめて完全に発揮される、生きとし生けるものの、生き生きとした表情が現われます。
 それを一層力あるものとし、光あるものとする為には、霊肉共に釣合のとれた体躯でなければなりません。そこに至って、はじめて姿態が千変万化の妙を極め、無限の美が躍動します。
 そしてこうした美の躍動の原動力を司るものは「食」であり、健全なる生活を生かすには、真の「食養」を実践しなければなりません。

 人間は「食の化身」であることは、全く疑う余地がありません。
 したがってそこには人間にとって「良いメグリ」をつくる食べ物であるか、「兇(わる)いメグリ」をつくる食べ物であるか、注意する必要があり、単に食べ過ぎず、節制するだけというものだけでは、例え健常者になり得たとしても、食に誤りがあったり、慎みを忘れたり、食への乱れがあれば、既に中庸(ちゅうよう)から外れた体躯になり、半身半霊体への体躯造りは成就できません。

 私たちは、喩えばボクシングの選手が試合前になると、酒や煙草も、コーヒーや紅茶も、お菓子や甘い果物も一切摂らず、食を節制することは良く知られていますし、また競馬のジョッキーや他のスポーツでも、体重制限と共に、食を節制する行為がよく行われています。したがって試合前に「やめた方が良い」ものは普段からやめた方が良く、普段からやめた方が良いものは、生涯やめた方が良いわけです。

 第一、乳幼児や幼児は酒や煙草も、コーヒーや紅茶も飲まずに元気に生きていますし、母親が食知識のある場合、お菓子や甘い果物は、幼児にこうした食べ物は与えません。無能な母親だけが子供に過保護になり、子供の欲しがるものを何でも与え、結局、子供を駄目にして、惨(むご)く育ててしまいます。
 昨今多発する青少年犯罪の多くは、こうした母親の無能に責任があり、こうした母親は、異口同音で「うちの子に限って……」等と言い訳をしたり、弁解をします。

 人間は何処かで、自分の都合の良いように作り替えてしまった偏見があり、またこうした先入観が、人間本来の持つ智慧(ちえ)を曇らせて、無駄な浪費を繰り返させる元凶に陥れているのです。
 そしてこう言うと、如何にも窮屈で、無味乾燥な生活のように思っている人もあると思いますが、本来は不自然な欲求を欲しいままにして、吾(わ)が身に破綻(はたん)を招くことこそ、人生は無味乾燥なものになり、この方が余程恐ろしいことなのです。煙草も酒(少量の健康酒や薬用酒は別)も、本来は必要無く、無駄な浪費であることが分かります。
 多くの人が食に抱く食意識は、腹八分に控えめに食べる、歯を兇くする甘いものも控えめにする。また栄養補給に関しては、好き嫌い無く、何でも食べ、鳥獣や魚肉、牛乳や卵といったものは、健康な体躯を作る上で栄養価値の高いもので、これらは進んで摂取するといった程度の意識であろうと思われますが、しかしこれらは真当(ほんとう)に健常な体躯を作り、丈夫な体躯を作る上では殆ど役に立ちません。

 現代人は、五官に属する視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚といった可視意識下の物質界での現象のみにしか知覚することが出来ません。これは体主霊従になっているからです。
 したがって好き嫌い無く何でも食べ、鳥獣や魚肉、牛乳や卵といった動蛋白食品を食べれば、肉体を作る体主霊従から言えば、それで十分だと考えがちですが、しかし、集中力を養い、勘(かん)を養い、見通しの利(き)く、頭脳明晰な状態に自らを置こうとすれば、こうしたものは、むしろ邪魔になり、偏狭な因業を背負い込むことになります。

 現代社会に蔓延する成人病をはじめとするガン等の難病・奇病は、結局こうした偏狭な因業を背負い込んだ結果であり、鳥獣や魚肉、牛乳や卵といった食物が災いしているのです。
 味の濃厚な西洋料理や、油でぎらつく中国料理、更には高級魚に代表される日本の割烹料理など、真当に頑強で、丈夫な体躯を作る上では、むしろ無用の長物であり、単に舌を惑わすだけの浪費の最たるものでしかありません。食通の末路は実に哀れです。
 本来人間にとって好ましいのは、玄米正食を中心とした穀物菜食であり、人間の性(さが)より遠いものを食べれば、その体躯は、一層半身半霊体へと近づきます。



●玄米が作り出す真の人間美

 玄米と旬の野菜や海藻類が真の健康美を作り出します。
 人間の躰は、炭素、酸素、水素、窒素、ケイ素、塩素、鉄、リン、硫黄、カルシウム、マグネシウムなどの諸元素から構成されており、これを養う為には、正しい食意識を身に付け、人体を構成する各種成分を含んだ食品を摂らなければなりません。
 人体における消化器官は、口から肛門までの単調な一本の管(くだ)ではなく、構造も作用も、各部分によって各々異なり、また各々が独特の消化液を分泌していて、特殊な成分のみが消化されるようになっています。また各々の消化区間で、役割分担も厳然と区別されています。
 したがって、本来、全体の一部を抽出して、見た目が良く、舌触りの良い、味覚として美味しいと感じる部分だけを選び出して食べると、その食物成分は単一になりがちです。

 例えば白米や精白米がそれですし、良いところだけを食べると言う偏った食意識が生まれます。この為、消化される際、消化器官の一部のみが過度に働いて、過労を起こす結果となります。
 また逆に、働かない部分は萎縮(いしゅく)をはじめます。
 ある種の成分は過多になり、ある種の成分は欠損に陥るわけです。そして最悪なことは、見た目が良く、舌触りの良い、味覚として美味しいと感じる部分というのは、成分構造が単純になり、この単純単調の食物が常に不足感を感じさせ、満腹中枢は満足が得られず、大食の傾向へと趨(はし)ります。

 例えば、白米や精白米は、玄米に比べて舌触りと食感は良いものの、非常に淡泊であり、したがって復食の御数(おかず)は濃厚なものを求めてしまいがちです。コッテリとしたソースを利かせた焼き肉などは、これと非常に味の組み合わせとしては最良の形になります。つまり、大食に趨(はし)り、高カロリーの食品を求めてしまう落し穴は、実はこうしたところに多くあるのです。
 白米や精白米は死んだ米であり、胚芽や米糠(こめぬか)を取り除いた粕(かす)に他なりません。またミネラルや植物性繊維も欠け落ちています。つまり白米常食者は、粕ばかりを食べているということになります。
 粕で健康になれるわけはなく、また死んだ米でエネルギーを養うことはできません。

 さて玄米は、何も煮て食べるばかりの調理法に止まらず、一晩水に浸して、発芽する寸前の、翌日の柔らかくなった玄米を食べるという方法もあります。
 玄米は生きている米ですから、一晩以上水に浸けておくと、発芽をはじめます。この発芽をはじめる時が、実は最も玄米に生気が溢れた時で、一食につき、小さじに四、五杯程度を摂るだけで十分な栄養補給になるのです。

 戦国期、多くの武人達はこうした玄米に対する特異な智慧(ちえ)を持っていて、こうした少食で何日間も戦えたのです。しかし、こうした智慧は、時代が下がるに従って忘れ去られ、江戸中期頃に至っては、全く皆無の状態になり、一部の武術流派だけが細々と一子相伝の伝承を守り、今日に秘かに伝えられたというのが実情です。
 元々戦国期の武士は、表皮的には武士の形を建前と置いていましたが、その実は半農民であり、身土不二を実践した階級でした。農作物を育てることについての多くの智慧を先祖から受け継ぎ、その智慧で戦国期を切り抜けてきた人達だったのです。その一方で、戦闘集団であり、戦う為の智慧を有していたのです。

 よく、当時の模様を回想して、食事時の飯炊きの煙でその兵力を調べたり、あるいは位置を探ったりというのが、時代小説等に出てきますが、あれは平安末期から室町初期にかけての武士の実情を調査しないままに書かれた一種のフィクションに近いものです。作家の無知から、時代錯誤や時代を食い違いさせているのです。
 第一、戦闘集団がわざわざ自分の居所を知らせる為に、飯炊きの煙を上げて敵に居所を知らせたり、飯炊きの火で、敵のそれと感じさせるような愚行はしなかったのです。

 能(よ)く鍛えられた戦闘集団は、食事をするのに決して火を遣(つ)うことはなく、玄米を水に浸して柔らかくし、それを食べていたのです。当時の武人達は、玄米が健康維持の為の最上の妙薬であることを知っていたのです。
 命の遣(や)り取りをする実戦における戦闘は、何も正面から正攻法で対峙(たいじ)し、正面攻撃ばかりとは限りません。少数で多数を相手にするには、敵の虚を突く以外なく、これが出来てこそ、「小よく大を倒し」「柔よく剛を制す」になるのです。

 ちなみに、先の大戦で日本軍が連合軍に負けた敗因の一つに、「白米を炊いて食べる」という愚行が上げられます。もし、当時の日本陸海軍が「白米を炊いて食べる」という愚行さえしなければ、また、その結果は違ったものになっていたはずです。
 当時の日本軍は、作戦や戦闘行為でも、組織力や動員の迅速な面でも、あるいは情報や戦況に対する注意深さや精神的な集中力でも、しばしばアメリカ軍には劣っていました。日米開戦当時、遥かに敵に上回る兵力と武器を所有しながら、惨敗した例は一度や二度ではありませんでした。
 中でも、日本軍人の軍事的思想や戦争観に対する思考は幼稚であり、先の大戦に限って言えば、戦争目的はまさに目を覆いたくなる程の稀薄さでした。

 アメリカの戦記の一節には「日本軍は太平洋戦争の全戦線において、最後まで米を主たる食糧とし、これにこだわり続けた。二十世紀の近代的軍隊としては、稀に見る戦争観の稀薄さである」という指摘が記されています。
 戦場に白米を持参して、これを炊いて食べると言う行為自体、軍事思想が疑われるものであり、米と言う食糧自体が戦場向きではありません。
 先ず第一に、水分の含有量が多くて輸送に手間がかかります。
 第二に、白米は一旦精白している為に、腐敗し易く、貯蔵に適しません。
 第三に、何よりも欠点なのは食する前に、炊飯する必要があり、火を遣って炊かなければならず、これは煙が出るので、敵に居所を知らせることになってしまいます。

 以上の欠点を踏まえれば、高温多湿で、しかも熱帯雨林の多い太平洋戦争の戦場で、米を持参し、これを飯盒(はんごう)炊飯すると言うことは、まさに戦争観の抜けた愚行と言わなければなりません。
 最前線における第一線でも、このような不利不便な糧食を持参し、戦争していたのですから、戦争観が幼稚であると責められても致し方なく、また軍事思想も低劣であると指摘されても仕方ありません。

 こうした日本軍の愚行を指摘したアメリカ軍の将軍は「日本軍人は自らの嗜好(しこう)を満たす為に、あらゆる戦術的不利を犯して顧みなかった」と、厳しく指摘しています。
 これは、普段は日常生活の中で贅沢三昧(ぜいたく‐ざんまい)をしていても、「いざ戦争」となれば、あらゆるものを放置して戦場に駆け付け、敵兵との殺戮(さつりく)に邁進(まいしん)する肉食獣的戦争観を持った欧米人や大陸人と、日常が非日常に変わろうとも、旧態依然の生活を繰り返し、戦場を、その延長上に置いてしか考えられない当時の日本人との間には、戦争観と言う次元の問題で大きなギャップがあったことは明白な事実です。喰うか喰われるかの非情さを、日本人の多くは、昔も今も、全く理解していないのです。これは同時に、「玄米」と「白米」の違いを理解しない、それを対峙します。

 もし、当時の日本軍人の中に、玄米を発芽させて食することを知っている人がいたら、先の大戦で、同じ負けるにしても、結果は随分違ったものになっていたはずです。輸送の手間が半分以下になり、白米のように直ぐに腐敗することもなく、炊飯したり、煙りを出すこともなく、小さじスプーン四、五杯程度を摂るだけで充分な栄養補給が出来、少食で内臓を疲弊させませんから、思考的にも頭脳明晰状態で、臨機応変に立ち回れたはずです。