福智山系のロマン 2


●文明と言う贅肉を削ぎ落とす

 トレッキングの最初の目的は、まず頂上に立つ事である。頂上に立たずして、登山の目的は半減する。誰もが頂上に立つ事を目的に、歯を喰い縛り登って行く。そして頂上に立ったとき、自分は「山に登った」という実感が湧くものである。

 福智山山頂には古い石の祠(ほこら)がある。この石の祠は、いつ、誰が造ったか、あるいは誰が石を担ぎ、此処まで運んだろうという畏敬の念とともに、驚異すら感じる社(やしろ)である。この社の石を運んだ主は、強力(ごうりき)に違いない。

 筆者は山頂にある古い石の祠の前に立って、手を合わせた。それは祠に祀(まつ)られた神々と倶(とも)に、この祠を建てる為に、石を此処まで運んだ人に対して、深い尊敬と敬意を表する為であった。

福知山山頂にある祠の一つ。

 筆者は別に信心深い分けでない。あるいは神社仏閣の前では頭を下げると言う習性に習ったものでもなかった。ただ、そこにほつんと佇(たたず)む石の祠に、筆者自信の登頂を報告する為に、素朴な行動から手を合わせたに過ぎなかった。それに無事に山頂まで来れたことへの感謝であった。つくずく、筆者は生かされている事への、ただただ有り難さを感じずにはいられなかった。
 その横で、一緒に登って来た息子は、筆者の行動を黙して見ていただけであった。

山頂の岩の上から下界を見渡す。

 人間は歳をとると、躰(からだ)の至る処にガタがくる。このガタがくる元凶は、取りも直さず骨格の歪(ひず)みであり、それに伴って筋肉が硬化し、その歪みは更に激しくなって、拮抗(きっこう)を失い、人体は左右対称でなくなる。

 歪みの元凶はまた、「躰を動かさず、便利で快適で、横着な文明生活」をしているところから起る。ここに現代人の、「文明と言う贅肉(ぜいにく)」を身に纏(まと)う元凶がある。他力本願の元凶は此処にあるのだ。

 また、他力本願は、現代人を生活習慣病に誘導する起因をつくった。多くの現代人は、この罠(わな)に誰もが嵌(は)まっている。しかし、誰もがこの自覚症状を持ち得ない。何らかの形で慢性病を背負っている現代人は、やがて自分が病魔に斃(たお)れ、万病の元が足や腰に存在することを知らない。

 車生活の中で、歩かなくなった現代人は、足が退化するばかりでなく、病魔の根元である腐敗物質を腸壁内に大量に溜め込み、それが酸毒化とかして災(わざわ)いし、「腰に来る」という現象に陥っている。
 つまり、「腰に来る」とは、飽食の時代を象徴して、一日三食どころか、四食も五食もと、食摂取過剰状態に陥り、日に三度三度の食事の他に、その間、間食をし、更には深夜に夜食を摂るという愚かしいことを繰り広げている。

 夜遅い夕食や、夜食は、腰骨の関節を傷(いた)める。腰骨関節が弛(ゆる)むからだ。食事をし、躰がリラックスすると、腰骨は弛み、同時に眠気を誘う。そして、この弛みは食事をしてから、約12時間以上続く。

 例えば、夕食を午後7時に摂ったとして、腰骨が弛み、それが締まるまでの時間は午前7時以降と言うことになる。もし、深夜に空腹を覚えて夜食などを摂れば、朝、午前7時頃に目を覚まし、起きた時はまだ腰骨は弛んでいる。この弛み放しの状態に朝食を摂れば、この「弛み」は更に長引くことになる。

 深夜に夜食を摂った人は、朝起きて、出勤間際に朝食を摂り、それで出勤したとしても、この時間帯はまだ腰骨が弛んでいる。そして、この弛み放しの上に昼食を摂り、午後三時に間食のおやつなどを食べて、更に遅い夕食をとると言う、食事のサイクルは、常に「腰骨の弛みっぱなしの状態」が起っているという事である。
 これが生活習慣病の根本的な病因であり、成人病などの多くは、食事の誤りと相俟(あいま)って、食事時間の不規則も、成人病へと現代人を誘導しているのである。

 腰骨が弛み、更にそれが歪めば、当然腰痛が起る。
 健康な人は、一晩寝ているうちに、寝相や寝返りなどで、自然に躰の歪みをとる動作を行っている。こうした歪みをとる回復運動も、自然治癒力の為せる技で、例えば、子供の寝相の悪さは、則(すなわ)ち、自然治癒力の強さを物語っているのである。

 ところが、老齢になって来ると、寝相の悪さは殆ど顕われなくなる。寝た時と同じに、ほぼその形の間まで、眼を醒(さ)ます人が多いようだ。寝返りも殆どせず、そのままで眼を醒ます人が、老人には多い。その上、熟睡できないから、骨の歪みの矯正が出来ず、回復されないまま朝を迎えてしまうのである。

 この持ち越された「歪み」とともに、生活習慣になってしまった「朝食をしっかり摂る」という、現代栄養学風の論理が思考力に拍車を掛け、朝食は空腹でなくても摂らなければいけないものだとする強迫観念が追い打ちを懸(か)け、愚かにも朝食をしてしまうのである。

 こうした元凶が益々、腰痛を悪化させ、躰全体の筋肉が弛み、腰骨が弛み、総(すべ)てが弛み放しで、神経は筋肉の強張(こわば)りを感じてしまうのである。
 何か訝(おか)しい。ぎこちない。疲れ易い。遣る気が起らない。何となくだるい。動きたくない。動くのが億劫(おっくう)で、裡(うち)に籠(こも)りたがる。出掛けたくない。何を食べても美味しくないなどの症状が顕われて来るのである。

 これ等の症状は病院に行っても、一つの科では分からず、総ての科を行かなければならなくなる。しかし、喩(たと)え総ての科に行っても、最終的には原因が分からず、安易に医者から、「更年期障害か自律神経失調症でしょう。ビタミン剤や精神安定剤でも飲んで、少し様子を見て下さい」となるわけだ。

 しかし、現代医学は、患者が「何処か訝しい」という重要な危険信号のメッセージを見逃していることになる。これらの関連した症状の総ては、腰骨の「仙腸関節(せんちょうかんせつ)のズレ」にあるからだ。腰骨の歪みが発信源であり、腰から背中、肩、頸(くび)、後頭部へと連鎖して症状が起っているのである。あるいは腰から、股関節(こかんせつ)、膝関節、足頸関節へと連鎖する。

 一般に言われる、「ギックリ腰」(椎間板ヘルニア)も同じ原因で起っている。
 骨盤の仙腸関節が弛んでいると、ギックリ腰こと椎間板ヘルニアに罹(かか)り易くなる。また、「腰椎すべり症」も原因は腰骨の弛みである。

 食事時間の不規則は、背骨が曲がって衝撃に脆(もろ)くなる状態に追い込んで行く。例えば、重たいものを持つとか、担ぐとか、急に動き出したり、急停止したりの、急激な圧力が加わると、仙腸関節のズレが大きくなって、ギックリ腰を起すのである。この時、椎間板が飛び出し、ヘルニアなるのである。

 また、鞭(むち)打ち症も同じ原因で起る。同じ鞭打ち症でも、骨盤が歪んで居ない人は、追突されても鞭打ち症にならず、逆に骨盤が弛んで、関節が外れている人は、少しの衝撃で、鞭打ち症になる。これは骨盤が歪み、頸椎(けいつい)が外れて弛んでいるからだ。これは自己や衝撃だけが悪いのではなく、「骨盤に歪みを持っている」という人の責任も半分はあるはずである。

 要するに、「現代人は文明生活を追従する余りにヤワな人間」になってしまって居る事である。こうした人の末路が、決して幸せでないことは明白であろう。

福知山山頂への道標。

 筆者は、以上のような感想を持ちながら、この日は以外にも今までにはないようなスピードで、すいすいと頂上まで登って来たのである。心に何の迷いもなく、ただ足に任せて頂上に辿り着いたのである。
 一方、息子も軽快な足取りで登頂に至ったか、奴は心臓も強いらしく、還暦(かんれき)を迎えた筆者と違い、呼吸一つ乱れていなかった。すました顔で山頂に辿り着き、大して汗もかいていなかった。夏山に登った時も、ほぼ同じだった。

 筆者は、人間の老いと言うものは、こうした年齢の違いに顕われるものだと、「人の老い」について、つくずく考えさせられた。



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