福智山系のロマン 1

福智山の登山口に向かう鱒淵ダムの赤い吊橋。


●四季折々の福智山

 福智山は、四季折々に姿を変える山である。
 四季毎に季節があり、それぞれの季節に趣(おもむき)がある。そして、筆者の福智山での一番好きな季節は秋である。
 それは福智山山頂周辺のすすきヶ原が、見事なススキで登山者の眼を止めるからである。ここのススキは、河原のススキと一味違った、実に素晴らしい光景を見せる。秋空と融合した哀愁がある。

11月の福智山山頂付近は見事なすすきヶ原だった。

 平成19年11月8日(木)の午前中は、福智山山頂に於ては、素晴らしい快晴だった。この日、筆者は末坊主(陸上自衛官)を伴って福智山ハイクを行った。
 早朝、3時起きで弁当や酒の肴(さかな)を用意した。これは無事、山頂に至った際の為の、細やかな酒盛りの準備の為である。

 北九州市小倉南区志井から、自転車で鱒淵ダム入口、鱒淵ダム登山口へと自転車走行で向かい、この日は午前4時出発の予定が、もたつきで5時になってしまった。息子は自転車狂なので、マンガの「しゃかりき」の読み過ぎの為か、殆(ほとん)ど車の通らない道路の真中を一路鱒淵ダムに向けて驀進(ばくしん)した。

 鱒淵ダムに差し掛かる地域は、民家も殆ど無く、闇の中を自転車のライトだけで驀進した。筆者の後ろから、息子は「しゃかりき、しゃかりき」と声を立てて追い立てる。筆者もそれに合わせるしかなかった。
 空を見上げると、満天の星が輝き、今日が素晴らしい快晴であることが容易に想像できる。
 「今日はいい天気だ」そんなことをぽつりと言う。

 本来ならば、のんびりと向かう鱒淵ダム周辺であるが、驀進したお陰で、僅か一時間弱で、鱒淵ダム福智山登山口に到着した。しかし、病躯(びょうく)の筆者は、登山口に着いた時には自転車だけで、へとへとになり、登山どころではなく、すっかりとバテ上がっていたのである。もうここで、疲労困憊(ひろうこんぱい)の状態であり、登山どころではなく、恐らく一人だったら此処から引き返していたことであろう。

 しかし、息子曰(いわ)くの「父さん、ヤワやのう」の一言で血が上り、「馬鹿を言え。何を謂(い)うか」と言う気持ちになり、このまま引き返してしまいたい気持ちと、仕方がない、登ろうかと言う気持ちが相半ばして、結局、登ることにした。
 登山の恰好(かっこう)は、地下足袋を履き、武術衣のズボンに半袖のTシャツという出で立ちだった。

 息子は、いま陸上自衛隊レンジャー養成員をしている。30kgの完全武装フル装備で3時間走り放しとか、高千穂峰(標高1574m)を登頂する、特殊訓練をしていると言う。その末坊主が、一週間の長期休暇を貰って帰って来たのである。
 「何で一週間も休暇をくれるのか。イラクにでも行んかい?」と訊(き)くと、「そんな命令は出ていない」と応えて、その後は黙して語らずだった。家族にでも言えない、口外不要の任務を追っている為だろうか。それは親でも窺(うかが)い知れない事だった。

 仕方なく登らなければならなくなった筆者は、息子に押され、遂に登る羽目となった。毎回通例のように、登山口入口で、直立不動の気を付けをして、息子の音頭取りで、自衛隊式の「福智山に対し、かしらー中!福智山に敬礼!」から始まり、二人で、大声で「お願いします」をいって、入山を開始した。これは大自然への畏敬の念がそうさせるのである。また、筆者は山を、一つの道場と考え、修行の場と思っているからである。

 登山口を午前5時58分に開始し、まだ、辺りは薄暗く、闇の中を歩くような感じで、ペットキャップを付けなければならなかった。登りはじめから、勾配(こうばい)が徐々にきつくなり、5度、10度と激しさを増し、更に石ごろごろの難所に差し掛かる。傾斜角度がきつくなるのである。そして、大小の石が多くなると嶮(けわ)しい山路になり、それに併せて更に傾斜角度が増す。15度、20度、25度と、段々に急勾配になって行く。

 ふと筆者は、傾斜角の事を感じて雪崩れの事を思い出した。福智山で雪崩れが起ったと言うことは聞いた事がないが、富士連山火山帯中の赤岳を最高峰として、八ヶ岳、硫黄岳、横岳、権現岳など八峰といわれる春先の冬山では、よく雪崩れが起る。
 かつて新聞で読んだ、記事の一部を思い出したのである。

 雪崩れの学理に合わせて考えるならば、雪崩れの安全角度は、ある学者は28度と言い、また、ある学者は25度と言い、更にある学者は22度と言う。そしてこれらは理論的には雪崩れが起る平均値として23度が上げられ、23度以上の角度の傾斜地では、積雪があった場合、雪崩れの起こる確率が大きくなると言う。
 一方、これ以下の角度では、雪崩れは起こり得ないとなっている。

 ところが戦前の古い山の記録などを調べると、1928年2月に、スイスのベアテンベルグのニーデルホン付近は僅か傾斜角が15度にもかかわらず、雪崩れが起ったと記録に出ている。湿雪雪崩れは突如として起り、この下のホルザスの部落を呑み込んで大被害を与えたとある。また、この地域はニ百年に一度も雪崩れがなかったと言う。そうした場所に雪崩れが起ったのである。

 その日の気象条件を調べてみると、朝から小雪が降り、午後からは温度が上がって湿雪が相当量降り、それがやがて霙(みぞれ)に変わったとある。こうした条件下では、傾斜角度が僅かに15度でも、雪崩れが起るとしているのである。

 これと似た現象は、日本の山にも稀(まれ)にだがあると言う。雪崩れで遭難するのは、そうした箇所が日本の山にもあるからだ。
 では、人はなぜ危険を顧みず、山に登るのだろうか、となる。死ぬほどの危険を冒し、どうして登るのだろうか。
 これほど重い質問はあるまい。

 しかし、多くの人はこれに答えられない。況(ま)して、下界に居て、自分の足で一度も山に登った事のない人は、山に登ることそのものを、愚行と解釈している。また、素人だから答えられないと言うのであろう。
 しかし突き詰めれば、死の危険を冒してまで山に登ろうとする気持ちは、素人は素人なりに、こうした詰問に、多少山に理解を示す人が居るから、あるいは答えられないのではあるまいか。

なぜ山に登るのか。これについて明確に答えられる人は少ない。あるいは言葉で表現できないのかも知れない。

 これを逆の面から言えば、死の危険を冒してまで山に登るところに、山の不思議な魅力があるのではあるまいか。
 筆者のような山の素人が、何故これほど命の危険も顧みず、山に登らねばならないのかと不思議に思う。しかし同時に、危険を乗り越えて、あるいは犧牲(ぎせい)を払ってまで山に登ろうとする人間の探究心は、やはり山には山の魅力があるからであり、これこそが山の本質ではあるまいかと思うからである。

 ところが、こうした考えに捉われるのは、いつの時代も、ひと握りの少数派の人間であった。先駆的で、特殊的で、先鋭的でという思考は、かつての山伏(やまぶし)が抱いた山岳信仰への憧れであり、その探究心に於てのみ、深山幽谷に分け入ると言う行動があった。これこそ、先駆的想念に代表されている。

 しかし、昨今は事情が変わった。情熱的な熱情よりは、スポーツ登山がその首位を占め、登山やスキーが、ある程度の場所まで車で行けるようになり、大衆の娯楽と化してしまった。何十万、何百万と言う単位の人間がウインター・スポーツを楽しむ為に、猫も杓子も山に向かう。山が、今やホビーの場と変わった。現代人の新しい生活の場の一面に組み込まれてしまった。

 それはあたかも、家族揃って、ハワイやグアムに海外旅行するように、である。
 車が頂上まで入り、あるいはケーブルカーでハイカー気分が味わえる山は、いつも大衆の娯楽地として賑(にぎ)わっている。また、本来は神聖と称された山に、俗世間の、浮世の生臭い愛憎悲喜の愚かしいまでのドラマが、山に持ち込まれるようになった。

 かつて登山家とか、山屋とかいわれた人とは違う人種が山に入り込んで来て、山と言う聖域を、生臭い都会の垢(あか)で穢(けが)している現状がある。
 山頂付近に放置された空缶や、菓子類の入ったビニール袋が散乱している実情は、総て都会人の持ち込んだ、山とは無縁の人種の生臭い浮世の垢である。こうした実情を考えれば、今や山は聖域の純粋性を保った、かつての事実は、過去の遠い伝説となり、登山家性善説は最早(もはや)崩れたと言えよう。

 しかし、山は何処までも聖域であって欲しいと願うのが、本来の登山家や登山者の願望であろう。筆者もその一人である。
 筆者自身、どんな人でも、一旦山に入れば、邪心は洗い流され、躰(からだ)の病んだ箇所は癒されると信じている。山にはそんな不思議な力があるからである。

 カラス落を通過し、直通ルートを辿って山頂に向かうことにした。息子に、「今日は直通ルートで行く。しかし、勾配はきついので心して登れ」という。これに応えて、息子も「よっしゃ」と掛け声を懸けた。

 途中、真っ直ぐの山路を通過した地点に、木の長椅子があり、そこで小休止して、水を一杯飲んでいると、後ろから七十年輩と思える老人がやってきて、朝の挨拶を交わした。この老人は度々福智山に来ているものとみえ、話を交わすと、その内容は詳しく知っているようだった。そしてこの老人とは、「お先に」の言葉を最後の分れとして、山頂に付くまでついに姿を見かけることはなかった。

 筆者父子は、その後直ぐにこの老人の後を追ったが、10分も経たないうちに完全に姿を見失ってしまった。追えども、追えども追い付かなかった。世の中には、人に知られないところで、こうした無名の名人がいるものだと、つくずく感心をさせられた。

 そして、息子の唱える漢詩の一節を聴きながら、黙々と登った。
 息子の唱えた漢詩の一節は、白楽天(はくらくてん)の『売炭翁(ばいたんおう)』の一節の件(くだり)だった。


売炭翁』  白楽天

 薪(たきぎ)を伐(き)り 炭を焼く 南山の中(うち)
 満面の塵芥(じんかい) 煙火(えんか)の色

 両鬢(りょうびん)蒼々(そうそう)として十指に黒く
 可憐(あわれ)むべし 身上の衣 正(まさ)に単なる
 心に炭の賤(やす)きを憂(うれ)い 天寒からんことを願(ねご)

 翩々(てんてん)たる両騎(りょうき)来れ 是(こ)れ誰ぞ
 黄衣(こうい)の使者 白衫(はくさん)の児
 手に文書を把(と)り 口に勅(ちょく)と称す

 車を廻(めぐら)し 牛を叱(しっ)し 牽(ひ)きて北に向かわしむ
 半匹(はんびき)の紅しょう 一丈の綾(あや)
 充(じゅう)(とう)に撃(か)け向けて 炭直(たんちょく)にあつ
  

 息子が散々詠(よ)み上げた後、「あれ、ワシ、何でこんな漢詩を知っているのだろう」というので、「それはお前が小学校に上る前、一緒に風呂に入って、そこで俺が教えたのだ」と言うと、「ああ、そうだったのか」と、過去の事を憶(おも)い出した風だった。



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