内弟子制度 25
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●食事での態度と姿勢に、その人の人間性が顕われる 人間の食事は、動物のそれではない。単なる栄養補給ではないのだ。 つまり食事とは、動物が獲物(えもの)に喰(く)らい付く「エサ」という意味ではないのである。 これは自分と天地を結び付ける神道的な神事の「祀(まつ)り」を含んだ「人の行い」であり、この中には、一粒の米、一片の野菜、一滴の水に至るまで天地の恵みが凝縮(ぎょうしゅく)された恩恵を、人間は身を以て養う為の「祀り事」が、すなわち食事なのである。 食べる事は人間の本能的欲求であるから、その姿勢には、最も「己」が曝(さら)される事になる。「食べる」という行為と関わって、人物の「境涯」あるいは「程度」と云ったものが能(よ)く顕(あら)われる。これは最も簡単な事でありながら、実は非常に難しいのが「食べる事」なのだ。
すなわち「食べる」と言う行為の中に、何かが存在していると云う事に気付かなければならないのである。 昔の禅僧の中には、雨溜(あまだま)りが出来た道端の泥水を平然と啜(すす)り、蛆(うじ)のわいた食事を摂る者も居たといわれるが、それがしごく当たり前に行じられる時、浄穢不二(じょうえ‐ふじ/清浄な悟りの状態と穢れた迷いの状態とは、現象的には区別があるが、本性上から見れば不二平等であるということ)は、その人物の血となり、肉となり、骨となっていく。 したがって禅の世界に生きる、修行僧にとって、「食」とは、真剣勝負だったのである。そして禅の中には、「食事五観」というものがあり、食事の作法の中に、人の求める道があると説かれている。 近年は、「食」がグルメの対象になり、美食指向が持て囃(はや)されている。誰もが美食や珍味に舌鼓を打つ。武術家や武道家を自称する愛好者とて、こうした流行に乗せられ、食道楽に陥っている。しかし、いやしくも武術家や武道家を自称するからには、食事作法の中に「道を探究する」態度が欲しいものである。 ただ試合に強いばかりの一時的な勝者、あるいは技術的な駆け引きがうまいばかりのテクニック屋の、次元の低いものばかりを追い求めていては、道の探究などあろう筈がない。 尚道館・陵武学舎の食事は、玄米に味噌汁というシンプルな「一汁一菜」が、当道場の食餌法(しょくじ‐ほう)の基本だ。質素を第一義とする。 玄米六割に、小豆・大豆・もち粟・もち黍・たか黍・稗・押麦・ハト麦・赤米・黒米・丸麦・うるち玄米などの雑穀四割が混ざった御飯と、味噌汁が一日二度(昼食と夕食)の食事の基本となる。粗食・少食こそ、人間の頂く「食」の原点なのだ。 さて、「食」の教えの中には「飲食求道(おんじき‐ぐどう)」という言葉がある。 俗世界では、喰う為に働くと言うが、尚道館・陵武学舎の教えは、一椀の食、一杯の茶湯を頂く事が飲食求道の教えであると説く。したがって我が流の食思想は、武術修行を成就する為に、我が身を飢渇状態に追い込み、粗食・少食に徹し、癒(いや)す為に「食」が遣われるという現実を分からせる事を目的にしている。 また一方、「飢えを知る」という事も説き、飢えを知る事こそ、飽食の時代にあって、「飢える事」も、人間には必要なのだと教える。犬でも、腹が地面に引き摺るような犬は間抜けである。腹の部分が多くき凹み、筋肉がしまった犬ほど、精悍(せいかん)であり、また敏捷である。喰らい過ぎより、飢えた状態にしておいた方が、動作が鋭くなるのである。 また尚道館では、半自給自足を目指す為、野菜の自家栽培をする。そして、自らが農作物を育て、手塩にかけて丹念に世話をし、立派に収穫できるまでに育(はぐく)み、収穫の時に、自分と言う存在は、天地の恵みの恩恵を受け、「天命より生かされている」という事を実感する為に、あるいは天地への感謝を知り、歓喜(かんき)を体感する為に、畑作業と言う仕事をするのである。 「一日な作(な)さざれば、一日喰らわず」の思想は此処にある。 そして、どんな食べ物でも粗末に出来ないし、また、無駄をしない。最後の一片まで使い切る事が、天地の恵みに対しての感謝の印だ。 謙虚さや慎み深さを忘れた現代人は、自分が「食」を頂くに値するか否かを、自らに深く反省し、あるいは自問自答の心を抱かなくなってしまった。飲食の行為は、食道楽に通じる快楽であり、目先三尺・口先三寸の美味を貪るだけの、享楽の酔い痴(し)れる、味覚を楽しむだけの行いに成り下がった。 そして「食」の大事を知らない。 飲食をすると言うのは、人間の生理的欲求であるが、飽食の時代、飲食の貪る欲よりも、人間らしい余裕を身に付けねばならない時代が到来していると言える。今日の日本では、差し当たり、飢える事は無くなったが、日本人は、もうそろそろ飽食の悪夢から醒(さ)めて、精神生活を身に付けねばならない時期にきている。 本当の飢えを知らない多くの日本人は、「武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」という言葉を、侮蔑(ぶべつ)を込めて揶揄(やゆ)するようであるが、こうした侮蔑の籠(こも)った言葉を使って、からかっている本人の顔つきの方が、どこか下卑(げび/劣で卑しいこと)ていることが多いのは、何故だろうか。飽食の時代にあって、清貧に甘んじる、「食べない贅沢」はそれほど価値観の低いものであろうか。 否、違う。一日に四度も五度(いまや、若者の間では一日五食が常識になっている。食傷に陥るのも時間の問題)も繰り替えされる飽食によって、人は、精神から物質へと移行しているのだ。 そして、人間が物を「食べる」という姿は、礼儀に欠けると、隙も出来易く、見苦しいものになり易いと言う事を心得ておくべきである。 昨今は食事形式も、西洋風になり、特に立食パーティー等が資金集めを目的にして、武道関係者や格闘技関係者の中でも盛んに行われるようになった。こうしたパーティー形式の会合では、飲食物は人員割りをして、その「全体の半分」と言うのが通り相場であり、したがって、この種のパーティーに不馴(ふな)れな人は、卓上の飲み物が少量である事に不満を洩(も)らす人も居る。 また逆に、この種のパーティーに慣れた人は、この手の催し物が、盛大に飲み食いするもので無い事を知っていて、立食パーティーは、会場の雰囲気を盛り上げる小道具であることを承知している。会場に集まった全員の乾杯が終われば、出席者の多くは「人」の方ではなく、「食べ物」の方に向かって一目散に直行し、貪り付くと言うのが、パーティー狎(な)れした人の姿だ。 そして参加者の多くは、「せっかく高い会費を払っているのだから、喰わなきゃ損。少しでも取り返さなければ」という意識が働いており、主催者の金集めの意図に対抗して、喰う事で少しでも元を取り返そうとする損得勘定がある事は明白である。 最早こうなれば、主催者側と参加者側の熾烈(しれつ)な争いであり、見苦しいものだけが鼻に衝(つ)いてくる。 以前、武道関係者や格闘技関係者の、この種の集(つど)いに招待された事があるが、物を食べる姿が美しい人は、今までに一人も見た事がない。そこで見たものは、大人も子供も、口一杯に頬張って「がっつく」姿だった。 彼等の殆どは、人よりも、料理であり、料理に向かって直行し、貪り食っている姿を見ると、「道だ」「礼だ」「武だ」「心だ」と豪語する言葉と裏腹に、何とも後味の悪い、遣(や)り切れない気持ちで一杯になる。 また貪り付く、こうした人に話し掛けても、料理が先の為、口一杯に頬張ったまま返答がなく、その人が飽食に腹を充(み)たすのを待って、やっと会話ができると言う有様で、こうした相手の姿を見ると、その人が如何に才能のある選手であっても、有能な師範であっても、その品位の無さに興醒(きょうざ)めしてしまうのである。 武道や格闘技では、得てして、「乾坤一擲(けんこん‐いってき)」などの言葉を口にする。乾坤一擲とは、運命を賭(と)して、のるかそるかの勝負を、此処一番という時の事を云うが、此処一番が、口一杯に頬張った姿では情けないではないか。 欧米などの上流階級で行われているパーティーの目的は、パーティーに華(はな)を添える唯一の御馳走(ごちそう)は、パーティーに集まった「顔ぶれ」である。決して彼等は、料理目的で集まったのではなく、収穫は、胃袋の中に収まった美味なる物や、珍味なる物ではない。その集いで、引き合わされ、新たに造り得た「人脈」なのである。 しかし日本では、立食パーティーの目的が、主催者側の資金集めを目的として行われる場合が多く、武道関係者や格闘技関係者のパーティーのみならず、政治家の主催するパーティーもまた、政治資金集めで、その意図が、本来のパーティーの目的から逸脱している事が明白となる。主催目的は立食をエサに、支持者から金を釣り上げているのである。 パーティー主催者が、愚者の領域の人であれば、当然参加者も愚者と言う事になり、日本人の武道愛好者や格闘技愛好者の立食パーティーのように、足は、「人」の方に向かず、「料理」の方に向いてしまうのである。 卓上の少なめの料理を、短時間で、どれだけ沢山食べるかが参加者の目的であり、そしてその姿を、一部の常識ある眼が、遠くから一部始終を観察し、食べている時の姿と、人間の程度を、じっくりと品定めされ、見透かされている現実があるのだ。 「食」とは、こうした恐ろしい一面も持っているのである。したがって、「人間の程度」を計るのなら、食事をするだけで充分に測定できるのである。 ●朝食抜きの食餌法のすすめ 一般に信じられている「朝食は一日の活動エネルギー源」という嘘(うそ)は、主に現代栄養学者や現代医学者が作り上げた、一つの仮説に過ぎず、むしろ朝食は摂らない方が良い。 「朝食は一日の活動エネルギー源」という仮説は、人間を機械に見立てた論理であり、生体の本質を見誤った短絡的な論理と言える。 車や内燃機関などの機械は、ガソリンを注入した時点で、直ぐに役に立つ働きをするが、人体では、食べた物が少なくとも7〜8時間以上経たないと、それをエネルギーに変換する事が出来ない。機械は人体に比べて単純であり、燃料を補給した時点で動き出すが、人間はそうはいかない。複雑な物質代謝系を経て、はじめて食糧はエネルギーに変換されるのである。 したがって、その朝に食べた朝食が、その日のうちの活動エネルギーになる等と云った、仮説は成り立たなくなる。 今日一日の活動エネルギー源は、既に、前夜までに摂られた食糧によって賄(まかな)われているのである。 人間の生体活動を支えているのは、医学的に見て、その生理機能は、「同化作用」と「異化作用」である。これは、相互間では全く相反する方向性を持っている。 同化作用は生体物質を合成し、エネルギーを蓄積する働きを司る。一方、異化作用は生体物質を分解し、エネルギーを解放し、更に消化すると言う働きを司っている。 そして、この二つの特性を持つ作用は、昼と夜で、各々の働きが切り替わるのである。 日暮れから暁方(あけがた)までにかけては、「同化作用」が優勢になり、夜明けから日中の間は、異化作用が優勢になる。 もっと分かり易く言えば、「食事」と「睡眠」が同化作用の働きであり、「排泄」と「活動」が異化作用の働きである。 昨晩の、食事を摂る事によって、心身がリラックス状態に至れば、眠気が襲って来て、睡眠状態に入り、睡眠中に同化作用が完了する。そして、翌朝目覚めた時には、食べ物の摂取によって生じた不要物の排泄にかかるのが、実は「朝」のタイムであり、排泄して身軽になれば、睡眠中に得たエネルギーを遣って、その日一日、存分に活動ができるのである。 したがって、朝は「排泄タイム」であり、食事をする時間ではない。排泄をスムーズに行う為にも、朝食は抜いた方が好ましいのだ。 この排泄タイムに、ある一定以上の食事を胃袋に送ると、かえって自然な排泄反射にブレーキをかけ、やがてこれが便秘などになって、腸内に宿便を宿す事になる。 愚者の中には、排便をしっかり行う為に、朝食をしっかり摂っていると云う論理を掲げている人もいるが、人間の生体は機械ではなく、生体のおける腸管は、機械の管(くだ)のようにトコロテン方式のようにはいかないように出来ているのだ。沢山押し込めば、腸管に残っている古い不要物は、総て押し出される等と云った具合には、決して出来ていないのである。 しかし、排泄反射を高める為に、飲食物を胃袋に少量の液体を入れて、刺戟(しげき)すると、その反射作用は大いに高まるので、便通促進からも、ヨモギ、枸杞(くこ)、はぶ、ドクダミ等の薬草茶を飲むのは効果的であり、また、胚芽、葉緑素、花粉、高麗人参茶、玄米スープ、梅干茶、梅干におろし生姜などの食物を飲用する事は非常に好ましい。 一日三食より、二食へ、二食より一食へと、食事会数を減らして行くほど、全体の食事量か確実に少なくなり、身軽になるばかりでなく、経済的にも節食が出来、省エネに繋がる。また、霊的体験も旺盛になり、こうした粗食・少食を実行する事によって、確実に半身半霊体(はんしん‐はんりょう‐たい)に近付く事が出来るのである。 詳細については、下記のホームページに掲載されているので、是非熟読頂きたい。 ●大東流霊的食養道 http://www.daitouryu.com/syokuyou/ ●癒しの杜の会 http://www.daitouryu.com/iyashi/ ●トイレの遣い方の作法 さて、異化作用により、便通を催したらトイレに行くが、トイレの遣い方にも礼儀作法があるのを御存じだろうか。 トイレは、単に大小便を排泄するだけの場所ではない。トイレは英語のトイレット・ルーム(toilet room)の略語であるが、この意味は化粧室、手洗所、便所であり、日本では「厠(かわや)」(かわや)とも言われて来た。 厠の意味は、川の上に掛けて作った屋代(やしろ)の意味で、また、家の傍(そば)の屋の意とも言い、大小便をする所を、こう呼んだ。 『古事記』の中には、「朝署(あさけ)に厠に入りし時」の一節があり、「厠の神」が居る処とされた。 「厠の神」は、厠を守護する神のことであり、埴山姫(はにやま‐ひめ)と水罔女(みずは‐の‐め/罔象女とも書き、「神代紀」に出て来る水を司る神)の二神がおられる。 また、厠は「雪隠(せっちん)」とも言われ、関東地方や東北地方では「雪隠詣り」という行事があり、生後三日または七日に、赤児を連れて便所の神に詣る風習が、つい最近まで広く残っていた。 つまり便所は、霊的に見て、明らかに神が鎮座(ちんざ)する場所になっている事が分かる。神が居る以上、そこには当然の如く礼儀作法がなければならない。 |
▲トイレット・ペーパーは使用後、次に遣う人の事を考えて、必ず紙が引き出し易いように、紙の尖端を三角に折り込む。これは使用者の礼儀であるので、厳守するように心掛ける。 | ▲トイレ掃除は内弟子に課せられた重要な修行課題であるが、尚道館・陵武学舎では、便器を洗う際、便器タワシ等は遣わず、大小便器とも、人間の手で洗う。自分の手で便器を洗い、そこから道を学ぶのだ。 | ▲人間修行の内で便所掃除ほど修行になるものはない。不浄の場を浄める事で心が磨かれる。 |
食事の仕方と同じように、トイレにも礼儀作法があり、その遣い方によって、その人の人格と品格が顕(あら)われる。食事をする事を簡単に考えている人は、トイレの遣い方も雑で、実にだらしがない。小便器の使用後は水道ボタンを押して、必ず水を流す事は勿論だが、だらしのない人間は、この中に、唾(つば)や痰(たん)を吐き込み、実に乱暴な遣い方をするものだ。そして礼儀など何処にもない。 「お里が知れる」とは、この事を言うのだ。 また、この手の人間は大便器の使用においても実にだらしなく、便器に自分の大便の跡(あと)を残す人間が居る。 大便器の使用は、使用する前にトイレット・ペーパーを二つ折りにして便器の中に敷き、このようにして遣う事が礼儀であるが、これを知らない人間はそのまま、自分の大便を垂れて跡を付けて憚(はばか)る事も知らず、掃除すらしない者が居る。 本来、「憚る」とは、便所の「はばかり」をも指す言葉であり、世話になる時の挨拶の語である。したがってトイレの遣い方には、そこに人格と品格が顕われる。 遣い方のだらしのない人間は、如何に「道」を唱えてみたところで、誰も信用する者は居なくなるだろう。 トイレも、食事と同じように見苦しくなり易い処であり、人間のレベルが顕われる処なので、充分に注意したいものである。 ちなみに尚道館・陵武学舎の内弟子達は、トイレ掃除をする時、大小便の便器を自分の手で洗い、磨き上げる事を毎日行っているので、こうした場所のトイレを使用する場合も、彼等に対し、礼儀に反しないよう充分に細心の注意を払い、「憚る心」をもって、他人に世話になる礼儀を忘れず、「他人行儀」に、丁寧に使用したいものである。 ●礼儀を知る事は護身法を知る事である 人としての礼儀は、天地の摂理であると同時に、護身法の心得でもある。 礼儀はある意味において、社会秩序の規範を為(な)すものであるが、礼儀を糺(ただ)し、礼儀に従って行動をすれば、他人から無用の辱(はずか)めや侵犯を受ける事はない。礼儀の効用は、こうした他人との摩擦を避けると言うところにも顕われる。 ところが礼儀から逸脱し、傍若無人(ぼうじゃく‐ぶじん)に振る舞ったり、傲慢(ごうまん)な暴言を吐いて、他人を中傷誹謗して笑い者にする目的でこれを行った場合、必ず恨みが発生する。そして以降、命を付け狙われ、無慙(むざん)に命を落とす結果にも作(な)る。 特に、武術家や武道家と自称して名乗る人間に限り、正しい礼儀を心得ている者は少なく、礼儀作法を自分流に解釈して、挨拶をする、お辞儀をすると言った類(たぐい)を礼儀と理解しているから恐れ入る限りである。 そして、このレベルの者は、礼儀と、挨拶やお辞儀を、混同して考え、その区別も付かないようだ。 だからこそ、恨みを買われ、命を付け狙われる。また、詐欺(さぎ)や騙(だま)しの手口に引っ掛かって、無駄銭を遣わされ、あるいは保証人等も引き受けて、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなるのも、この種の人間だ。 保証人を引き受けて喰い物にされる人間は、自分も「礼儀の何たるか」を知らないからだ。 詐欺や、騙しの手口や、保証人に仕立て上げられる人間は、まず、自身にも「礼儀がない」と言う特徴を持っている。 実例で示すと、他人から何事かを頼まれる時、その他人である相手は、礼儀が有るか無いかと言う事が、その人間を見抜く場合の極め手となる。相手に礼儀のない場合、決して頼まれ事は受けるべきでない。 人に、ものを頼む場合、頼む側は、頼むべき形としての礼儀があるはずである。 したがって、寿司屋やラーメン屋に、出前を頼むような分けには行かなくなる。 人に、ものを頼む場合、頼む側としての手順と、形と、礼儀を尽くそうとしない相手に対しては、如何なる頼み事であっても、絶対に腰を挙げるべきではない。物分かりのようようなふりをして、軽薄な態度でこれに応じると、必ずと言っていい程、その相手から煮え湯を飲まされるのである。 本来ならば、自分から逢(あ)いたいと願い出る者、学びたいと願い出る者、あるいは頼みたいと願い出る者は、まず、その相手の方に出向く事が礼儀である。ところが、願い出る方が、学校の先生や先輩、あるいは同門流派の先生や先輩となると、こうした願い出る方は、まず、自分が逢いたい者を、自分の方に呼び寄せる無礼を働くものである。 先生や先輩は、後輩や門人を、自分より格下と見越して呼び寄せるのであろうが、結局、呼びつけられれば、「保証人になってくれ」とか、「マルチ商法を遣らないか」等と持ちかけられ、頼み事の趣旨は欲ボケした頼み事であり、こうした一連の頼み事の中で、無礼で、何処か訝(おか)しいと感ずる部分があったら、その時点で協力は断るべきである。 保証人にさせられて、自らの財産を総べて巻き上げられたり、マルチ商法に嵌(はま)って、巨額な金を支払わされるのは、相手の姑息(こそく)な詐取(さしゅ)も去る事ながら、自分自身が礼儀を知らない為に、相手の欲望通りの意図に誘導されてしまうと云う事なのだ。 こうした「礼儀」というものを原則に、依頼事を当ててみて、その礼儀から逸脱した依頼事は、絶対に受けるべきではないのである。 以上のように、「礼儀の物差」で相手を計れば、決して自分が保証人に仕立て上げられたり、依頼事で被害を被る事はない。すなわち、これは礼儀の、護身法と謂(い)われる所以であり、礼儀を知ると言う事は、そのまま“護身法”に繋がると言う事なのである。 礼儀が急速に失われている現代、危険から身を護るのは、何も相手の物理的な暴力ばかりではない。こうした人間の裏側に潜む、欲望や野望の意図からも、命ばかりではなく、生活経済の糧(かて)である財産も護らればならないのである。 以上を段階事に述べて来ると、尚道館・陵武学舎では「何を指導するか」という事が、お分かりだと思う。ここは武術の儀法(ぎほう)のみを指導するのではなく、それを遥かに超越した「人生を指導する」場所であると言う事が、充分にお分かり頂けたと思う。 人間は、如何なる年齢であっても、「これでよし」という次元、あるいは境地には、中々到達できないものである。何人(なんびと)も、未熟な人生の放浪者であり、迷い人である。 地球上に起っている「現象人間界」の構造は、極めて不完全に出来上がっており、現代社会と云う民主主義の政治システムは、未だに「完成されないピラミッド」である。 人は未熟ゆえに、迷い、苦しみ、悩み、その苦悶(くもん)の中で、何ものかを必死で探し続ける。そして、その行為には間違いも多い。 自分の知らないところで間違いを犯し、またその間違いから誤解を受け、それを糺(ただ)そうとして苦悩が始まる。しかしこの苦悩こそ現実であり、この現実を素直に受け入れる事こそ、「現象人間界」を経験し、体験する事なのだ。 人間は「神」では決してない。聖人とて「神」ではない。何処まで突き詰めても、一個の「人」に過ぎない。 「人」なるが故に、神になり得ぬ苦悩が同居する。しかしこの苦悩を乗り越えて、現象人間を全(まっと)うし、人生最後の臨終(りんじゅう)に際して、「自分は人として、何をして来たか」という、最後の総決算に臨まなければならない。総決算において、褒(ほ)められる事より、罰される事が多いであろう。 しかし、喩(たと)え罰される事が多かったとしても、自分は精一杯生き、苦悶しつつも、精進・努力して、人生に工夫を凝(こ)らして生きて来た事だけは、最後の審判で恐れずに告げなければならない。罪多し人生であっても、間違いだらけの人生であっても、それを生きて来たことに恥じ入る事はない。神ではなく人間だから。 ただ、堂々としていればよいのである。 問題は、懸命に生きたか、否かである。 最後に、再び『マタイ伝』(7・13〜14)の一節を持ち出すが、此処にはこうある。 「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きく、その路(みち)は広く、之(これ)より入る者多し。生命(いのち)に至る門は狭く、その路は細く、之を見い出す者は少なし」 生命に生き抜く門は、狭く、入り難く、また苦しく、痛く、更には醜い。したがって、それが酷ければ酷い程、しっかりとした足取りで歩かねばならない。そして、その扉に辿り着く事が出来たら、力強く門を叩こう。「頼もうー!」と。 尚道館の内弟子寮・陵武学舎とは、こうした処なのだ。 《メールを送信する場合の注意》 こちらから送信されるメールは、全て宗家先生ご自身が直接目を通されます。 内弟子制度に関する質問については礼節を保ち、礼儀を正して、あなたの人間性と品性を下げないようにして下さい。
また、メールで質問できない内容や、秘密・厳重に伏してもらいたいものは、封書で下記の住所へ、返信用封筒に宛先人を記載し、140円切手を貼って、お問い合せ下さい。
このメールを武術修行の第一歩であると捉え、容易に考えず、慎み深く振る舞われますことをお願い致します。
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