内弟子制度 8
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▲西郷派大東流合気武術総本部・尚道館。
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▲尚道館は青い看板が目印。
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▲道場玄関前に掛かる「尚道館」の額文字。
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●内弟子として入門することについて 入門については、入門審査の合格者に限り随時受け付けているが、入門開始日時は奇数月(【註】1月・3月・5月・7月・9月・11月のみ、偶数月は受付けない)の第一日目が入門第一日で、その時間帯は午前5時30分(【註】但し、9月23日の「秋分の日」を境に、翌年の3月21日の「春分の日」までは冬場は「冬期稽古」あつかいで、起床時間は午前6時からとなる)からとなる。審査に合格し、入門を許された者は、奇数月の最終日の午後六時までに入館し、夏場は早朝5時30分に入門許可式が行われ、冬場は午前6時に入門許可式が行われる。 これは《八門遁甲》の「軍立(いくだて)」に基づいて、「卦」を立て、天地間の変化を表し吉凶の判断をする算木(さんぎ)の儀式を形象した秘伝に則っている為である。 入門後の禁止事項は、絶対禁煙は勿論の事であるが、飲酒についても特定の定められた日以外は酒飲を禁じてあり、入門に当たり、こうした人体に有害なタバコ、アルコールを我慢できない者は、内弟子として参加するに値しない人間である事を申し渡しておきたい。 また内弟子の間は、如何に寒くとも、靴下や足袋(たび)を履く事は許されず、年中裸足で過ごす事を義務付けている。修行期間は素足にして、大地から直接エネルギーを吸い上げる事のできるように、自らの足を鍛え、肉体を大切に、効率的に遣う事を学ぶのである。そしてこうした厳しい日々を体験して、「非日常」に備える体力の精神力を養うのである。 生半可な修行は、儀法(ぎ‐ほう)の低迷を齎(もたら)すばかりでなく、精神的にも安易に流れ易い妥協的な弱い自分を曝(さら)け出すことになり、更には、以後内弟子修行期間を満期終了して、道場を開いたとしても、経営的に行き詰まるものである。尚道館で教わるものは、単に儀法のみでではなく、社会人として生きていく為の生活力や道場経営法まで、基本からみっちりを指導を授(う)ける事が大切なのである。そしてそこで問題となるのは、人生を生半可に生きる事の禁物である。 人間は楽を好む生き物である。したがって、人生活動において、将来は楽をしたいと夢見て、老後の為に働くし、人より優雅で、贅沢で、豊かな生活をしたいと思うから、少しでも労働対価の高い就職先を見つけ、そうした職に就きたいと学生時代から奔走する。就職後も、楽な生活を夢見て、人より一歩先んずるように心掛け、生存競争の中で奔走する。「楽」を求めて熱中する。しかし、こうした目論みは、現実社会に放り出されて幻想だったことに気付く。儚い夢であることを思い知らされる。 「楽」など何処にも存在しないのである。常に「苦」の連続であり、来るし見抜いた挙げ苦汁の汁を嘗めさせられると言うのが、実社会の現実だ。「苦」が連続するから、その隙の垣間を窺って、「楽」を求め、一旦その「楽」に酔い痴れると、もう、此処(ここ)から抜けだせなくなってしまう。これが「楽」の恐ろしいところだ。 修行者は常に真剣勝負であるべきで、中途半端な妥協は許されない。修行に「楽」など、存在しないのである。苦しみ抜いて、苦しみ抜いた後に、新たな光が見えて来るものである。この光を体験するには、「苦」を徹底的に経験し、その中で、自己との格闘を試みなければならない。 武術の教えに「闘魂(とうこん)」というものがある。闘魂とは、己の魂と戦う事だ。 繰り返すが人間は「楽」を好む生き物だ。「楽」は一つ間違えば、堕落する危険性を持っている。そして墮落が始まったら、此処から抜け出すことは容易でない。 墮落は、「楽」を好む、心の弱さや、魂の軟弱さから起る。諦(あき)めや、絶望や、失意や、挫折も、魂の軟弱さが原因している。魂が軟弱になれば、もやは戦う術(すべ)はなく、一気に人間崩壊へと拍車が掛かってしまう。 そして、安易なものに流れるようになってしまう。 一度(ひとたび)安易なものに流れ易い体質をつくると、常に楽な方へと流れて行って、自分自身を見失うのである。したがって常日頃から、日常を「非日常」として生きて行く心構えが必要で、「苦あれば楽あり」の教え通り、これを実践するのである。 非日常とは、常日頃から不測の事態を想定し、これに対処し得る準備を積み重ねておくことである。 兵法で言う、「敵は、いつ攻めて来ても、これに対処できるという、百年兵を練る」とこである。そして、安易に「敵は、攻めて来ないかも知れない」と楽天的な思考を抱かないことだ。 いつ来ても、常に対処出来、したがってこうした日頃からの準備と防備が、敵を安易に攻め込ませない境地を確立する事が出来るのである。 こうした意味で、一種の防備として「裸足健康法」も、その一つである。 常に非日常を想定して、鍛えるべきことは鍛えておく必要がある。 さて、人間は若い時分や修行時期に、裸足で足を鍛えていないと、歳をとってからの晩年は、足や膝や股関節の病気(【註】神経痛をはじめとして、半身不随、股関節亜脱臼、リウマチ、半月盤損傷など)をで悩まされる事になる。老人性の腰痛や膝痛、半身不随、股関節亜脱臼、その他の膝や脚に関する病気の殆どは、若い時分に鍛えなかった人間に限ってこうした現象が現れている。精神的にも、怠け者では逆境に耐える粘り強い心境すら養えないのである。 また、足の指を充分に開く事も、「合気」を学ぶ上では重要な事柄である。人間は足の指を充分に開く事が出来て始めて、大地からエネルギーを吸収する事が出来るのである。西洋気触(かぶ)れの、靴の生活からは絶対にこうしたエネルギーを吸収することが出来ないのである。したがって尚道館では、普段は下駄履きや雪駄履きであり、足の指は開くよう、こうした物を修行材料に使っている。
この二分化は、容易に身に付かないが、一本下駄で鍛練すると、自然体に立っただけで、重心は等しく二分化するのである。多くの膝や脚の病気は、左右いずれかに極端な体重は掛かり、それが過剰負荷となって不均衡な為に起るのである。合わせて、冬でも素足で通す、習慣を身に着けておかないと、晩年は膝や脚の病気に苦しめられるのである。 冬場でも裸足で通しても、霜焼け(【註】この病気は、強い寒気にあたって局所的に生ずる軽い凍傷であるが、赤く腫れて痛痒くなることが多いが、結局血行不良から起こる病気)や凍傷(倦怠感、睡気、体温の低下などを催す症状であり、周天法の未完成がこうした現象を招く)の一つも出来ることはない。霜焼けや凍傷ができるのは、足の皮膚に問題があるのではなく、内臓に問題を抱え、その直接的な原因は動蛋白摂取過剰にある。食肉や乳製品などの摂取過剰であり、これを摂り過ぎると、冬場にこうした病気に掛かる。霜焼けや凍傷は、靴下や足袋を履かないことから起る病気ではない。普段からの食事に間違いがあり、足のそものを鍛えていない不摂生にあり、これに食事の誤りが拍車を掛けるのである。 かつて、東京の某修道院に行った時、若いシスター達は、雪の舞い散る冬場でも素足であった。室内には石油ストーブが置かれていたが、これは来客があった時だけに灯されるもので、普段は使用しないと言う事であった。 彼女達は、冬場の冷たい大理石の石の上でも白い素足のままで歩き、靴下など履いていなかった事が、非常に印象的だった。本来は武術や武道に殆ど関係ない彼女達でも、こうして冬場でも素足で過ごし、強い精神力を持っているのである。華奢(きゃしゃ)な、何の武道の心得もない彼女達の精神力には、非常に驚かされる。安易に、女は脂肪が多いから寒さに強いという勿(なか)れ。 それに比べて、試合場以外は、直ぐに靴下を履くスポーツ武道選手や格闘技選手、はたまた武術を修行する愛好者達も、少しは修道院のシスターを見習ってもらいたいものである。 年中素足で過ごし、足を寒暖の大気に鍛え、しかも下駄履きや雪駄履きを徹底して、足の指が開くような修練をするべきである。そして足の指が充分に開き、足の指が良く動く、というのが合気を学ぶ為の条件となり、これが自然と身に付いて行かないと、幾ら高級技法を知ったとしても、それは合気として活用できないのである。 尚道館ではこうした縛も、厳格に指導するので、人間が裸足で大地を踏み締める事が、如何に大事であるか指導しているのである。 その他については、特別な禁止事項はなく、午前中は会得しなければならない修業カリキュラムが集中するので、外出が禁止であるが、昼食後の午後については特別の稽古が加わらない限り、自由に外出する事が出来、門限も特別に定まっておらず、午前零時までに戻れば、こうした事も比較的自由に行えるようになっている。 ●尚道館では内弟子制度を通じて、人間として生きる事を教える 私たち人間は、その人がどういう職業であり、またどういう身分であるかと言う前に、まず人は「人間である」という事に気付かねばならない。人と人の間に生きる「社会人間」なのである。そして人間は、様々な苦しみを一身に背負って生きている生き物であると言う事を知らなければならない。 私たち人間は、人として生きると同時に、その過程は「変化の連続」を体験することであり、その変化の中で苦しみを背負う。したがって順風満帆(じゅんぷう‐まんぱん)など、人生ではあり得ない。多くの人は、物事が順調に進んでいる時は警戒心を怠り、物事に対して安易に考えがちだが、こうした時にこそ警戒心を怠ってはならないのである。 「変化」という苦しみは、突然に襲うものであるからだ。 順風満帆の一時の快調な滑り出しに、気を良くして有頂天になってはいけないのである。有頂天に舞い上がる事こそ、墓穴を掘る最悪の禍根なのだ。 喩(たと)えば、恋人や友人を得ても、こうしたものは永遠ではない。常に変化が起こっている。最愛の妻と信じた女でも不倫はするし、最愛の良人(おっと)と信じていても、陰で妾(めかけ)を侍(はべ)らせているかも知れない。また、親友と思っていた友でも、いつ叛逆の牙を剥(む)き、寝首を掻くか分からない。人生は不測の事態の連続だ。 幸福に満たされたような生活でも、一度「非日常の生活」(【註】異変や戦時)が余儀なくされれば、今まで幸せと思っていた日常生活は一挙に逆転する。 また不慮の事故に見舞われれば、今までの幸せは忽(たちま)ちのうちに崩れ去ってしまう。人間はこうした変化の苦しみに、うちひしがれるものなのである。だからこそ、「非日常」に対して備えることは非常に大事なのだ。 幸福な日常の日々は、一度(ひとたび)非日常の変化が起これば、一瞬にして台無しになるのである。人間は絶えず、苦しみに中に、苦しみを抱えて生きる生き物なのである。そして人間の世の中は、苦しみの上に苦しみを重ねて、回転し続ける世界観で覆われているのである。 こうした現世の現実を逸早く感得し、これをありのままに受け入れることが人間として生きる道なのである。 だからこそ、ここに修行と言うものが必要になってくる。何故ならば、「幸福」と言う実態は、機が熟すると「崩壊」に向かって転げ出すものだからである。 これをもっと掘り下げて考えると、「個人の幸福」というのは、「他人の不幸」の上に築かれるからである。 喩えば、体力維持や体力増強と称して、美味しい肉料理に舌鼓(したつづみ)を打ったとしよう。この美味しい肉を提供する為には、誰かが動物を殺す仕事に手を染めなければならないからである。こうした陰の屠殺人(とさつ‐にん)によって、美味しい肉は提供される。また動物は、こうして自分の命を人間に奪われる。動物は人間と同じ性(さが)を持っているので、殺される時、恨みの念を飛ばす。これは「肉喰った報い」となる。これが不幸であって何であろう。 つまり人間の幸福は、他の苦しみの上に築かれ、どんな幸福でも、結局は苦しみの条件になることが免れないのである。 そして人間にとって、生まれること、年をとること、病気になること、死ぬことの四の苦しみは、必ず直面しなければならないことなのである。 こうした現実を抱えながら、人間は「生きている」と言うことを実感しなければならないのである。そして生きているという実感は「今、この一瞬」ということ以外に何もない。「今」の連続こそ、「生きている」の実感なのだ。 尚道館では以上の事を踏まえ、真の現実を、個々の修行者に問いながら、単に技術的な修練に明け暮れるだけではなく、もっと根本的な人間の根底にまで、自己を掘り下げて、「人間として、如何に生きるべきか」ということを教示し続けているのである。
さて人間の人体には、一つの秩序立った働きがある。この働きを無視して、正しい食養道は語れないのである。 |