尚道館少年部 5



●近い将来、誰にも等しく、大激変が待ち構えている

 将来を見通す占師のような、水晶玉を持っている人など、殆どいません。
 しかし明白なのは、「学校でいい成績を取って、いい仕事に就く」という考え方は、既に時代遅れになっています。時代は確実に新しくなり、今の子供にあった、洗練された人間像が求められているのです。こうした新しい時代の到来には、親自身が新しい考えを持って、これまでとは異なる教育を打ち立てなければなりません。

 つまり、立派な社会人として努力すると同時に、やがては自己資金を用いて、新たな会社を興すような思考構造に、子供を教育しなければならないのです。畢竟、創造性です。
 今日のベンチャービジネスが持て囃されているのは、こうした事からです。この原動力は、誰にも等しく与えられています。
 そして、思いがけない大激変が待っている近未来において、この大激変の大波は、ある人にとってはチャンスであり、また、ある人にとってはピンチになりうる人生の岐路が、直ぐそこに控えていることになります。
 そして明暗を分けるのは、この大激変に立ち向かう人と、これを惧(おそ)れて、逃げ回る人の差に、これが生じます。

 未来がどうなっているか、それを明確に答えられる人など殆どいません。しかしどんな大激変が来ようと、私達に与えられた選択肢は、二者択一です。
 一つは大激変に乗じて、自分の中の魂を呼び起こし、積極的に、新たな世界に挑戦する人と、もう一つは、安全と安定を求め、消極的に保身に奔(はし)り、将来に備えて、教育一辺倒に入れ込み、時代の動きを無視して、経済的な安定のために人生を模索する人です。
 そして親達が子供に対して「勉強しろ」と言う勧めも、当然の如く二者択一の中では、天地の隔たりが生じます。

 同じ教育を目指すものでありながら、前者はその目的が大激変に耐えられる新たな世界への模索のために教育が必要と考えているのに対し、後者はただ、いい就職先を見つけて、安定した収入を得るためにのみ、教育が必要と考えている点です。同じ教育という領域にありながら、両者の考え方は、天地の開きを持っています。
 あなたは子を持つ、親として、一体どちらを選択されるのでしょうか。



●子供に教えなければならないことは、「人は皆平等でない」ということ

 人類が、みな平等だとする考え方はあくまで建前であり、世界中の至る所には、激しい人種差別や民族差別があります。これは厳然とした事実であり、何びとたりとも覆えすことは出来ません。

 アメリカがこれまで日本を助け、これからも日米安保条約を締結の踏台にして、日本を助けるかのようなポーズをするのは、朝鮮半島を入口として、中国という巨大国家が大きな黄禍を横存(よこた)えているアジアの構造を熟知しているからです。
 巨大中国は中華思想を原動力として、世界制覇を狙う野望を着実に完成させつつあります。アメリカはこうした中国の野望を挫き、阻止するための、防波堤として日本を利用しているに過ぎないのです。アメリカの狙いは、日米安保条約の裏に、こうした中国の世界征服を阻止するという動機が、根底に働いているのです。

 したがってそれは、決して日本が好きだからではなく、日本列島という土地の持っている位置が重要なのであり、日本人がどんな悲惨な目に遭おうと、知ったことではないのです。
 彼等アメリカ人にとって、日本人と平等などという意識は毛頭ありません。アングロサクソンの白豪主義思想は、何が何でも、自分達が頂点に位置して君臨しなければならないと言う意識が働いています。平等などという気持ちは全く存在しません。ただ彼等の意識の中には、アングロサクソン系の白人が常に頂点にいなければならないとする考え方です。
 アメリカと言う国家の社会構造は、建国以来、階級国家・階級社会であると言うことを忘れてはなりません。また対等という意識もなければ、同格という意識もありません。
 私達日本人は、この現実をハッキリと認識しなければなりません。
 そして明白なことは、「人間は平等ではない」ということです。

 戦後の民主主義教育下で、多くの日本国民は平等教育で、「平等主義思想」を培養され、これが世界で最も正しい考え方であると盲信してきました。

 ところが現実は、「平等」など何処にも存在しません。
 人は皆顔が違うし、性別も異なり、その両者は体力も異なります。現に美男美女と醜男醜女の現実も、無視することが出来ません。才能も、素質も、人各々であり、また能力も、適性も、各々に異なり、この差は歴然としています。貧富の差も歴然であり、金持もいれば貧乏人もいます。こうした現実を無視して、「平等」など、絶対に在(あ)り得ないのです。

 時代は確実に変わろうとしています。この変化に気付かずにいると、未来は絶望的なものになります。
 「歴史は繰り返す」という諺があります。その諺通り、歴史は繰り返し、今まさにその過度期にあります。
 歴史を振り返り、研究して見れば解ることなのですが、偉大なる文明は、今日の社会のように、「平等」と標榜しつつ、その裏側には歴然とした事実として、金持と貧乏人の格差があり、この両者のギャップが、極大状態に近づき、これが最大値の臨界点に達した時、その文明は滅亡しているということです。

 よく理解して頂きたいことは、親も無教養で入られないと言う時代なのです。

 ヨーロッパ大陸の文明や国家のみならず、ユーラシア大陸においても想像を絶する、闘争が繰り返され、文明と国家の浮沈がありました。
 マケドニア、ペルシャ帝国、サラセン帝国、蒙古、清朝などがそれにあたります。
 そしてアメリカも、そうした国家や文明が滅びたように、滅びの道を突き進んでいます。資本主義社会の総本山であったアメリカは、その屋台骨がぐらつき始め、高度に発達した金融経済を母体にした近代資本主義も、そろそろ翳(かげ)りが見え始めて来ました。

 私達は、教育や学問というものを、一種の暗記事項に対する記憶力と考え、長い間、誤解し続けてきました。
 喩えば、「歴史」という課目を、歴史に記されていることから学ばず、単に歴史の授業で、年号や日付、人の名前や事件名ばかりを暗記してきましたが、そこに書かれた教訓は、何一つ学ぼうとしませんでした。
 こうした、教訓を学ばないという現代の社会構造が、実は、金持と貧乏人の格差を広げ、諸物価高騰の現実を作り、更に、税金引き上げの現実を作りました。
 税金は年を追って益々高くなり、年金給付の年齢は徐々に引き揚げられ、企業年金や国民年金も、充てにならないという、政治と社会を作り出しました。

 この実社会では、学問や、学校での教育が全く生きていないのです。
 本来ならば、政治が正しく機能して、政府がしっかりしていて、社会を構成する仕組と、それに携わる構成員の教育程度が高くなればなるほど、物価は上がらなくてすむはずなのですが、政治の老朽化に伴い、民主主義は大衆の声が反映されなくなってしまいました。大衆の声が反映されれば、税金にしても上がらなくてすむはずなのです。むしろこれらは、下がるべきであって、上がるべきものではありません。
 しかし学校教育で教えたことは、教訓を学ぶというものではなく、年号や日付、人の名前や事件名ばかりを暗記する暗記教育だったのです。この暗記力に優れた人が、実は、政治を行い、あるいは高級官僚として、日本を益々駄目にしているのです。



●己を知ること

 日本人が古来より信じてきた「三種に神器」というのは、八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)、八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)の三つでした。
 天叢雲剣(刀)は「力」を象徴し、八尺瓊曲玉(玉で作った勾玉)は「人の和」を象徴し、そして八咫鏡は「己を知ること」を象徴しています。

 「己を知ること」は、自分を瞶(みつ)め直して、「これでいいのだろうか?」と自問自答を繰り返す切っ掛け与えてくれるものです。
 今しているしていることが正しいかどうか、あるいは初心を忘れてないかどうか等の、反省を与えてくれるものなのです。古人は鏡に自分の顔を映し、自分に自問自答しました。

 私達は、時には鏡を見て、自問自答し、もう一人の自分の声に、耳を傾ける必要があるのです。
 鏡とは、鏡の中に居る、もう一人の自分に問いかけ、己を再点検する最良の自己反省器だったのです。
 そして反省しつつ、前進していくところに、「進化」という向上の原点があったのです。

 人は、限りない希望の高みに向かって前進してきました。この定義は、宇宙は進化する、したがって人類も進化するという考え方に回帰します。
 もし人間が、進化の材料である「反省」という点が欠けていたら、あるいは己を知ると言う意識に欠けていたらどうでしょうか。
 そして生きる目的が、親の時代と、子の時代で、旧態依然の安定を求めていたら、一体どうなるでしょうか。

 目的を持たず、進化の意識を捨てて、旧態依然の安全地帯に逃げ込んで、保身だけを人生の目標に掲げた場合、これはやがて滅びの道へと繋がります。
 これを宇宙の進化の当て填(は)めて見ますと、もし宇宙全体が、進化の意識を捨てて、低温の赤い熱を好むようになると、高温度の青白い焔(ほのお)であるところの、人間の本質は、活動が低下し、不燃性のガスが溜まり、黒点を作り続けるようになります。

 やがて時が来て、こうした停滞状態は、それ事態の自浄作用が失われ、低温の赤色巨星の集合体となって爆発するか、あるいはブラックホールとなって、宇宙の星々に終焉(しゅうえん)が訪れます。
 そして最早そうなれば、幾度となく繰り返して来た、前進は望めなくなり、これまでの進化を繰り返してきた努力も、また無に帰してしまうのです。

 己を知るということは、内なる、もう一人の自分を再認識することです。そして内なる自分に克(か)つために、己自身と戦い、闘争本能を目覚めさせるのです。これが武術で言う「闘魂」であり、闘魂を燃やし続けることが、人としての使命であったはずです。
 ところがこうした闘魂を忘れている、大人達も少なくありません。

 人間のあくなき向上心と、克己心は、実は原始時代から受け継がれた闘争本能の変形であり、これが知性という目的を構築し、同時に内包された闘魂で、自らの魂を燃やし続けてきたのです。そしてその焔が映し出される媒体が、実は八咫鏡に由来する「己を知る鏡」だったのです。