尚道館少年部 2



尚道館少年部に、わが子を少年少女部に入門させたいと希望する、お父さん・お母さんへ


●戦後民主主義教育が、今日の社会秩序をダメにした!

 昨今は少年少女に絡む、様々な事件が世間を騒がせています。凶悪な事件の、暴力が大流行しています。
 こそ泥や痴漢などの「小さな暴力をなくそう」という撲滅運動は、全国至る所で起こっているようですが、殺人やテロなどの「大きな暴力をなくそう」というものは、具体的には、まだ何処にもないようです。

 昨今の社会風潮は、大きな暴力の大流行で、映画、テレビ、コミック雑誌、その他のマスメディアにおいて、外国物、日本物、時代劇物、現代劇物、そして内外のニュースや言葉使いまでが、暴力そのものの様相を呈しています。

 ニュースに挙げられる多くは、殺人、傷害、窃盗、誘拐、詐欺、贈収賄、家庭争議、不倫、異性間の縺れや同性間の縺れ、交通事故、内紛、戦争などの犯罪に関する事柄がダントツであり、何処かで殴り合い、殺し合い、抗争し合って、どれをとってみても、犯罪と無関係のものは何一つありません。【註】しかし強姦は親告罪なので、公訴を提起するに当り、被害者などの告訴・告発・請求がなければ犯罪として確立しない。そのため、これはニュースの報道外。したがって泣き寝入りしている被害者は非常に多い)
 現代人は何故、こうした不幸現象を自ら好んで、呼び需(もと)めるのでしょうか。

 かつて戦前・戦中に学んだ小学校の『修身』という教科の中には、

 「ケンカをしてはいけません」
 「他人に嫌がらせや、迷惑を掛けてはいけません」
 「他人の物を無闇に奪ってはなりません。盗んではなりません。犯してはなりま
  せん」
 「自分のことは自分でしなければなりません」
 「幼いものや、弱い人に対しては、進んで手を差し伸べねばなりません」
 「ウソをついてはいけません」
 「父母を大切にしなさい。親孝行しなさい」
 「老人は人生経験の豊富な人ですから、尊敬して大事にしなさい。姥捨山
(うばす
   てやま)
などに捨ててはなりません」
 「日本人として愛国心を持ちなさい」
 「お互に争わず、仲良くしなさい。人との『和の心』を大切にしましょう」


 という内容のものが書かれていました。

 ところが戦後に至って、『修身』という課目が、先の大戦に結び付いたという理由から、反戦の声が上がり、戦後教育の中で、平和主義と平等主義が持て囃(はや)されました。そしてアメリカの標榜する民主主義に、真っ先に飛びついたのが、日教組(日本教職員組合)という先生の組合でした。
 この組合は巧妙にも、「先生」という教育現場の第一人者達が、「先生の仮面」を被りつつ、政治家を目指す組織集団だったのです。この団体は、子供の教育のために闘争するのではなく、労働者としての権利を獲得し、自分の政治家としての出世ために闘争する集団だったです。
 そして、日教組のこうした陰の部分を、就学年齢の子供を持つ親達は、今まで安易に見逃してきました。

 戦後の日本の教育界を動かしているのは、かつての文部省(現在の科学文部省)と、それに指導された都道府県の教育委員会と、それに真っ向から対立する日教組でした。
 その図式は政治がらみで成り立っています。
 繰り替えし述べますが、日教組は先生の集団であると同時に、その中枢は政治家の集団に他なりません。
 1947年に結成された、教職員で組織する労働組合は、全国の国公私立の幼稚園から大学までの教職員から構成され、政治家が教育者のような顔をして、イデオロギーを動かし、社会主義革命ならびに共産主義革命によって、日本を赤化工作することを目的に結成された集団です。

 文部省から指導される都道府県市町村の教育委員会や、教育委員会から指導される、公立の小・中学校の教師は、自分を一人称にして「先生」ですし、他の職員を三人称にして「先生」です。
 この現実は、学校ばかりでなく、教育委員会に行っても、同じ官公庁の公務員でありながら、「先生」と呼び合う「先生ごっこ」があることには、唖然(あぜん)とさせられます。果たして官公庁の職員の中で、土木課や水道課の官吏達が、お互いを「先生」と呼んでいるでしょうか。しかし県庁舎や市庁舎を占める一劃(いっかく)の教育委員会では、税金でサポートされている公僕同士が「先生」と呼び合っているのです。
 この「先生ごっこ」は日教組の中にもあります。

 かつての文部省も、国民教育という建前を掲げ、その権限の目的を、役人集団に墜落させるという醜態を示したことは周知の通りであり、この両者の犠牲になったのが、戦後世代の子供達でした。

 文部省と日教組という対峙関係は、あくまでも批判者で止まるべきはずであった日教組が、政治家を目指す集団になったお陰で、日本の教育現場は滅茶苦茶になり、その余韻が、今日の暴力の世を形成したのでした。
 そして民主主義という隠れ簑(みの)を巧妙に利用して、平和主義と平等教育を押し進めたのでした。

 その平和主義を妨げるものの最たるものとして、『修身』という課目が真っ先に攻撃されました。
 「小・中学生に『修身』を教えると、戦争が好きになって、軍国主義になるから、子供達に『修身』を教えてはいけない。平和主義を守る上でも絶対に反対する。あくまで闘争する」と、こう言った姿勢を示したのが日教組でした。

 平和主義を、いつの間にか階級闘争に擦り変え、かつての『修身』が教えた「お互に争わず、仲良くしなさい」という教えを、戦後世代は教わっていないのですから、人と人の間には亀裂が起きて当然ですし、親子間にも断絶が起きて当然です。
 一種の資本主義的競争原理の働く現代は、結局、「闘争」という形が生じ、やがては愚かしい抗争が始まります。学校へ行くと先生同士がいがみあい、また、「家」というものを見れば、家長制度が崩壊しているために、親が子を殺すなどの、虐待する事件が起こり、逆に、子が親を金属バットで殴り殺すという事件が後を絶たないのです。総て「いがみあう」日教組が指導した、「闘争」から始まったものでした。

 昨今の青少年のマナーの悪さはどうでしょうか。
 モラルの低下はどうでしょうか。
 少年少女の性の乱れと、不純異性行為(現刑法には、未成年者が性的行為を持つと不純異性行為となり、法で罰するとある)の現実はどうでしょうか。
 小・中学生の中に蔓延する援助交際の現実はどうでしょうか。
 小・中学生が喫煙している姿はどうでしょうか。
 また深夜、コンビニの前でしゃがんでいる、多勢の未成年の男女の醜態は、いつからはじまったのでしょうか。
 果たして、今日の青少年の大半が礼儀正しいと言えるでしょうか。そして、一体誰がこうした青少年像を作り出してしまったのでしょうか。
 まずこうした現実を、親達は、ハッキリと把握する必要があります。



●無抵抗主義では、無慙に殺される

 都市型社会は、人と人の間を、冷ややか「断絶」、冷酷な「闘争」へと駆り立てました。
 確かに、こうした不穏な世相にあっても、犯罪者になる青少年の数は、ほんの僅かなものに違いありません。しかし一方で、年々、増加の一途にある青少年犯罪、あるいは犯罪の低年齢化は、その止まるところを知らず、右肩上がりに増え続けています。
 そして最も恐ろしいことは、凶悪残忍なことをした青少年が、警察に逮捕されても、一向に罪を改める事なく、平気な貌(かお)で、再び同じ事件を起こすことです。

 更に唖然にさせるのは、事件を起こした子供の親が、全くの無反省で、その凶悪な犯行が起こっても、知らん貌をしていることです。親も子も、罪に対して全くの無反省なのです。そして多くは、その犯罪の発生について、信じられないような温和な仮面を被った青少年が、平気で冷酷な犯罪をやってのけていることです。

 正常で、かつ平凡な、真面目?な少年が、突然、冷酷無残な犯行を犯し、何食わぬ貌で、日常生活を送っていることなのです。長崎の幼児誘拐殺人事件は、その最たるものです。
 平然と実行するという事にも、驚きを感じますが、何食わぬ貌をして、何事もなかったように、普段の時と変わりなく学校に行き、普段と変わらぬ、生活を送っている、この無神経にも驚かされます。

 あるいは人並みに大学を出た、常識或る高等教育を受けた青年が、テロ事件に荷担して、爆弾を仕掛け、何の関係もない人を殺すという事件や、地下鉄サリン事件も、こうしたエリート常識派と思える青年の仕業(しわざ)でした。

 誘拐事件や連れ廻し事件にしても、勝手に誘拐して来て、「泣いた」という理由で殺してしまうこの行動は、全く理解の出来ない心理状態です。
 まさに現代社会は異常であり、どこかが狂っていると言わなければなりません。

 また、青少年の間では覚醒剤(多くはスピードといわれるもので大麻を原料とする)がファッション化して、急増し、覚醒剤中毒患者が急増しています。
 また一方で、こうした人間に対し、人権擁護の立場から、彼等を社会に解放して、これが日本国憲法に定義された「基本的人権」と嘯(うそぶ)く、進歩的文化人も少なくありません。

 ノイローゼや精神分裂病は、一昔前に比べれば、年々増加の一途にあり、彼等は「開かれた精神病院」という名目で自由に解放され、人権擁護と基本的人権の保護という立場から、自由に車に乗ったり、あるいは自由に外泊できる制度が実施されています。
 そして現代人は、こうした社会構造の中で、味噌も糞も一緒になって、一つ道を間違えば、筆舌に尽くし難い犯罪に巻き込まれる側面が同居していることを忘れてはなりません。
 こうした犯罪の犠牲者の多くは、幼い子供や、小・中学校の児童・生徒であり、無慙(むざん)な殺され方をして遺体が発見されるというのは、周知の通りです。

 さて、こうした現実社会の中で、一方的に、無抵抗のまま、無慙に殺されてもいいものでしょうか。
 事件が起これば、犯行を犯した加害者には、進歩的文化人や人権擁護関係者から人権なるものが湧き起こって、保護と弁護で護られますが、一方、殺された被害者側の人権は、意外と無視されがちです。

 戦後教育の中で、平和主義の一貫として、「無抵抗主義」なるものがあります。無抵抗主義に徹すれば、如何に横暴な覇者といえども、最後は無抵抗主義に屈するという考え方が、一般的な意見として定着し始めています。
 果たして、無抵抗主義なるものは、本当に犯罪に遭遇した場合、効果のあるものなのでしょうか。

 近頃、NHKの『その時、歴史が動いた』(平成15年11月19日放映)という番組放映で、非暴力不服従主義運動を展開した、ガンジーの足跡を辿るインド独立運動の番組が放映されましたが、これを見て、感動された方も多いと思います。
 しかし果たして、インド独立運動は、ガンジーの非暴力不服従主義運動で独立が成ったものなのでしょうか。

 アメリカの戦後政策の中で、アメリカが日本国に要求したのは、憲法第九条からも分かるように「戦争の放棄」でした。
 かつての日本人が戦った「大東亜戦争」は、アメリカの勝手な歴史解釈から「太平洋戦争」と改められ、同時に平和主義が強調され、日本に戦争を放棄させ、日本が軍隊を持つ事は、犯罪に等しいという国民意識を作り上げました。こうした民主主義体制下に、この平和主義に飛びついたのが、日教組であり、日本共産党あるいは社会党などの革新政党でした。

 現憲法下で、敗戦の年の昭和20年9月上旬からG・H・Q(占領軍総司令部)の意向の下で創案され、昭和21年11月3日公布され、翌年の5月3日に実施された今日の日本国憲法は、その主体が平和主義と、背後に隠れた非暴力ならぬ、無抵抗主義たったのです。

 現日本国憲法はこうした経緯の中で、一方的に創案され、アメリカから白人主導型の民主主義を押し付けられたものでした。この憲法内容には、徹底した「平和主義」が唱えられ、それに続いて、「国民主権」や「基本的人権」が高らかに謳われているいます。エゴイズムと平等意識。そしてそれを哲学的に追求すると、どこまで行っても、相容れない、自由(エゴイズムと個人主義欲の追求)・平等(階級も地位も否定して全てが平等)博愛(なんびとも平等に愛す)の三つの大きな矛盾を抱えていることが分かります。

 そして恐るべきは、日本人の潜在意識に浸透しつつある、憲法第九条の「戦争放棄」の一コマが、禍根となって、私達日本人や、次の世代の子供達に、この悪癖を培養しようとしていることです。

 世界には依然として、黄な臭い戦争の火種(ひだね)が消える事なく、各地の至る所で燻(くすぶ)っています。これらは日本人の戦争放棄と無関係であり、私達が戦後教え込まれた平和主義の中に、アメリカの政治政策が見て取れます。
 そして戦争放棄と交錯するように、ガンジーを賛え、彼の説いた「非暴力不服従主義」という美辞麗句が、時として崇高な理論として、公共の電波を使い、テレビで放映されます。これこそマスコミ操作と、思想工作の最たるものではないでしょうか。



●警察庁白書

 
警察庁白書によれば、「最初から、暴力に対して、あくまで抵抗すると決心して、あくまで戦った人は、軽いケガくらいはしても、決して殺されたり、強姦されたりはしないものだ。これはどんな弱い人でも、自分自身を最後まで、命を賭けて護ると決意する人は、確かに刃物で襲われた場合、ケガはするが、命までを失う結果にはならない」と述べています。

 喩(たと)えば、街の路地裏で強盗に遭ったとします。その時、激しく抵抗し大声を出す人と、全くの無抵抗で金品を奪われ、犯人の為すがままに任せた人とでは、結果はおのずと違ったものになります。
 果たしてガンジーの非暴力に徹した無抵抗主義を模して、無抵抗に徹底することで強盗犯人は、これに感激して、何も奪わずに引き揚げて行くでしょうか。

 むしろ、激しく抵抗し、犯人に傷つけるかも知れないが、その危険性を顧みず、あくまで抵抗する方が、逆に強盗に犯行を断念させ、何も奪われなかったという例の方が圧倒的に多いのです。

 これは強姦事件にも同じことが言えます。
 アメリカなどで起こる強姦事件を見てみますと、ナイフやピストルを突きつけられて脅され、無抵抗のままで強姦され、その後は、必ず殺されている結果を見ても明らかです。

 日本でもこの種の犯罪が多くなり、女子大生などが殺されて、山中に埋められるという事件が起こっていますが、この殺されるに至った経緯は、余り知られていません。またニュースでも、こうした経緯を報道しません。
 しかしその背後には無抵抗のまま、犯人の暴力と脅迫に屈して、強姦をされ、貌を覚えられたから殺されたという真実があったのです。ただ殺されて、山中に埋められたという事ではないのです。
 まず、抵抗することが先決であり、これなくして生還の道は閉ざされます。

 かつての別れた愛人が、執拗(しつよう)に女性を付け回すストーカー行為も、実は無抵抗で、何もしないからであり、無抵抗に徹することが、こうした最悪の事態を招くのです。
 したがって「抵抗する」訓練は、常日頃から身に付けるべきで、新聞などを見ても、無抵抗に徹した人は殺される事が多く、あくまで抵抗したり、大声を上げたり、騒いで逃げ回った人は殺されずに助かっています。

 また窃盗においても、大声を上げて追いかけられたスリや、カッパライや、自転車やバイクに乗ったヒッタクリは最後まで、徹底的に抵抗することが肝腎であり、こうしたことで被害を最小限度に止めています。

 一人で留守番をしていて泥棒に入られ、何もせずに無抵抗で、脅されるままになる人と、最後まで徹底抗戦をする人とでは、結果自ずから違ってくるのです。
 何年か前、全く武術の心得のない、七十歳か八十歳のおばあさんが、一人で留守番をしていたところ、若い男の強盗が入って来て、ナイフで脅され、これに素手で飛び掛り、ナイフを叩き落として捕えたという事件がありましたが、これなどは徹底的に覚悟を決め、抵抗したところに、被害を最小限に止めたという典型的なものでしょう。ここで問題になるのは、刃物に対する対処法です。

 さて、無抵抗で脅しに屈するというのは、最悪の事態を招きます。結果的に取り返しのつかない事態が生ずるのは、殆ど、脅されるままに犯人の言い成りになって、最初から抵抗をしない人達です。

 子供でも、女性でも、はじめてあった男に、うまく口車に乗せられて、ノコノコ蹤(つ)いて行って、性的な悪戯をされた上に、殺されて山に埋められてしまうような状態では、最後に少しばかり抵抗しても、もう「後の祭」なのです。

 また、甘い言葉でなく、ヤクザ擬いの怒鳴り声で脅されて、これで最初にすくんでしまうと、蛇に睨まれたカエルのようになって、後は犯人の意の儘(まま)になってしまいます。
 特に、最近増加の一途にある、サラ・クレの返済に窮して「闇金」に手を出し、迂闊(うかつ)にもこれを借り、僅か十日で50〜120%という暴利を強要される被害者の多くは、最初の怒鳴り声ですくんでしまい、意の儘に操られるという消極的な要素を持った人達です。
 勇気という闘志力がなければ、骨の髄までしゃぶり尽くされるという弱肉強食の世界が、今、私達の生きている現世の現実なのです。

 常日頃から、家族全員が揃う一家団欒(いっかだんらん)の席で、こうした現実を、解り易く子供に教える親と、そうでない放任主義の親とでは、何らかの事件に遭遇した場合、雲泥の差が出ることは明白です。
 ところが家長制度の崩壊した昨今は、一家団欒といっても、テレビのアニメ番組やクイズ番組やグルメ番組を見ながらの夕食の席が多くなり、肝腎なポイントのおカブは、総てテレビにとって代わられています。
 果たしてこうした家庭教育の中で、今日多発する青少年犯罪は防げるのでしょうか。
 そして肝腎なことは、自分の子供が被害者になることを警戒しなければなりませんが、しかし一方で、犯罪に荷担したり、加害者にならないための、厳格な家庭教育も必要になってきます。