西郷派大東流の儀法 1



●西郷派大東流合気武術の儀法

 巷間(こうかん)には「史上最強の格闘技」などの言葉が、実(まこと)しやかに囁かれている。
 また、徒手空拳・無手格闘技を世界最強と信じる格闘技観戦者も少なくない。
 しかし、格闘技もそのルーツを辿れば、多くは日本の古武術から出発したものであり、凡そ人間が、肉体肉体力的素質や才能)主に、精神(全人格的精神構造)を従にとして表現される武技格闘において、何故、優劣を一方的に序列して、試合興行中心の他方を「史上最強の格闘技」など豪語するのであろうか。不思議な限りである。

 武技の持つ各々の特長は、個々の優劣ではなく、武技の技術体系に求めるべきだが、武術や武道を各々に上げても異なりがあり、また試合場やルールの異なる各々の、異種の武技間に、一体どうやって優劣の序列を付け、史上最強という言葉で表現するのであろうか。

 さて、大東流は、江戸幕末期より「合気之術」の呼称で秘密裡(ひみつり)に伝承されてきた特異な武術である。
 一般に「合気」といえば合気道を連想し、合気道と大東流が同じ様なものとして扱われ、混同して認識される傾向にあるようだ。

 しかし大東流は合気道の母体をなしたとはいえ、根本的にな大きく異なっている。
 喩(たと)えば、大東流で言う「一箇条」の儀法(ぎほう)は、合気道の「一教」とは異なり、その技の性質も異なるものである。また一本捕りを思わせる合気道の一教と、大東流の一箇条十儀法西郷派大東流では一箇条を十儀法に分割し、これを「一条極め」と称する)とは、形質は非常に類似しているが、その儀法数と戦闘思想は根本的に異なるものである。

 また例えば一箇条十儀法には、それぞれに当身が付随し、単に技を掛けるのではなく、敵がまさに吾(わ)が躰(からだ)に触れんとする瞬間、当身の連打を打ち据え、敵が戦意を失うまで何度も繰り返し打つことを、その戦闘思想の中枢に置いている。こうした当身の連打を合気拳法と称するのである。

 一般に拳法といえば、拳での殴り合いの格闘を想像するであろうが、大東流合気拳法には単に、拳を固めた突きや蹴りに合わせて、指を用いる「点穴術」(てんけつじゅつ)という当身がある。

 この点穴術は元来、人体の一番脆弱(ぜいじゃく)な部分を叩くため、競技としての試合に用いる事も出来ず、また護身術としても、最後の最後に控えたものとなり、武術の持つ、「武」の部分を、防衛本能の発露と考えるか、あるいは闘争本能の現われとして考えるかで、この術に対する考え方は変わってくる。

 つまり、ここが武術(古流の持つ秘伝)とスポーツ格闘技(競技武道を含めた)との分岐点であり、両者をここで隔てている。
 そして古流武術といわれるものは、その多くに「秘伝」の部分が隠され、これが一般的には大衆の目前で公開されないが常であり、伝承という方式を辿りながら、一種独特の武術体系を構築した。そして長い歴史の、先達の経験や教訓が蓄積されて、特異な技術体系を形成している。

 そもそも武術における秘伝は、投げ技にしろ、当身技にしろ、力と力の物理的なぶつかり合いではなく、人体の仕組を熟知して、最も脆弱な部分を攻めて、これを有効に利用したものである。
 武術は「術」が生命であり、この術は秘密であるからこそ、術として通用するのであって、これが大衆化され、あるいは試合興行において一般に公開されれば、広く流布され、それはもはや秘密ではなくなり、術は最後の「切り札」としての資格を失う。

 したがって術といわれるものは、秘密にされ、隠されて当然であり、ここが武術と、スポーツ格闘技や競技武道との違いである。

 スポーツ格闘技や競技武道の選手や愛好者は、もともと「勝つため」を目的に日夜練習をするものである。相手に打たれたり、投げられたりしては上手といえず、あくまでも「勝ち」を求めて練習をするものである。

 しかし武術は勝つためより、「負けない境地」を得るために修練するのであって、そこには容易に敵から攻め込まれない「位」(くらい/敵に対して優位な体勢を得ること)を会得するために、日夜稽古を重ねることを本義としている。
 人間の行動原理の、最も大切な行動規範(anomie/人々の日々の行動を秩序づける価値観)は、実はここに置かれ、「負けない境地」への探究が武術の真の目的なのである。この点も、武術がスポーツ格闘技や競技武道と、種を異にしているのである。

 スポーツ格闘技や競技武道では、何が何んでも勝たなければならないし、また勝たなければ英雄の座にもありつけない。
 ところが武術は、最初から勝つをことを目的として修練するのでないから、そこに置かれる次元は「負けない境地」への探究が、第一の目的となる。

 では、負けない境地とは何か。
 喩(たと)えば、応接間で人間二人が対峙したとしよう。その時、相手の孰(いず)れかが、口論の末で暴力に及び、攻撃に出たとしよう。この暴力に対して、攻撃を受けた方はどうするか。ここに、対処する武術修行者の姿勢が隠されているのである。

 応接間に通されたそこには、接客の状況判断から、双方共に、二つの湯呑み茶碗が出されているはずである。負けない境地を知る者は、攻撃する気配を感じたら、即座に湯呑み茶碗を叩き割り、その欠片を握って、相手の眼に向かって切りつければ、これが最高の防禦(ぼうぎょ)となる。
 しかし現代社会において、こうした行為が法的に正統防衛になるか、否かは、非常に難しいことなので、咄嗟(とっさ)の場合、臨機応変に身の周りの道具を臨事仕立ての武器にして戦う術を知っているということだけで、有効な「切り札」を持っていることになる。それは遣わなくても、有事になれば「知っている」と言う、相手より一等高い境地である。

 それは喩え、実際に遣わなくても、それを知っているという心の余裕が、相手とは一ランク違う優越感を抱くことになり、また最後の最後まで追い詰められれば、これを遣うかも知れないという恐れを、相手に恐怖を抱かせることができる。つまり「窮鼠猫(きゅうそ)を噛む」状態に追い込めば、幾ら腕力が優っていても、「お前も、決して無傷では済まないぞ」という威圧を与え、その術を知っていることが、秘伝で言う「切り札」なのだ。

 これは一種の核爆弾にも匹敵しよう。核は実際には、実用的な兵器ではない。しかし核を所有することで、敵対国や仮想敵国に恐れを抱かせ、戦争を抑止する効果が充分に果たされている。
 「切り札」とはそうしたものであり、危険すぎて実用的でないからこそ、その威圧は充分に効果を発揮するのである。
 ここに「切り札」の「切り札」たる所以がある。

 西郷派大東流合気武術における拳法とは、その当身術や点穴術の総てが、ケンカの道具として、日常生活の中では余りにも危険すぎて、決して実用的とは言えないところがある。またロープの張ったリングの中で、試合のルールに則って格闘し、拳の打ち合いや、足蹴りの応酬で、対戦者をリングに沈めるものでない。試合馴れした訓練はしないのである。

 しかし、一度非日常と周囲が変化した場合、恐れるべき威力を発揮するのが西郷派大東流合気武術だ。
 またこれが、巷間(こうかん)に流布する格闘技と全く違う戦闘思想を挈(たずさ)えて、最も危険な「切り札」として、日常では遣えないが、非日常に至った場合に有効な手段となる要素を持っているのである。