『ヨハネの福音書』第一章には「初めに言葉ありき」と言うことが上げられ、 「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。この言葉は神であった。この言葉は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによって出来ていた。出来たもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言葉に命があった。そしてこの命は、人の光であった」と記されています。
これはまさに真理を述べたものと言えましょう。
また宇宙に遍満(へんまん/あまねくみちふさがること)する『言霊』として「アイウエオ五十音」に濁音、半濁音を加えた七十五音の言霊があります。この音節は日本語そのものです。
この言霊を完全に発声できるのが日本語を遣う日本民族です。五十声音から重複音を除いて「ン」を加えた音声が四十八音で、これを「四八音」(【註】ヨハネ)と言います。
この「四八音」の一音一音が「神の名」となっていて、これを「型神名」(【註】カタカムナ)と言い、「カタカナ」を現わします。
こうして考えると、言霊と食物は密接な関係があることが分かります。
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▲背中の青い、骨ごと食べられる小魚は、カルシウムなどのミネラル補給に大きな効果がある。
玄米穀物菜食を中心とする「食養道」を実践する場合、玄米菜食だけでは偏った食餌法になってしまう。そこで動蛋白として、小魚介や貝類、海草類が必要となる。
地球の誕生以来、陸地が雨に洗われ続けた結果、土壌の多くのミネラルは海に流れ込んだ。この陸地での必要なミネラルを摂取する為には、小魚介、貝類、海草類、それに海から採取される自然塩が必要である。
また、原則として食養道を実践するばあい、魚介は大型魚でなく、「小魚介」でなければならない。それは栄養源としてのミネラル分は、主に魚の身ではなく、魚の皮や頭、尾や鰭(ひれ)などに集中しているからである。
更に貝類は、銅や亜鉛などのミネラル分のうち、微量元素と呼ばれるもので、自然治癒力のための精力強化に大いに効果のあるものである。 |
玄米穀物菜食と小魚介・貝類・海草類の「食餌法」を徹底すると言霊は、清く澄み渡り、濁りや歪(ひずみ)のない、正しい発声が可能となります。この清音によって三千世界の神々との交流が可能になります。それは霊的波調が植物性の食べ物によって「密」に保たれ、清く澄み渡っているためです。
しかし、グルメを気取り、美食に溺れ、肉食を常習する人達は、血液が濁り、言霊も濁り、ために霊的波調が粗(あら)くなり、霊的神性が下がって彼等の交信する次元は低いものになり、交流する霊は魑魅魍魎(ちみ‐もうりょう)の類のなり、不倫、怪我、事故、争い事などの不幸現象に見舞われます。
こうした禍(わざわい)を回避するには、食を正す以外ありません。
今でも、何の疑いもなく絶対視されているのは、現代栄養学の基づく食指針です。しかし、この食指針は終戦直後のGHQ(General Headquarters/日本を占領した連合国軍総司令部)が、占領政策の一環として採用したものでした。
GHQの占領政策は、日本人の古来よりの伝統を有する食体系をも破壊する食指針が計画されていたのです。それが「現代栄養学」と言う誤った栄養学でした。
誤った栄養学が持ち込まれた目的は、古来よりの日本伝統の食体系を破壊し、「肉食並びパン食を普及させる目的」を持っていました。
特に「肉食」については、老若男女を問わず、「日本人に共食いをさせる」という食肉屠殺文化を持ち込み、哺乳動物として“性(さが)”の同じ“四ツ足動物”を食べさせることにより、日本人の霊的波調を乱し、その霊性を低下させ、言霊までもを狂わせ、穢(けが)すと言うものでした。
つまり四ツ足の肉、大型の魚肉、卵などの動物性蛋白質に加え、牛乳や乳製品、更にはアメリカ産の小麦やその他の穀物で作るパン、同オレンジ類などの果物、外国産野菜類などを日本人が摂取することを奨励したのでした。
これらをバランスよく摂ることにより、欧米人なみの体躯と体力が約束されるとしたのです。
そして攻撃目標は「米」でした。徹底的に米叩きをして、日本人から米食を崩壊させ、それに代わって「パンを食べさせる」ことでした。
当時の日本の進歩的な考えで栄養学を押し進める現代栄養学者達が、異口同音にして「欧米の食生活は豊かで、日本の食生活は貧しい」ということを豪語し、これが日本のその後の栄養指導の根幹に据えられました。
日本の戦後は、官民一体となって「米叩き」を行い、減反政策を実行して、日本列島から米を追放しようと考えた時期があったのです。そしてそれに代わって、日本人に“パン食を定着させる”ことでした。
当時、アメリカの食物メジャーに加担する日本の栄養学者らは、「米を喰うと頭が悪くなる」という風評を流し、昭和33年発行の『頭脳』という本には、「米を食べる民族は、パンを食べる民族よりも劣る」という根も葉もない論理を打ち立て、“米食低能論”を展開させたのです。そしてこの本は、発売三年後で50万分を突破するベストセラーになりました。同時に、パン食に対する大ブームが起こりました。
この本を読んだ当時の日本の親達は、このパン食ブームに便乗し、「わが子には賢くなって一流大学の出身者になってもらわなければ」という気持ちで、パン食に飛び付いたのでした。
それは『頭脳』という本に、「子供達の脳を良くするには、パン食以外にない」と論説を張っているからです。そして、本来の目的は、米を否定し、アメリカの食糧メジャーに協力する進歩的文化人や政治家達の「売国奴的な意図」が隠されていました。当時、このことを、当時の多くの学者や、政府の監督省庁の官僚達は見抜けなかったのです。
栄養学者の言うがままに、減反政策を実施し、米否定の栄養指導を行ってきたのです。
そして現代栄養学の食指針を肯定する「第二波」は、昭和39年に開催された東京オリンピックでした。日本で初めて催される東京オリンピックは、日本人と欧米人の体躯を比較して、「日本人は小さい」という実感を十分に植え付けておいて、テレビ等で「タンパク質が足りないよ」という、コマーシャルをどのテレビ局も一斉に流したことでした。
昭和22年から25年前後に生まれた「団塊の世代」と言われた方なら、ご存知だと思いますが、「タンパク質が足りないよ」という、コマーシャルは昭和30年代に、よくテレビのコマーシャルで流されていました。子供の時に、このテレビでのコマーシャルはよくご存知のはずです。
そしてこの根拠は、「日本人は小さい」ということでした。
また、東京オリンピック開催当時、団塊の世代は、中学三年から高校三年の頃ではないかと思います。
歌手の舟木一夫が『高校三年生』を歌い、また、三田明が『美しい十代』を高らかに歌った頃です。
この時代に、東京オリンピックに便乗した宣伝や、栄養評論家が「日本人は牛乳を飲まなければ、大きくなれない」とか「肉はスタミナの元」というようなことを言い、これは当時の多くの日本人に信じられたのでした。
その一方で、終戦直後に仕掛けたGHQの思惑は、「日本人のパン食をさせる」ことでした。
それは第二次世界大戦後のアメリカでは、小麦、綿花、乳製品と言うものが大豊作だったからです。これはアメリカだけではなく、世界規模で大豊作だったのです。
特にアメリカにおいては、空前絶後の大豊作であり、採れ過ぎた膨大な農作物のストックに大弱りだったのです。
時のアメリカ政府は、こうした過剰のストックを抱え、その倉庫代だけでも莫大なものになり、この捌け口として、日本をターゲットにしたのです。日本と言う新しい市場に参入し、日本人の米食をやめさせ、パン食に切り替える政策を次々に打ち出していったのです。
勿論この政策には、GHQが先頭に立ち、日本の栄養学者達を「現代栄養学」で洗脳していったのです。
これにより、大半の栄養学者達は、これまでの日本伝統の粗食を「時代遅れの迷信」と決めつけ、官民一体となる現代栄養学での食指針を打ち立てていくことになります。そしてこの時、「GHQの食糧政策に騙されている」という疑いを持つ栄養学者は殆ど居ませんでした。
多くの栄養学者は、この食糧政策に諸手を挙げて賛成したのです。勿論、減反政策も大賛成でした。
この結果、日本中、至る所には、アメリカの援助で出来た“キッチンカー”が走り回ることになります。処狭しとキッチンカーが走り回り、小麦を中心とした料理講習会が各地で開催されます。そしてパン食は、学校給食の中でも定番のメニューとなり、コッペパンと脱脂粉乳で出来た牛乳が、団塊の世代たちの小学校時代、「好き嫌いをさせない給食」の中で強制されていくのです。
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▲昭和22年頃の小学校の給食。牛乳と称された食品は、牛乳とは程遠い粗悪な脱脂粉乳だった。脱脂粉乳は脱脂乳から、ほぼ全部の水分を除いて粉末にしたものに、その後、水を加えてこれを当時の学校給食では「牛乳」と称した。
こうした給食制度が、各地で昭和30年半ば頃まで続いた。これもGHQの食糧政策の一環で、学校給食に持ち込まれた。 |
一方、巷にもパン産業の育成がアメリカの食糧戦略
上の基本方針に置かれ、「パン食が日本人の食生活を豊かにする」というイメージを長く根付かせることになります。
誰もが、「アメリカナイズされることが好ましくて、かっこいい」という指向に向かわせたのです。
滑稽なことに、団塊の世代は、その青春時代、全共闘に始まる「大学紛争」をともに歩んだ世界なのですが、アメリカを「帝国主義の権化」のように批難しておいて、右手にマクドナルドのハンバーガーを握ってパクつき、左手にコカ・コーラを握って、それを飲み下すという光景は、それこそ、そのデモに参加した当事者が、アメリカ崇拝の権化であったように思われてなりませんでした。
また、アメリカ流のブルージーンズを履き、ジージャンを着て、反米を叫ぶ学生や労働者も、デモの後ではジャズ喫茶や歌声喫茶に集合し、アメリカが発祥のロックンロールやフォークソングに現(うつつ)を抜かしていました。
反戦フォーク集会では「毛沢東語録」を右手に高らかと掲げてフォークソングを歌い、あるいは西部劇を見て、ガンマンさながらでした。その日の話題といえば、プロ野球やプロレスを話題にしました。
唯一つ違っていたのは大相撲の話題でした。そして周囲を見渡す限り、どこもここもアメリカ的なもので溢れていました。
当時、減反政策で「米叩き」の影響を受けた彼等、団塊の世代も、その隠された意図は分からず、ただ「反米主義」を高らかに論ずるのですが、同時の日本的なものを“右翼”と一蹴し、減反政策で農民達が悲鳴を上げている姿には、一向に気付きませんでした。
そして彼等も、「米を食べると背が伸びない」とか「米を食べると太る」といった、全く根拠もない、俗説の信奉者でした。
その一方で、アメリカでは厚生省からの食指針で状況が一変していたのです。更に1982年には、肥満と心臓病に悩むアメリカでは、農務省と厚生省から次のような食指針の発令が出されました。
1
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バラエティーに富んだ、偏りのない食品を摂取しよう。
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2
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人間として好ましい体重を維持しよう。
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3
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動蛋白過多で、脂肪や飽和脂肪、コレステロールを摂り過ぎないようにしよう。
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4
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デンプンと食物繊維をしっかり摂ろう。
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5
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油脂類や当分を摂り過ぎないようにしよう。 |
6
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ナトリウムを摂り過ぎないようにしよう。 |
7
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アルコールは程々にしよう。 |
以上の7項目であり、これらを一言で云えば、“四ツ足の食肉類”や、油だらけになる“油脂類”や“砂糖類”を減らして、「デンプン質」や「繊維質」の穀類系を、もっとよく食べようということです。
これは古来より日本人が食べてきた「粗食」のことで、つまり「米が見直せ」という評価をアメリカが下したことになります。
そしてこれこそが、いまアメリカ人がかつての日本の「粗食」に注目していると言う実情なのです。
これにより、終戦直後、GHQが日本人に押し付けた食糧政策としての、アメリカで構築された「現代栄養学の論理」は崩れたことになります。
当時は確かに、アメリカが持ち込んだ最新の食指針は、栄養失調に悩む日本人の健康改善に寄与した一面はあります。そして栄養失調から立ち直るきっかけで、“高タンパク高脂肪”は画期的な救いの手でした。それと同時に、アメリカの思惑が見て取れ、アメリカ食品業界の日本占領が、GHQの占領政策と重なり、日本市場占領に拍車をかけたのです。
ところが、サンフランシスコ条約以降、日本占領を終了し、日本から撤退したアメリカは、これまでアメリカの持ち込んだ現代栄養学の食事指針は時代遅れのものとして、既に打ち切られ、栄養学をこれまでとは違う角度から模索しはじめたのです。
一方、日本では昭和60年以降も厚生省が出した『健康づくりのための食生活指針』は旧態依然の古い形の現代栄養学の則っており、「一日30品目、満遍なく食べよう」という総花主義の指針を崩していないのです。
そしてその食指針には、一日一人当たり「約60〜80グラムの食肉を摂取することが適当である」という結論を出していることです。
世界で論じられている栄養学の論理は、動蛋白中心から穀物を中心にした副食指導が行われています。特に、野菜や果物に含まれるビタミンC等の食品にも眼を向けはじめたのです。そして肉は必ずしも必要でないとしています。
しかし、日本では未だに「肉はスタミナの元」という俗説を信じている人がからり多く、これは現代栄養学が未だに信奉されていると云う実情があります。
そして参考までに、昭和57年5月号の『自然医学』には、次のようにあります。
「体重1kgに対して1gのタンパク質が必要であるとして、体重60kgの人のタンパク質を、肉のタンパク質で補充すると、60g必要である。
ところがそれを植物性のタンパク質で補うと、その半分の30gですむ。
また同じ植物の中でも、発芽可能な精白しない植物性のタンパク質で補うと、さらにその半分の15gで充分である」
玄米菜食をすると栄養失調になるという現代栄養学者や現代医学者は少なくありません。また、その言を真に受けて、肉を食べないと栄養失調で死んでしまうと本気で思い込んでいる人が少なくありません。
これは現代栄養学が云う、「肉と野菜をバランス良く、一日30品目以上のおかずを食べる」という総花主義の風説に騙され、思い込みから、“肉を食べないと栄養失調になって死んでしまうのではないか?”という仮説が、大手を振って一人歩きをし、強迫観念に駆り立てているのです。
そしてその背後には、戦後のGHQが仕掛けた日本解体のうちの、一つのセクションの食糧政策が二重、三重の効果を発揮して、今日の日本人を駄目にしているのです。
その最たるものが「日本人の言霊を破壊する」ことではなかったのでしょうか。
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