精神障害と霊障
動物は虐待したり虐殺する神の被造物ではない
 動物を食べる為に屠殺(とさつ)したり、人間の人体実験の代用として、動物実験を行うのは間違いである。また動物達を、「奉仕」という名目で、人間に仕えさせ、それを食糧にするべきではない。

 更に、神の被造物である動物に対して、苦痛を与えるのは間違いである。
 ただこうした、宇宙の玄理(げんり)を知らずに、無知の為、自分が与えた苦痛に気付かず、人々を病気から救うという事を目的とし、切なる動機に駆られて、動物虐待実験をする医学者がいるが、やはり彼等も宇宙の玄理を破る者として、その代価と償いは、当然課せられるのである。生き物の、生命与奪の権利は人間にないからである。

 また、こうした場合、もし医学者にあって、こういう事をすれば、動物は傷つく、あるいは大変な苦痛を感じると解りながら、これを行うのであるから、こうした医学者自身が、既に責任を認識している事になる。

 つまり動機は「善」によるものであろうと、「苦痛」を与えている認識においては、「悪」を行っている事になる。
 特に哺乳動物は、人間と同じ「性」(さが)を有し、その神経系や感覚器官は人間と酷似している。

 神の被造物としての動物は、神から人類を助ける為に地上に遣(つ)かわされた存在であった。また人類も、彼等を保護し、助ける為に、それを使命として遣わされた存在だった。
 したがって、幾ら動機が「善」であっても、生体解剖は間違いであり、また、こうした事が、どうして正しい行いであると言えるであろうか。

 動物の持つ性(さが)と、人間の持つ性は、その哺乳動物という数直線上で、同じ位置に並ぶ。彼等を苦しめ、悩まし、更に、抵抗できない状態にしていおいて、実験台で生体解剖の末、そのデータを拾い集めるというような動物実験は、総(すべ)てにおいて間違っているのである。

 人間が、神から許された穀物菜食を蔑(ないがし)ろにして、仏典でも禁止されて、保護されている動物の肉を喰らい、そうした宇宙の玄理に背いておきながら、自分自らが引き起こした病気を治療する為に、動物に肩代りさせて、治療法を探るという行為は、人間の我が儘(まま)という他ないのである。
 そして動物を喰らう事は、つまり「血の汚れ」を自らが、無意識のまま、「穢(けが)れ」を作り出していると言う事になる。

 日本には古来より「身土不二(しんどふじ)」の思想があった。
 これは、「人」と「土地」が一体性を持っており、この思想を「身土不二」と言い、また仏教においても、「依正(えしょう)不二」といわれてきた。
 依正とは、過去の行為の結果として受ける依報(環境世界)と正報(心身)の二つを指し、これが一体性のものである説いて来たのである。

 現代の世は、政治家も科学者もこうした「身土不二」や「依正不二」の原則を知らないし、また仮に知っていても、この原則を認めようとはしない。したがって「身土不二」が大自然の秩序であり、その秩序に従って人間も生きていると言う事を知ればよいのであるが、これが理解できないばかりに、農産物の自由化やコメの自由をを安易に認め、天道に外れた愚行を行っていると言うのが実情だ。この為に不幸現象は、次から次へと湧いて出て、その後を絶たないのが現代社会の宿痾(しゅくあ)になっているのである。

 本来ならば、日本において減反政策は必要でなかった。しかしこれを、農林水産省の官僚達が、「身土不二」の原則を無視して、自由化を展開した。この元凶のツケが国民に廻ってきているのである。

 日本人は、日本の土から採れた穀物や野菜で充分に賄っていけるだけの自給自足体制にあったのである。しかし欧米等からの理不尽な政治の軋轢(あつれき)に負け、「身土不二」の原則を無視して、ただ「安い」からとか、「美味しいから」と言う安易な理由だけで、外国産のものを輸入する措置を決定してしまった。そしてその皺寄せは、社会の底辺を支える庶民へと波及した。これでは、庶民の中から病気が多発するのは当然の事となる。

 そして問題は、単に「身土不二」だけのことではなく、外国から輸入される食べ物の大半は、農薬の使用は勿論のこと、放射能等にも汚染されれてしまったいるのである。
 日本人は、広島・長崎の原爆や原子力発電所の問題に関してはアレルギー的な拒否反応を示すが、その一方で、病院で用いられているレントゲンや、諸外国から輸入される食品の残留放射能の規制には非常に甘く、国民も、後者に対しては寛大である。

 欧米先進国等では、絶対に輸入禁止になるような放射脳汚染をされた食品でも平気で輸入を認め、これが庶民の集うスーパーや商店街の店先で売られている。
 その一方で日本は、政府の減反政策で、農業を辞めてしまって、土地を手放し、農村から都会へと移り住んで転職する農民層が相次ぎ、国内の農業自給率は年々減少の一途にある。この現象は、今後、日本の食糧市場で、農薬や放射能で汚染された外国産の食品で独占されると言う事を物語っている。

 その上に最悪となりうる現象は、人間の性(さが)に非常に近い、牛や豚等の動蛋白摂取が過剰になり、動物霊的な食品を食べると言う現象が起こっている事だ。
 現代社会では、動蛋白食品を食べて、そこに生きる現代人は、その殆どが、これを非常に美味しいと考える事だ。自分の性と同じものを食べて、喜びを感じているのである。

 また、厚生労働省は現代栄養学と、食品メジャーによって画策された意図的な路線に乗り、「食肉と野菜をバランスよく」などという食糧指針を立て、これに基づいて国民の栄養指導を行っている。しかし現実は、動蛋白に偏り過ぎる食生活を、多くの日本人は営んである。

 完全な穀物菜食の過程で育った子どもは、驚くほど健康で、伸び伸びと育っていいるが、食肉や乳製品偏重の家庭で育った子どもは、直ぐに切れ易く、短気で怒りっぽく、性格も残忍で、精神的にも不安定である。更にアレルギー疾患等の病気を抱えている。
 本来、動蛋白食品は不愉快なもので、宇宙の玄理(げんり)に反する行為である。その証拠に、犯罪の低年齢化は、年を追うごとに低下し、残忍かつ凶悪なものになっている。

 生きとし生けるものが「食べると言う行為を働く」現象は、《食べる側》と《食べられる側》の双方が「歓喜の関係」で結ばれていなければならない。
 歓喜とは、「自」と「他」、「個」と「全」がまつり合わし、大調和を齎(もたら)していると言うのが大原則であり、《食べる側》の一方的な欲望において、《食べられる側》が悲しく、辛い思いをしてはならないという事である。人間が、自分の性に近い動物を食べると言う事は、《食べられる側》としての動物には決して歓喜を齎さない。

 肉食をする者は、少しでも動物の事を考えたことがあるだろうか。人間に殺されて食べられると言う現実を、動物の立場になって思料した事があるだろうか。
 彼等動物達にも、夫婦や親子の関係があり、生活があり、社会があるのである。傷つけられれば痛みも感じるし、怒る事もあり、殺されれば怨むと言う、人間と同じ喜怒哀楽の中で暮らしているのである。
 そして、殺され、食べられれば、その唸は時空間を通じて電離層へ怨み唸となって残留するのである。この唸が、現代人に反映されて、精神病を煩うと言う霊障を受けている現代人が増えているとしても、決して不思議なことではあるまい。
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