精神障害と霊障
狂言か真実か
 追い込まれた人間は、まず、自分を見失う。人の目を気にし、世間様の目を気にする一方、現実逃避をする為に、自分を別世界の存在と考えるようになる。自分だけが正常で、他は総て狂っていると考える思考が生まれる。まさに狂言の世界の住人となってしまうのである。

 一旦この世界の住人になると、現実逃避をする為に、怠け者に映る、潰れた自我の被害者は、自ら自作自演する「狂言」をするようになる。自分が何ものなのか、その見当もつかず、ひたすら狂言の道に没頭する。しかし患者自身は、病気とは自覚できない仮病が、また一種の精神分裂を招いているとも言える。逃避壁から逃れた避難民のような、まさに仮病に準(なぞら)えた真物(ほんもの)の精神障害へと進行する。ここに憑衣・憑霊の起因がある。

 しかしこの仮病の根は深く、簡単には完治しない病気である事は確かである。ここには想念と言う、非実在界の自分で作り上げた想念が絡(から)んでいる為、現代の医学ではなかなか完治することは出来ないようだ。
 どこで終結するのかと言う危惧(きぐ)があると同時に、完全に終結しない運命を背負う事になるかも知れない。

 本人は「気違いを装う」ことで現実逃避を実現したと勘違いする。気の流れの、気道(一般には「チャクラ」と言われる)を逆流させる事で、一方で病気であると思わず、ファイト・コールを拒否した最後の抵抗の姿が、まさに分裂病の世界だったのである。病気ではない病気なのである。

 哀れなもので、こうした現実逃避は大小便までも、その場で平気で垂れ流し、何事も自分で遣ろうとしなくなる。拒食症もどきを演じて、家族を困らせる。介護を必要とし、介護人の手を煩わせる事で、必死に抵抗し、形を変えた自己弁護を繰り返しているのである。簡単なことでも、複雑に錯覚し、単純作業を長時間かけているのにも関わらず、その行動は遅々として進まない。
 またこうした患者は、自覚症状が殆ど無く、自分でも「病気とは思っていない」「狂っていない」と本気で信じている。したがって、最も質(たち)が兇(わる)い病気だとも言える。精神科の治療をしても、殆ど治る可能性がないのである。

 昨今は薬を服用する事で、ある程度の効果を得、社会に復帰している人もいるが、これは初期状態に症状が発見された人で、病院や医者との相性がよかったほんのひと握りの人であり、多くは長期療養が必要であり、経済的にも苦しんでいると言うのが実情なのだ。そしてこうした家族の苦しみを、患者はいっこうに解する事もなく、他人の不幸を、ただ呆然(ぼうぜん)と見る、まさに他人事として考えている。

 これは、患者が「間接的に病気を煩った」というより、自分から招いてしまった想念の直接的な病因であるということが分かるであろう。こうした人は、《運命自招の法則》(兇い種をまけば悪い現象が現れ、それが巡り巡って自分に跳ね返って来る)を知らなかった為に、自らが起こした不運の被害者であると言えよう。そして、その奥に隠れているのは、「前頭葉の未発達」である。

 これも一種の不幸現象であり、本人の「悟り」が必要なのであろうが、この「本人が、ああそうだったのか」と悟るということは、非常に難しく、精神病でないと思い込んでいるのであるから、悟るという行為は難解であり、精神分裂病患者では、まさに絶望的であると言えよう。
 また、その家族も世間的に、精神的に、経済的に奈落の底へと突き落とされ、惨めな生活を強いられる現実がある。そして五年、十年が過ぎても、恢復(かいふく)の兆しは見られず、十五年、二十年と、苦しんでいる家族も少なくない。経済的には、一種の破綻(はたん)に追い込まれのである。

 しかしこうした家族に、唯一つの朗報があるとするならば、それは「悟らせる」「自覚させる」という事を中心に置いた方法においてのみ、細やかな希望を繋(つな)ぐことができ、少しばかりの可能性が残っている。
 それは精神分裂病患者を、「悟らせ」「浄化させる」という、魂の『霊導法』で、これを根気よく、術者(同じ霊的波動を持つ血縁者の一人)が愛情想念を以て実行することで、僅かながらに恢復(かいふく)に向かわせることはできるのである。
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