人類淘汰の時代が始まった
丈夫な体質を造り上げるには、
かつての武士型食餌法から
 栄養理論を真摯に考える場合、まず日本人はその歴史を振り返らなければなりません。
 まず目の付けどころは、平安時代の貴族達が描かれた「絵巻物」からです。
 こうした絵巻物を見ますと、男性も女性も、その殆どが「下膨れ」(しもぶくれ)である事が解ります。これは典型的な「栄養失調」の現われです。

 貴族階級達は、まず「穢れ」を恐れた為に、「労働をすること」や「戦いをすること」を忌み嫌いました。労働(農業)をすれば、それだけで土に塗れて、手足が穢れ、戦いをすれば殺生を繰り返すのですから、そこからは「血の穢れ」が起こります。
 こうした「穢れ」を恐れるあまり、労働を一切行わず、和歌を詠んだり、「みやび」を主潮とする貴族的な説話集に耽り、彼等の仕事の多くは、男女の恋愛にうつつを抜かす事だけが人生のテーマでした。

 しかしこうした彼等も、偏食が常の食事法である為、貌(かお)には「むくみ」が起こり、こうしたむくみはビタミン不足が原因でした。
 その大きな原因の一つに、玄米の精米があります。
 彼等は既に玄米を精米し、精白するという、口当たりのよい方法で食事をする習慣を作っていました。平安末期に登場する武士達の食生活とは、大きく異なった偏食主義に明け暮れていたのです。

 一方、この時代に登場した武士階級の食事は、その基本が玄米穀物菜食であり、特に鎌倉武士の食生活は、野山の鳥獣を食したり、野性的な食事法が主体でした。しかし一方で近海から採れた様々な穀類や、ヒジキや昆布などの海藻類、ならびに背中の青い小魚を食していました。
 この事は、平安貴族化され体質の低下した平氏と異なり、結局最終戦では、源氏の関東武士に軍配が上がり、平氏は壇ノ浦の合戦を最後に、歴史から消える事になります。

 時代が下がって、織田信長の時代になると、戦国武将の食事は益々粗食を極め、質素なものになっていきます。これは町家の豪商の食事とは対象的でした。
 彼等が精白して食べる米は、脚気に襲われるのが常でしたが、武士は米を玄米のまま、食するという方法で粗食に徹していたのです。この玄米にはバランスのとれたビタミン群が豊富でした。この栄養価の高い米を食べていた為に、戦場で躰を少々酷使しても、その頑強さは、失われる事がなかったのです。

 江戸時代に入っても武士道を全うし、気骨のある武士は、決して白米を食べませんでした。彼等は、「白米は泥腐る」と称して、これを敬遠し、玄米のみを食し、江戸から鎌倉まで、一日で往復するという強行軍を自らに課せていたのです。玄米はそれだけに栄養価の高い食品で、少量で十分な働きがとれる食品だったのです。

 現代は、こうしたかつての食文化を無視し、現代栄養学の口車に乗って、好き嫌いなく、「何でも食べよう主義」が横行しています。
 厚生労働省は、前身の厚生省の時代から、一日三十品目の食品素材を摂取するように国民に広く提唱しています。牛乳もいいし、肉も、卵も、魚も野菜もいいとしています。
 こうして毎日バランスのとれた食事をしていれば、欧米人のようにバイタリティー溢れる、肉体美の強靭な肉体が養われると豪語します。
 ところが、これを真(ま)に受けて、動蛋白主義を実践したところ、コレステロール値が増大したり、高血圧になったり、糖尿病になるという現代特有の病気が発生しました。
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