日本人は古来から玄米穀物菜食主義だった
 今日、肉食を否定すると、必ず現代栄養学者から指摘を受けるのが栄養のバランスです。現代栄養学者達は口を揃えて、「植物性食品ばかりを食べていると、栄養のバランスが崩れ、やがては人体に悪影響を及ぼす」と厳しく指摘します。
 しかし、果たして植物性食品ばかりを食べると、人間の人体は崩壊するものなのでしょうか。

 これは単刀直入に言って、栄養学の面から見ても、全く根拠がありません。(【註】栄養学と現代栄養学は根本的に違っており、現代栄養学は戦後、欧米から入り込んで日本の栄養学に取りついたもの) 穀物菜食を中心とした植物性食品だけを摂取すると、エネルギー不足になり、体力がなくなり虚弱体質になるという指摘は、医学的データから見ても、あるいは歴史的事実から見ても、全くの見当はずれです。

 先に述べたように、十六世紀の武士階級の食生活を見れば一目瞭然であり、一部の町家の商人の贅沢な食生活を除けば、日本人は古来から穀物菜食を旨として生活を営んできたのです。
 当時は、現代に比べて病気の数も少なく、今日に見る難病奇病は殆ど見られず、健康体のまま天寿を全うするという人が多かったことが歴史からも窺えます。

 十六世紀の戦国時代、約40キロ以上の鎧甲冑を身に帯び、何日間も、何十日間も不眠不休の極限状態にあって、戦闘することを可能にしていました。そしてこの体躯の裏付けになったものは、今日の欧米式の食生活と異なり、今と比べれば驚く程、質素なものでした。

 植物性食品ばかりを主体にしていると、体力が損なわれ、エネルギー不足になるというのは現代栄養学の作り上げた妄想に過ぎません。
 かの徳川家康ですら彼が好んで食したのは、玄麦や玄米であり、町家の富豪が食していた白米とは一線を画するものでした。この事は、大坂夏の陣で家康本人が玄米穀物を食べていたということが、多くの当時の模様を伝える書物に記されています。
 また、かの豊臣秀吉ですら、高野山では玄米粥を食べていた事が記され、加藤清正は玄米食を家訓に定めるくらいに玄米穀物菜食主義を徹底した人でした。

 更に、徳川秀忠が池田光政をもてなしたときの料理は、蕪汁(かぶらじる)と干魚だけであったと、今日の食餌法の研究書にも記されています。(【註】参考書籍『食養について』『生命現象と環境』) この事から考えれば、一般の武士階級や庶民に至っては更に質素であり、今日に言われているような、エネルギー不足や体力が損なわれるという盲信は具現化されておらず、植物性食品だけで十分なエネルギーが賄われていたという歴史的事実が存在します。

 奈良時代においても玄米二食が一般的であり、農民においてはこれに合わせて雑穀類(粟、稗、黍、団栗など)も食していたという記録があり、こうした食生活は平安時代や鎌倉時代に至っても変わることがありませんでした。
 このように日本では、その食生活の伝統は玄米菜食主義が中心であり、五穀を主体としてそれに付随した野菜や小魚をベースとした食生活が営まれていたのです。こうした事は、日本の様々な神典類に記され、『秀真伝』(ほつまつたえ)には、「常食とすべきものは田畑の作物である」と明言され、「間違っても四ツ足の肉を食べてはならない」と注意を促しています。

 更に『上つ記』(うえつふみ)や『竹内文書』や『カタカムナ文献』等にも、日本の超古代には太古より動物の肉食を忌み嫌い、穀類や菜食を中心とした食生活が営まれていたことが記録に残されています。

 こうした日本の太古の食生活を記録した書物の中に『先代旧事本紀』(せんだいくじほんき)があり、食養研究家の間では『旧事紀』(くじき)と称されているもので、この文献は聖徳太子によって、推古天皇三十年九月に編纂作業を完成した書物で、その内容は宇宙の玄理を説き明かし、それは人体における小宇宙の神秘にまで迫り、その基本を食物に置いていることです。
 そしてこの『旧事紀』が編纂された九十年後に『古事記』が出版されています。更に八年後には『日本書紀』が著わされ、この『旧事記』が正しいものであるとされれば、日本最古の経典ということになります。

 しかし『旧事記』の研究は、江戸時代の初期の儒学者である林羅山(はやしらざん/江戸初期の幕府の儒官で、名は忠・信勝。僧号、道春。京都の人。藤原惺窩(せいか)に朱子学を学び、家康以後4代の侍講となる。また、上野忍ヶ岡に学問所および先聖殿を建て、昌平黌(しようへいこう)の起源をなした。多くの漢籍に訓点(道春点)を加えて刊行。著「本朝神社考」など。1583〜1657)が、よく内容を研究しないまま、1679年に偽書と決め付け、その後、世に出ることはなく、現代に至っては研究されないままの状態になっています。

 ところが一方において、この『旧事記』の原文を受け継いだ宮東伯安斎(みやとうはくあんさい)氏はこれを徹底的に研究され、その半生を賭けての註釈は全七十二巻にまとめ上げられ、そのうちの第五十三巻から第五十六巻までが『医綱本紀』として記され、「人間の食する食べ物」を「食節」として挙げられています。

 この「食節」によると、「食の道は穀物が善(よ)く、肉食は善からず。穀は正食に能(よ)く、純食にも堪(よ)く、肉は従食(おかず/御数)にしても純食に堪(たえ)られず。其(そ)は、克(よ)く能(たえ)ると不能(たえられざる)こと、能(ききめ)と毒とに分かつなり」とあります。

 また、『医綱本紀』の中では、聖徳太子は「古来の日本において、病気というものは、全くなかった」ということを述べていると強調しています。
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