フロイスの評価した十六世紀の日本人の体躯
 ポルトガルのイエズス会士・フロイスLuis Frois/インドで司祭となり、また49年(天文18)以降の長崎で没。1532〜1597)は、布教史『日本史』1549年(天文18)以降の日本の記録)を執筆したことで有名です。

 フロイスは1563年(永禄6)来日し、長崎で“日本二十六聖人”の殉教を目撃しました。
 そしてこの間の滞日中、140余通の日本通信を本国に送り、それが『日本史』として纏(まと)められたものです。

 この『日本史』によれば、特に武士階級の事を挙げ、彼等の体躯の強靱振りを非常に高く評価しています。それを要約すれば次のようになります。

武士階級の食生活は、当時のどの階級よりも質素で、多くは玄米穀物菜食主義で、下は雑兵(ぞうひょう)といわれる足軽から大名に至る迄、少食・粗食であった。また着ている物も、普段は木綿(もめん)の粗衣であった。それなのに暑さや寒さに強かった。
「戦い」となると、強靱振りを示した。徒侍(かち‐ざむらい)といわれる下級武士は、約40キロの防具・甲冑を着け、それを装着して、恐るべき早さで野山を駆け走り、あるいは駆け登った。
騎馬侍(きば‐ざむらい)という一ランク上の階級も、馬術に長けているばかりでなく、体躯そのものが強靱であり、落馬してもそれで滅多に死ぬことはなかった。また、敵の徒侍に、一旦は馬から引き摺り落されても、再び立て直し、掠り傷もせず、丈夫な体躯をしていた。
刀で斬られても、あるいは槍で突かれても、傷が致命的な深手でない場合、その傷は直ぐに治り、それは不思議なくらいであった。
 おそらくその秘密は、彼等が普段口にしている食べ物にあると思われ、その食べ物の多くは、玄米菜食を中心とした食物に併せて、海で採れる魚貝類や、川で採れる小魚等で、こうしたものが強靱な体躯に貢献していたのであろう。そして彼等は、総じて少食・粗食であり、こうした事が胃腸を損なう原因から守っていたのであろう。

 それに比べて商人や町家の多くは、裕福で、食生活も武士以上に贅沢で、病気がちの人が多かった。これは食べ過ぎの食生活が胃腸を損なっていたのであろう。

 これはどこか現代の日本人と似ていないでしょうか。江戸期に入ると、白米の食べ過ぎから「江戸患(えど‐わずら)い」という病気が、商人や町家の人に流行します。「江戸患い」とは、今日で言うビタミンBの欠乏症から起る脚気です。また逆に武士階級は、白米を「泥腐る」といって、これを食べていたのでは、いざという時、役に立たぬ、したがって栄養価の高い「玄米」でなければとしたのです。

 フロイスは、武士階級の日常のこうした事を、日本通信として本国に送り続けてい
たのです。
 そして日本では、十六世紀以降、武士の日常は玄米菜食主義に徹せられ、その頑強な体躯を土台にして健全な精神が培われました。
 頑強で、丈夫な体躯づくりの秘訣は、実は肉食主義ではなく、玄米穀物菜食の中に「強靱」の秘訣が隠されていたのです。

 ちなみに西郷派大東流合気武術では、これを「大東流霊的食養道」として、現代に伝えています。
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