|
▲水野南北が「白豆」と称した入り大豆。
|
●人の運命は食にあり
まず、私達は水野南北という人物の、人相に注目をしなければなりません。
「人の運命は食にあり」と大悟したのですから、南北自身の相貌はどうだったかという事です。
南北はその人相からして、ズバリ言えば、「貧相」の一言に尽きるでしょう。決して、よからぬ人相なのです。
その背丈・体型は、まず背が低く、姿勢が悪く、顔貌はせせこましく、口は小さく、眼はけわしく窪み、金壺眼(かなつぼがん)です。この眼は東洋人には少なく、西洋人の多いタイプです。
印堂は狭く、眉は薄くこういうタイプの人は運が開けるのが遅く、折角の運気も取り逃がします。性格が疳癪(かんしゃく)持ちです。
「鼻は低く、顎骨は高く、歯は短かく小さい、また足も小さい」と自らが書いているように、人相としては、まさに貧相です。失礼な言い方をすれば「最悪」としか言いようがありません。
しかし、「人の運命は食にあり」の大悟によって、「吾れ衆人の為に食を節す」と、粗食・少食に切り替えたのは、実に懸命な選択でした。
南北自身の人相所見観てみますと、小さな口は愛情が欠ける事を顕わします。次に背が低いのも愛情に欠け、眼が金壺眼で、嶮(けわ)しいのは犯罪者タイプであり、眼がくぼめばひっこみ思案の暗示があります。
また、印堂が狭いのは精神不安定であり、眉が薄いのは兄弟運がない事を顕わします。そして然も短命です。
鼻が低いのは貧乏で短命であり、歯が小さいのも貧乏で短命を顕わします。次に足が小さいのは賎しく、健康状態は常に不健康に悩まされるタイプです。
しかしこうした死の淵から生還した事は、先天の気である人相よりも、後天の気である食餌法で運命を変えられるという事を顕わしています。
結論からすると、南北教えの要点は、如何なる善相良運健康な人であっても、美食を繰り返し腹八分目以内に食事制限できなければ「悪相」となり凶運短命となる。また、如何なる悪相凶運病弱の人でも、食餌法を徹底して腹八分目以内を厳守し、これを日々実践すれば良運となり、健康長命となる、という事を言っています。
さて、昨今の現代人の食生活はどうでしょうか。
今、日本は不況下にありながらも飽食に時代を満喫し、「腹十二分」の欧米一辺倒の西洋料理に舌鼓を打つ食生活が繰り広げられています。
欧米を崇拝するあまり、日本的なものを心の底から毛嫌いし、それに批判を加える事が高等な文化の様に思われる傾向にあるようです。
ここで日本人の血を造り、その肉体を培った「食」とは何か、という事について、再び考え直す必要があります。
「食」とは、人間が生きて行く為の原動力の源です。
しかし今日の食文化は、グルメや美食に翻弄されて、誰もが水野南北の発見した法則とは、逆の方角に眼を向けて突き進もうとしています。それはまさにに、「永遠の不幸」を齎す死への方角です。
南北は、人間がどんなものを食べたら、どんな人相になるか、あるいはどんな風体になるか、厳しい眼で日本人の将来を見据えた賢人です。
そして「日本人とは何か」という、連綿と続いた日本的伝統文化とは何か、という事を霊的な立場から探究した人でした。
『相法早引』の序文によると、南北は、真言の高僧・海常律師により改心し、相法を学び、師の俗姓「水野」の名字を許されたと述べています。
また、海常律師から中国より渡った相書『神相全編』を学び、その後、実地で観相して修行する為、諸国を遊歴し、相法を確立したとあります。
三十歳頃、京都で観相師の看板を掲げ、『南北相法』や入門書ともいえる『相法早引』などを出版し、相法家として名声を博し、全国に多くの門人を持つ事になります。
享和3年(1803)、恩師・海常師の追善供養の為に、一千部にも及ぶ『相法早引』を無料で施本し、これによって慈雲尊者から居士号を授けられました。
しかし『相法早引』と題した観想法は百発百中とはいえず、後に伊勢神宮に詣でて、外宮の祭神・豊受大神に導かれて大悟したのは既に述べた通りです。
そして美味大食を戒め「慎食延命法」を説くに至る過程には、伊勢の五十鈴川で断食水行50日の荒行が功を奏し、粗食・少食の食餌法より運を変えることが出来るとしたのです。
南北は自身で、幼少より身体虚弱で、三十歳まで生きられないと言われていましたが、若い時、感ずることがあって食養に努め、以降、名を馳せてからも、宴会などは極力辞退し、一日一合五勺の酒しか飲まなかったと言います。
食餌法における栄養所要量は客観的に見て、「腹八分目」が食べる量の目安です。
また、栄養所要量の方は、栄養学的に言うと必要量を満たす事に重きが置かれているのに対して、「腹八分目」の方は「足るを知る」ことを説いています。
日本の近代史において、太平洋戦争を挟んで、「足りる」から「満たす」ことへ移行し、近年に至っては「十二分に食べる」が常識となりつつあります。
それ以前の、例えば明治や大正生まれの祖父母は、「腹八分目」をくどいように繰り返し、大食を戒めました。ところが戦後は、栄養を取ることが強調され、現代栄養学の食餌理論に則って誕生した健康優良児などが大いに持て囃(はや)されました。
昭和三十年代後半から四十年にかけてその頃の親達は、我が子が小食で、食が細ければ嘆いたものです。子供達は学校へ行っても、給食は残す事もできず、沢山食べろと叱られて育ちました。
こうした日常は、今日の働き盛りの健康を疎外するような元凶を作ったのです。
食っても食っても、喰い足りないという「ドンブリ腹」は少食という「適量加減」を失わさせ、節約や倹約という「善行」を人々から奪い取ってしまいました。
しかし南北の粗食・少食の実践は、食事量を「腹六部目」にし、残りを神や他に捧げる事で、健康と運命開運法に結び付けたのでした。また南北は食を慎み、そして乱さず、元々貧相で短命であった自らの運命を変え、その後、病気や災難にも遭わず、七十六歳まで生き、財も残しました。
そして死に際、南北が感得したものは、大食する者は、人相が吉でも運勢は凶になり、少食の者は、生命が尽きても食が尽きないので、死病の苦しみがなく自然死に至るというものでした。
「吾れ衆人の為に食を節す」と、一日に麦一合五勺、酒一合だけに徹して、「足るを知る」人生は見事なものだったといえます。 |
|