●光明思想 この世のあらゆるものは、お互いに依存しあって存在します。何一つとしてそれだけで、単体・孤立して存在するものは一つもありません。したがって、この現象政界には、「そのもの」という固定した実体を持つものは、何一つないのです。 しかし私たちの普段使っている言葉は、固有名詞によって名前が与えられたとします。人、動物、そして山や川。そして一旦名前が与えられると、そこには固有の固定した実体が、さも名前とマッチして実体の如き錯覚を抱かせます。ところが、現象世界のこうした差異をありのままに捕らえる考え方は、この根底に根源的な働きが存在している事に気付きます。つまり事象をありのままに捕らえた、山の観であり、川の観です。この「観」にこそ人間の智慧が包含されているのです。 しかしこの「観」はあくまでも智慧の働きによって派生したものであり、言葉が出て口にしなくても、山がひらめけば「山」となり、川がひらめけば「川」となります。こうして何かを固定して思考する心が優先して、いつしか現象世界の事象を固定観念で捕らえる危険領域の中に踏み込んでしまっているのです。これこそが固定観念の元凶です。 固定観念を突き詰めていくと、では果たして、その中に限定してもていするものは一体何処にあるのかと言う事になります。 喩えば自分自身を挙げて、固定した「わたし」というものは存在するのでしょうか。何処が「わたし」で、何処からが「わたし」ではないのでしょうか。また、山を観ても、何処から何処までが山で、山という事象は、一体山が何処で終結しているのでしょうか。 言葉や観念は私たちを捕らえて、いつしか、ありのままとは異なる世界の中の想念に引き摺り込んでいて、柔軟性に欠ける硬直した固体世界を作り上げる魔力を持っています。そしてこの魔力に押されて、いつしか固定した「わたし」というものに執着するようになります。こうした結果が、「わたし」が老いて、病気になり、死んで行くと言う無常の現象が「怕(こわ)い」と思うようになります。 いままで執着して、愛したものが消えていく事に深い悲しみを抱くようになります。 しかしこうした恐れや悲しみを抱くばかりでは、ありのままの世界観に触れる事が出来ず、幻夢の観念で事象世界を汚染させ、これから発生するものが恐れや悲しみであり、また苦悩や迷いなのです。 この世の事象現象の総ては「幻夢」で覆われています。この幻夢を取り払った時、私たちは、この事象世界が、常に動いて止む事のない無常で動いていることに気付かされるのです。そしてそこに見るものは、ありのままの壮大な世界の光景です。 この光景は眩(まぶ)しいばかりの光に包まれていて、そこには限り無い喜びが溢れています。この現象世界が一秒たりとも止まることない現実を知る時、私たちはあるがままに事物の存在を見詰め、「無常」という事実を目(ま)の当たりにして、物事を見詰める見識を養う宇宙観を思考する長い旅立ちの第一歩を踏み出すのです。 ●光明思想が与える勇気と平安 新たに生まれては滅ぶ宇宙は、宇宙が絶えず生成と死を繰り返している事に気付かされます。生と死を繰り返し、死から次の新たな生が形成されます。 その中に形成され一時的に存在する私たちの世界も、いつかは破壊され、やがては「空の世界」へと回帰していきます。 総てのものは個々の働きが終われば滅びますが、その働きは「永遠に伝えられる」のも、また、法則のしからしむところです。人は、いずこからともなく現れ、ある働きをして、それを成し遂げれば、いずこともなく去っていきます。 この循環の中に、大自然の与えた命の秘密が隠されていて、伝えるものと伝えられたものとに相互に、生命が交わされ、情報が遺伝すると言う現象を起こします。この情報伝達こそが、いつのまにか種族を進化させ、育成させる原動力となっていkます。 人類は遠い太古の昔から、「時の流れ」の中を行き来し、そして遥か彼方な未来にまで流れ続けるものであり、この現実の中に、人類と言う名の命が、巨大な大河に溶け込んで、共に未来へ向かうと言う無常を認めないわけにはいきません。 「人はいずこよりいずこへ」という原始以来の人類の命題は、人類の先祖と言われるヒトザルの時代から与えられ、例え彼等がこうした意識を持たなかったとしても、洞窟に住居を構え、常に食べ物に飢えていた目を空に奔らせて、その命題に迫った事は間違いありません。そしてその命題は、地球の終焉を見守る未来の人にも同じょように与えられています。 深い、青白い炎が燃えた時から、あるいは限り無い進化の前進を命じられた時から、太古のヒトザルにも魂の進化が義務付けられ、やがてはそれが不安定な体躯にバックボーンとしての脊柱が通り、直立する事を更に促されるようになります。こうしたヒトザルは魂に目覚め、怠慢で臆病な心にも「勇気」が入り込んで来ます。やがてこの勇気は、限り無い向上へと向かい、いつの頃からはヒトザルは「前進する」あらたな人類へと変貌していきます。 宇宙は絶え間ない運動を繰り返して「進化」していきます。したがって人類も宇宙と共に進化していきます。もし、人類が魂の進化と言う永遠なる進化の目的を持たず、進化の意識を捨てて、低温の赤い熱の炎を好むようになると、高温度の青白い炎は勢いを失います。そして人間の魂の本質は活動を低下し、やがては不燃性ガスが溜まり始め、黒点をつくり始めます。 こうした黒点が密集すると、その結果自浄作用が失われ、滞った意識は停滞して、低温の赤色星となって爆発するか、あるいはブラックホールになっていくか、こうした現象は、宇宙の星々の終焉(しゅうえん)に暗示された通りです。万一そうなれば、私達の魂は幾度のなく転生を繰り返しながら、進化して来た努力も、また、空しく潰え去り、無に帰してしまうのです。 人間の観じる充足感の中には、肉体的な「快感」と、心的な「満足感」と、霊体や幽体が感じる「成就感」の三態があります。肉体的ならびに心的な喜びは単に赤い熱感に過ぎませんが、霊体や幽体が観じる「霊的な喜び」は、魂の深いところで燃える、青白い炎であり、この炎には「澄明感」を伴っています。 これは丁度太陽を見つめると、この時に見えるコバルトブルーのあの光彩と同じ、霊的な喜びを感じるものです。太陽のコバルトブルーの光彩を観る事を、「日想観」といいます。光明思想の原点は、実は此処に由来しているのです。 この青白い炎を見詰める時、その感覚は人をより高い、高次の場所へと誘い、恐怖心に汚染された心を中を一掃し、その代わりに「勇気」を与え、更には緊張したストレスの代わりに「平安」を与えるものなのです。 |
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