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●一日三食、何を食べたらよいか

 私達の食に関する周囲を見てみますと、安全な食品など、殆ど無いという事に気付かされます。そして「一日三食、一体何を食べたらよいか」という現実に直面してしまいます。何一つ安全な食品がない事に気付かされるのです。

 食肉一つを取り上げてみても、狂牛病等の、経口感染により発症する病因が潜在していますし、農作物においても、農薬を始めとして、様々な有害な病因源が存在していて、昨今では遺伝子組み替えによる、不確かな不安物質が存在します。

 そして喩えば、昨今の食肉事情を見てみますと、狂牛病による食肉不信が大きな社会問題になっています。
 狂牛病とは、スクレイピーscrapie/脳の変性・破壊を主徴とするヒツジの疾患。細菌学では、病原体はプリオンと考えられている)という脳疾患で死んだ羊の肉を、飼料とした牛に発生する脳の変性ならびに破壊を主徴とする疾患です。人のクールー、クロイツフェルト・ヤコブ病等に症状が類似し、プリオンの経口感染により発症する病気で、人間にとっては非常に有害なものとなります。

 この感染源は肉骨粉が原因とされ、また牛・豚・羊・鶏等の約80%の食用動物の大腸菌の中には、耐性菌(ある薬物に対して強い耐性を有する細菌で、殊に抗生物質に対して耐性を示す)という抗生物質の全く効かない細菌が存在して、これが人に感染する怖れがあります。
 やはりこうした事を考えると、肉食は人間にとって、適正な食品とは言い難いものがあります。

 さて、わが国では「物忌み」の風習として、古来より「清浄の気」を厳しく保という思想がありました。この思想の中心は、血を穢す食肉は一切しないという戒めです。
 物忌みとは、ある期間、飲食や行為をつつしみ、禊(みそぎ/身に罪または穢れのある時や重大な神事などに従う前に、川や海で身を洗い清めること)によって身体を浄め、不浄を避けることを指します。こうした慎む行為を斎戒さいかい/飲食・動作を慎んで、心身を清めること)と言います。

 神武紀には「八十平瓮(やそのひらか)を造りて、躬(きゅう)(みず)から斎戒ものいみして、諸神(もろもろ‐の‐かみ)を祭りたまふ」と言う記述があり、心の不浄を清めるばかりでなく、飲食においても、その動作や起居振る舞いにおいても、慎み、沐浴(もくよく)斎戒を定期的に実行する風習がありました。
 沐浴斎戒とは、「沐(もく)」は髪を洗うこと、「浴(よく)」は体を湯水で洗うの意味で、 心を清め、身を洗うことをこう称していたのです。

 衣服一つにしても、汚れたままで洗わないと、シラミやノミが発生します。そして「食肉(じし)をしない」ということが『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』にも出てきます。

 この書物は、中国の魏の史書「魏志」の「東夷」の条(すじ)に収められている、日本古代史に関する最古の史料となったもので、邪馬台国を見聞した、中国からの一行が、倭人(当時の日本人)を見て、そのなかには一般庶民までもを含み、その生活ぶりをつぶさに見聞し、そして記録に納めたものであると言われるものです。
 邪馬台国(やまたいこく)とは、女王・卑弥呼(ひみこ)が支配する強大な国で、「三国志」の魏志倭人伝に記され、二世紀後半から三世紀前半の頃の、倭(わ)にあった国を指します。そして当時、「物忌み」という習慣があった事を、ハッキリと記述しているのです。

 清浄の気を養うには「肉を食べないこと」が挙げられ、神に通じるためには肉食をしてはならないことが挙げられていたのです。こうした事を見ていきますと、邪馬台国の支配者は縄文の太古より女系であり、女王が居た事が窺えます。そして最高位にあったシャーマン卑弥呼は、食肉していたという事は、まず考えられないことなのです。

 食肉をしないという考え方は、明治維新以降まで、日本人の共通した考え方として伝承されます。
 日本人の食肉禁忌(しょくにく(よく)きんき)の思想は、仏教の殺生禁断せっしょうきんだん/五戒のうちの不殺生戒)の影響を受けたものとされる説もありますが、これは仏教伝来以前の邪馬台国の時代から既に存在した事で、神に通じる為には、肉食をしてはならないという戒めがあったことを窺(うかが)いさせます。

 ここで言う「神に通じる」とは、未来予見という意味で、「見通し」の事を言います。
 人間には、五官の他に潜在意識の中に、阿頼耶識(あらや‐しき)という深層意識があります。
 阿頼耶識とは、人間存在の根底をなす意識の流れです。人間の人生におけるライフ・スタイルは、経験を蓄積して個性を形成し、また総ての心的活動の拠(よ)り所となるものを求めて行きます。これは東洋哲学で言う、唯識派で説く、八識の中の「第八識」のことで、旧訳(く‐やく)では阿梨耶識(あなや‐しき)とも言われ、略して阿頼耶・頼耶・阿梨耶・梨耶とも言います。

 この意識を自身で感じる事を「神に通じる」と言い、つまりこれは「見通し」と言うことになります。
 人間社会の動向は、総て「見通し」によって立案され、計画が練られ、それが実行に移されて具現化され、具体化されて、実現を見ます。しかしこの一番最初の「ひらめき」は、一人の先覚者の「見通し」からなるものです。

 もしこれがなかったら、計画は失敗に終り、何一つ現実化できなかったことでしょう。
 こうしたプロセスの中で、肉食を避ける事が、古代人の長寿の秘訣であったと思われます。
 そして結論から言えば、人間に許された食べ物は、植物性の穀物菜食であったことは疑う余地もありません。

 また穀物菜食を裏付ける人間の人体構造を見てみれば、それは特に「歯」に現われています。詳細については大東流霊的食養道を再度参照ください。



●一日二食で粗食・少食主義

 多くの日本人は、飽食(若者の間では一日四食が常識化されつつある)に陥っています。また一般的にも、一日3食でなければ、行動エネルギーは生まれないと考えています。しかしこれは大きな誤りです。
 長寿の秘訣は、先ず第一に動蛋白を摂らないこと。第二に一日2食で、朝食を食べず、昼食と夕食のみの、一日2食主義を実践することです。

 現代医学や現代栄養学は、一日3食で、しっかり朝食を摂ることを推奨しています。そして朝食は一日の活動エネルギー源と提起しています。
 しかし人体の構造の生理機能は、同化作用と異化作用によって生体の根本を維持しているのですから、「一日3食で、しっかり朝食を摂る」という現代栄養学風の仮説は、真っ赤なウソと言うことになります。

 したがって「朝食は一日の活動エネルギー源」という現代栄養学者の言うことは、短絡的であり、人体を機械同然に看做(みな)し、人体という生体の本質を無視した大きな錯覚といえます。
 機械や自動車はガソリンを注入した時点で直ぐに役立ちますが、人体では、食べた物が少なくとも7〜8時間経たないとエネルギー化はしないのです。

 そのため、朝食を摂ったからといって、それが即、一日の活動エネルギー源となるわけではなく、複雑な物質代謝系を経て、はじめて食べた食糧がエネルギー化されるのです。
 “同化作用”は生体物質を合成し、エネルギーを蓄積するのに対し、“異化作用”は生体物質を分解し、エネルギーを浪費させるというのが各々の作用であり、相反する方向性をもって、各々が異なる働きをしているのです。
 そしてこの二つの作用は、昼と夜で切り替わります。


 夕方から暁方(あけがた)の夜間にかけては同化作用が優勢になり、暁方から日中にかけては異化作用が優勢になります。食事と睡眠が同化作用であり、排泄と活動が異化作用です。
 人間が食事を行うという行為は、心のリラックスと満腹感を得る為であり、これはやがて「眠り」という営みに導きます。そしてその眠りの中で、同化作用はほぼ完了します。

 暁方に目を覚まし、目覚めたら食糧の不要物を排泄する為に便意を催します。
 これが一般に言う、朝食時間の頃であり、この時間は本来は食事をするのではなく、排泄をする時間なのです。

 一日二食主義という理由は、この事からも説明がつき、排泄時間に食事をするというのは大きな間違いなのです。但し胃を刺激する事によって、便意を催し、腸内の蠕動(ぜんどう)運動を誘うには、水またはその他の野菜ジュース等を飲用するのが効果的であり、こうした液体の物を摂っても構いませんが、食糧となるものは余り感心できません。
 そして不要物をすっかり排泄して、身軽になったら、いよいよ昨夜まで蓄積したエネルギーを使って、異化作用の始まりとなるのです。これが順当な人間の一日の生活リズムであり、朝食時に食事を摂るのは誤りと言えます。

 さて朝食時の排泄タイムに、胃袋を刺激する事は決して悪いことではありません。寧ろ排便反射を促す為に、大いに効果的であると言えます。
 この時、天然水等の水でも構いませんが、体質改善等を考えるには、「ヨモギ茶・ドクダミ茶・ゲンノショウコの煎じ汁・柿の葉茶・枇杷(びわ)の葉茶・玄米茶・梅干におろし生姜(しょうが)汁・玄米スープ・高麗人参(こうらい‐にんじん)茶・ハブ茶・ハト麦茶・葉緑素や青汁・わかめ汁・青紫蘇(あお‐じそ)茶・昆布茶」等を飲用する事を御薦めします。
 こうしたものだけで、一日二食主義を徹底するわけです。

 一日二食主義は過食や飽食を防ぎ、摂取した食物を効果的に吸収して、代謝機能をより効果的に行うには、最良な体質改善と言えます。
 そして躰をエネルギッシュに思い切り使う事は「空腹トレーニング」にもなり、成人病の解消や、美容保持にも驚異的な効果を発揮します。



●現代栄養学の言う、何でも食べようは大間違い

 現代栄養学と厚生労働省は「栄養のバランスを取る為には、一日30種以上の食品が必要である」と言っています。そしてこうした総花主義的な、間違った考え方が、いつの間にか固定化され、多くの日本人はこれを疑うことを知りません。

 現代栄養学者達は食品産業や食物メジャーの走狗となり、過食や飽食を国民に押し付ける政策に荷担しています。テレビにコマーシャルはどうでしょうか。CMの約60%以上が食品関係であり、毎日どこかの番組では、グルメに関する料理番組や温泉グルメ番組が放映されています。
 しかし一方で、ヒトは一体、何を食べたら健全に生きられるかという体質改善番組は、殆ど皆無といった状態です。

 さて、ヒトは一体何を食べたら良いのでしょうか。
 つまり私達は、食性を見極める必要があります。
 そして実はその食性の特徴は、「歯型」に示されているのです。歯型こそ、ヒトの食性を明確に物語ったものです。

 生物学上、ヒトの場合、臼歯(穀物歯)が一番多く、次に門歯(野菜歯)の順になっています。したがって生物学上から言うと、ヒトは穀物菜食の食性動物であるということが分かります。
 穀物を主食とし、適量の野菜を副食とする食事をすることによって、人体の生理機能が健全に営まれ、人生を全うできるものなのです。そして最も重要な事は、これは生物学的なヒトの宿命ですから、「指向」や「好き嫌い」や「考え方」によって、自由に変えられると言うものではないのです。

 では、穀物を主食とし、適量の野菜を副食とするという生活スタイルにどのような意味があるのでしょうか。
 それは自動的に、栄養のバランスが取れ、そのバランスの良さが病気を遠避け、長寿を全う出来るというシステムが生まれながらに備わっていると言うことに他なりません。
 穀物はあらゆる多くの食品の中で、最もバランスの取れた食品です。但しそれは未精白穀物に限ります。

 多彩な有用成分を含み、これがバランスよく拮抗を保っていて、これを一定量以上適量に摂っていれば、他の条件に左右される事なく、躰を中庸に保とうとする働きを促します。特に玄米はその最も優れた食品であり、未精白穀物の王者と言えます。

 食品として見れば、たった一種類のものであっても、内容的には人体に必要な成分が多彩に含まれていて、躰が需(もと)めるものをちゃんと満たしているのです。主食というものは、元々そうしたものであり、今日のように精白した白米に、数十種の御数(おかず)を付けるという現代栄養学の食思想は、躰の自然性を無視した似非えせ/偽りや瞞し)学問ということになります。

 現代栄養学流に食思想を追求していきますと、「主食を出来るだけ少なくして、副食主体に、一日30種以上の食品を摂取せよ」「肉と野菜のバランスをよく摂れ」「肉嫌いでも、時には動蛋白が必要で、肉はスタミナ源の元」等と言うスローガンを掲げていますが、これは全く人体の構造を無視し、食物メジャーに荷担した学問ではないのか、という疑いすら出てきます。

 副食についても、食養道的に見れば、基本的には同じであり、躰に必要な食品を、野菜や貝類や小魚類(背中の青い魚)という順に摂っていけばいい事であり、必ずしも多く摂る必要はないのです。
 食事はあくまでも主食が主体ですから、主食が全体の七割方を占め、副食はその三割程度でよいのです。

 また副食は、主食に添えられて、血液浄化や内臓機能の健全化に役立つものを効果的に摂取することであり、こうした食べ物を検討していく場合、食の理論面と、怪我や病気をした場合の臨床面の両方から考えればよいのです。
 そして両方を検討すると、「野菜を主体にして、発酵食品と、貝類や背中の青い小魚を加える」と言うのが、副食の具体的な結論になってきます。

 更に以上の結論を満たすために、副食としての食品数は、主食が主体なのですから、その数は少なければ少ないほど良いということになります。
 食品というのは単品であっても、一つ一つに異なった特性と性状を持っています。したがって副食数が多くなると、性状に多品数の特性が現われて、内臓機能が複雑化するばかりでなく、消化の為の生理機能に混乱が起こり、無用な疲れを内臓に齎します。内臓疲弊はこうしたことが原因です。

 したがって少品数食は、発ガンの予防にもなるということです。
 極端なことを言えば、主食さえ正しく摂取されていれば、毎日の食事のメニューが「味噌汁と沢庵、梅干と野菜の煮つけ」等の簡単なメニューでも構わず、これだけで栄養失調になるという事は決してありません。

 むしろ現代栄養学と厚生労働省の食事メニューに踊らされて、あれもこれもと、メチャクチャ喰いをしていた人の方が、三大成人病に罹りやすく、現に、ガンを始めとして、糖尿病や高血圧や高脂血症等で悩まされている人は、御数(おかず)喰いの大食漢であり、それに食肉が加わりますと、寿命は更に短くなってしまいます。

 さて、日本は幸いにして、四季に恵まれた風土を持っています。日本の風土は季節ごとに、変化に富んだ食素材を恵みます。味噌汁の実でも、野菜に煮つけにしても、おのずから四季と共に変化を齎します。この事からも、御数は多くある必要はなく、単品でも十分に多彩な食の恵みを与えます。
 


●発ガン予防率と健康状態

 巷間では「一つの物ばかり食べていると、ガンになる危険性が高い」という、現代栄養学の流した噂が、実(まこと)しやかに囁(ささや)かれています。
 また一つの食品だけを、大量に摂り続ける「どっさり食い」や、ワン・パターン・メニューの「ばっかり食い」等も、ガンになり易いと言われています。

 確かに、毎日のようにラーメンばかりを食べれば、通風つうふう/動物性蛋白ことに核酸摂取の過剰により、足・手指・膝関節等に尿酸塩の沈着を生じて、発作性激痛を反復する疾患)に罹(かか)りやすく、インスタント・ラーメンや食肉の缶詰は「発ガン物質の巣」等とも言われていますが、むしろこれと同じ様な愚行が、お茶代わりに毎日二本も三本も牛乳を飲む、あるいは一週間に数回はスタミナ源として焼き肉やサーロイン・ステーキを食べる……等の方が、遥かに発ガンを呼び易い、「ばっかり食い」の最たるものである事を忘れてはなりません。

 「味噌汁と沢庵、梅干と野菜の煮つけ」等の簡単なメニューと、同じものを大量に摂る「どっさり食い」や、ワン・パターンの「ばっかり食い」の両者を比較すると、本質的に内容が異なっている点に気付かれると思います。
 内容的に優れた主食を中心にして、副食の数を減らし、人体を維持する、摂るべき食品を常食にするという食養道の思想は、現代栄養学の言う「一日30種以上の食品」という事とは、本質的に異なることがお分かりと思います。

 人間の生理機能というのは、同じ作業の連続の繰り返しです。人間の生理機能にとって、必須の食品摂取は繰り返しの連続であり、これを絶え間無く摂り続けることは、人体の当然の営みと言えます。
 しかし現代栄養学や現代医学は、発ガン因子の危険性を分散するには、あれやこれやと30種以上を多く食べて、それが予防医学に繋がるのだというピント外れの仮説を打ち出しています。仮説は、あくまで仮説の上に成り立つもので、時代と共に変わっ
ていくものであり、この仮説は人間の生理機能を無視した誤った学説と言えます。

 発ガンするかどうかは、食→血→という順のプロセスによるもので、血液の性状の善し悪しによって決定されるものです。
 そして血液を発ガン状態に追い込む代表的な食品に、肉・牛乳・卵・白米・精白小麦粉・白パン・白砂糖・精白塩・化学調味料(うま味調味料)等が上げられ、これ等を避ける食事をすることが大事なのです。
 ちなみに白米・白砂糖・白パンを三白癌(さんぱく‐がん)と言います。最近では化学調味料は一つ加わり、四白癌とも言われます。

 また血液の発ガン状態を解消するものとしての代表食品は、玄米(ほか玄麦や粟、黍、稗などの未精白穀物)・野菜・海藻類・貝類・小魚類等が上げられ、これを主体にした食生活をしているか否かで、その人の発ガン予防率と健康状態が決まります。