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●霊的食養道とは 日本人は古来より、穀物を中心とした菜食主義でした。肉を食べると言う習慣がない為に、病気と言う「兇(わる)いメグリ」も、現代よりはそんなに多くなく、したがって誰もが健康であり、多くの人は、その死に際(ぎわ)の臨終が、自然死として死んで行くものでした。 ところが現代に至ると、食生活も欧米化されたものが多くなり、その結果、様々な難病・奇病が病因を作るようになりました。 特に日本に於ては、世界でも有数な飽食・美食国で、その飽食・美食の代償に、実は、日本人は大変なものを失いかけているのです。 最先端医療技術の発達と共に、日本人は着実のその平均寿命を延ばし、世界一の長寿国となりました。しかしその一方で、成人病を患う人が急増し、年々増加の一途を辿っています。 その為、かつては見られた、安らかに天寿を全うする人など、殆ど居なくなりました。最後は末期癌で病死するか、ガンにならなくても、寝た切りで惚(ぼ)け老人となり、病院の堅いベットの上で人生の幕を閉じます。 そして複雑に絡む不幸現象は、その死因なる病気の多くが、次第に難病化、業病(ごうびょう)化しつつあるのも現実です。あるいは明らかに、霊障と思える畸形(きけい)の奇病化で、その最たるガン疾患で命を失います。 日本における死因の第一位はガンであり、その死亡数は年々増加の一途を辿っています。「肉(じし)喰った報い」の浮上によりこうした病因が現象化しています。 現在のガン死亡率の推定人口は、約30万人強と謂われ、これを一年間の死亡時間比率に直しますと、約2分50秒に、一人の割り合いで死んでいることになります。 死因の第二位は心筋梗塞等の心臓病で、この病気で死亡する人も、年々増加の一途を辿っています。 次に脳卒中と続き、これ自体で死亡しなくても、後遺症の結果、惚(ぼ)けたり、寝た切りとなって、廃人同様になってしまいます。 そして更に、暗欝(あんうつ)とした影を落としているのがエイズです。 エイズは最早、同性愛者だけの問題ではなく、異性間交渉でも、あるいは輸血感染でもこうした現象が認められるようになり、日本国内に於いても爆発的な勢いで広がり始めています。 日本において、天変地異や戦争等が起こらなくても、日本人は確実に死の淵に追いやられているのです。近代で最先端医療技術が高度に発達した国で、このような難病・奇病が蔓延(まんえん)するのは一体どうしたことなのでしょうか。 実はその背後に、「食の乱れ」というのが大きな原因になっているのです。これまでも、食と病気の因果関係は早くから指摘され、食が乱れれば、必ず身体は病むという必然的な結果が、世界の権威筋で指摘され、証明されていました。 ところが日本人は、こうした指摘にも耳を貸さず、未(いま)だに飽食と美食に明け暮れています。 そして現代、その病む実情は、肉体だけではありません。精神も病み、魂は穢(げが)れ、霊的神性は益々低下しています。 ここに霊肉ともども、地に落ちる現実があるのです。 霊肉の質や格が落ちれば、当然、霊的神性や霊的波調も低級化し、空中に浮遊する浮遊霊の唸(ねん)や、地縛霊の唸を被り易くなり、こうしたものに波調が同調します。こうした事が起因して、今、肉体の病気ばかりではなく、明らかに霊障と思える病気が爆発的な勢いで広がりつつあります。 さて、本来人間に許されている食べ物は穀物と野菜や、河川や近海で採れる小魚等の魚介類に限られていました。しかし欧米の、拡大・膨張すると言う弱肉強食思想が、明治維新以降日本を襲うと、天地から許された外の動物性蛋白質を多く摂るような食思想が生まれ、これまでの日本人の食体系を大きく破壊してしまいました。 そして宇宙の秩序や法則に反する非実在界の、諸々の悪想念から起こる事物・事象の幻夢現象が起こりはじめたのです。 病気や怪我、争い事との一切の不幸現象は、こうした食の乱れが生み出したものです。そして食肉を始めとする乳製品や鶏卵等の摂取は、こうした動蛋白を摂ることによって血液は汚され、身体の調和は破壊されるのです。 昨今の少年犯罪の低年齢化も、実は心身ともに破壊された悪想念が招き寄せている実情があり、食の乱れが、こうした現象を起こしているのです。 人間が健康体を維持して行く上で、必要な栄養素は、タンパク質、デンプン、アミノ酸、ビタミン、ミネラル、鉄分、脂肪等であり、総ての食品は、植物性食品から賄(まかな)う事が出来ます。 ところが食糧メジャーの食戦略で、動蛋白摂取の食思想が一般化し、蛋白質や脂肪等が多い、その他の栄養素の欠ける欠陥食品を摂取する習慣が定着し、現代栄養学の吹聴(ふいちょう)が、いつの間にか巷間で囁(ささや)かれるようになったのです。 しかしこうした現代栄養学を出処(でどころ)とする吹聴は、実は、栄養学的に言っても、何ら根拠もないものでした。 ●古人の智慧に立ち戻る 人類の有史以来の歴史を振り返ると、その大半は「飢餓の歴史」でした。今日のように、毎日腹一杯食べられるようになったのは、日本が戦後の復興を何とか成し遂げ、昭和30年以降の高度経済成長に差し掛かった頃からでした。そしてこの頃から、日本の食卓は欧米食化し、食卓には星条旗が立ち並ぶようになりました。 それ以前の「食の歴史」は、飢えに苦しめられた時代でした。そしていつの時代も、汲々とし、食糧不足に悩まされていました。 人類の起源を遡(さかのぼ)りますと、殊に、数十万年前の氷河期時代を考えれば、今日とは想像も絶するような過酷な時代でした。食糧確保についての苦労は想像を絶するものがあったことが窺(うかが)われます。 この時代の人々は、某(なにがし)かの食糧にありついた時だけが、栄養補給の機会であり、それ以外は漸減状態にあったと思われます。また、食は真剣勝負であり、彼等にとって、食は神聖なものでした。 当時の人々の躰の構造は、食物(澱粉や糖分や脂肪分)を消化吸収して、それを血液中のブドウ糖に変換する、人本来の機能があったと言われます。この点は、現代人に於ても、ほぼ同じ構造をしています。しかし、彼等には、何日間も食物が口に入らない期間があり、その間は体内に蓄えていた蛋白質や脂肪を再分解して、これを血糖に変え、血糖値を維持するという、特異な構造をなしていたと思われます。 ところが今日に見るように、日に三度三度の温食にありつき、それが当り前と思っている現代人にとって、食は真剣勝負の世界から遠く離れてしまいました。食は、単に楽しむもの、食通(グルメ)として味わうものという、欧米的な、あるいはブルジョア指向的な考え方が生まれ、真剣勝負の世界から、動物的な味覚の世界、あるいは舌を喜ばせる享楽の世界へと転落してしましました。 誰もが食通を気取り、飽食に明け暮れる今日、人間は食の本質をいつのまにか忘れてしまいました。 過去に於て、「食う」とは生きることであり、真剣勝負の世界でした。そして、食の原点である、浄不浄(腹に収まれば美味しい、不味いは無い)は、人体構造と表裏一体の関係にあり、これが人間の血となり、肉となってきました。 しかし今日、そのことはすっかり忘れ去られ、食は、舌先三寸・目先三尺を楽しませるもに成り下がってしまいました。 これは結局、先祖から遺伝情報として受け継がれてきた、ブドウ糖生産の機能まで狂わせてる要因になりました。 というのは、血中のブドウ糖は、二つの経路から生産されているからです。一つは食物を口にした場合で、もう一つは食物を何日も口に出来ない場合です。 人は食物を口にした場合、これを血糖に変換し、血糖値を維持するという機能が備わっており、また、食物を口に出来ない場合は、今まで体内に蓄えていた蛋白質なり、脂肪なりを分解して、血糖に変換する機能を持っていました。しかし飽食の時代にあり、朝から晩まで、日に三度も四度も食事をする習慣が生まれた昨今、血糖値は常に口から入った栄養分のみよって補給されるというような状態になってしままいました。その結果、空腹時に、体内にあった蛋白質や脂肪を分解して、血糖に変換する機能が失われてしまったのdす。 つまり、息も付かせぬ栄養補給の連続で、血糖を作り出す経路が、一つだけになってしまたということです。 これは漸減食期間(食物を食べずに「みそぎ」をする期間。この期間を設けることによって、無駄な体脂肪を燃焼させることが出来る)が全くない為、余分な蛋白質や脂肪を外に排泄ことが出来ず、その為に、高脂肪高蛋白の栄養過剰に陥り、無駄な体脂肪を増やしてしまう結果を招きました。それが成人病の代表格である、高血圧や糖尿病、あるいは高脂血症や動脈硬化という、現代病です。更に、ガン疾患はその最たるものです。 バブル崩壊以降、長引く不況下にあっても、日本は未だに、飽食の時代であり、グルメブームは一向に下火になる様子がありません。誰もが贅沢な味を追いかけ、その飽くことを知りません。 日本は昭和30年代を境に、国民所得が倍増され、終戦直後は稀であった、外国産の高級な果物及び、肉や乳製品等が簡単に手に入るようになり、今日では毎日のように食することが出来るようになりました。そして、表面的には食生活が豊かになり、物質的な文化水準は確かに向上しました。 しかしその反面、思考や洞察力、更には、右脳等の霊的な精神性が下がり、そればかりか、動物性脂肪の取り過ぎで、奇々怪々な現代病で苦しめられ、精神と肉体の両方から苦悶(くもん)しなければならないという現実を余儀なくされました。この由々しき現実にあっても、国民の多くは、欧米食文化の中心課題である、肉食信仰や牛乳信仰を改めようとしません。 昨今の氾濫する食通情報は、マスメディアによって大衆層に受け入れられ、美食の世界に引きずり込み、その奴隷となるような、悪しき生き方を国民に示唆(しさ)しています。 しかし、食品産業メジャーの利潤追求という企業努力は、その一方で、国民の肉体をコスト主義・生産主義の実験材料、あるいは胃袋をゴミ箱と化そうとする現実があることも忘れてはなりません。 日本の政治的ビジョンは、目先の利益を最優先し、然(しか)もそれは短期的であり、ひたすらアメリカ主義に追随することを奨励しています。誰もが美食や性欲等の享楽的生活を追い求め、欧米指向を追随しています。そして内側から崩れ去ろうとする、暗澹(あんたん)たる陰が忍び寄ってきています。 国民の多くは、その静かに近寄る、豹(ひょう)の如き気配すら気付かない現状にあり、これは西洋の覇道(はどう)の歴史を風靡(ふうび)した、かってのローマ帝国崩壊の様相に、どこかその類似点を見出だしてしまうのです。 その証拠に、無関心派といわれる国民の90パーセントは、テレビの白痴番組によって無能化され、動物化され、その自覚症状も認められない儘、甘美な欧米主義にコントロールされています。 今日のマスメディアに於ける情報通信は、支配者や征服者の唯一の道具と化して、溢れるような過情報の実情は、国民を無能化し、動物化する為の目くらましです。 音楽やスポーツ、芸能やファッション、食文化に至るまで、それら多彩な過情報は、巷に所狭しと溢れています。そして、一時の慰安を求めて狂奔(きょうほん)する庶民層の、マスコミの踊らされる現実があります。 現代は、物質文明の恩恵に浸り切った時代です。 誰もが、一見豊かに見える昨今、これらの恩恵の根源を、国民は民主主義に求め、その主旨である、平等・公正・正義に基づいて、企業や国家が運営されていると固く信じています。 しかし、これらは表面だけの見掛け倒しであり、目晦(めくら)ましであって、うまく表面だけを模造した偽造品で、欺瞞(ぎまん)と詐取(さしゅ)の固い鎧(よろい)で覆われています。 今日にみる民主主義は、自由・平等・博愛の謳い文句で上手に偽装された、トロイの木馬同様のカモフラージュであり、これらは人工的、あるいは意図的に演出されたセレモニーでしかありません。食文化もこの延長上にあるのは疑いようもありません。 現代の食生活の実情を、これに例えるならば、戦後生まれ───それも昭和50年以降に生まれた、今日の青少年の体躯(たいく)は、戦後生まれの中でも、殊(こと)に際立ち、背も高くなり、脚も長くなって、確かに見掛けは立派になりました。しかし、これは外見的な一局面に過ぎません。 内面的には、逆境や困窮に耐えることが出来ず、また、精神的には、意志が堅固でなく、肉体的には体力も見かけ倒しであり、強靭な持続力に欠けるています。そして、青少年の多くは、苦しいこと、辛いこと、汚いことを遣りたがりません。 また、無関心派が多いのも、この年代の特徴であり、彼等の価値観は、専ら唯物主観で一貫されています。精神的にも、肉体的にも、未熟で、軽佻浮薄(けいちょうふはく)な脆(もろ)い一面を持っています。 更に、彼等は病的な欠陥を持っていて、その多くはアレルギー性の病気(肉食や卵類の摂取から起こる病気。アトピー性皮膚炎や花粉症など)を持つ者が殆どです。そして今日も、また近未来も、その延長上に自分の身を置かねばならないという、辛い十字架を背負わされているのです。 このような現状から察すると、物が溢れ、食べ物が粗末に捨てられる現代、切磋琢磨(せっさたくま)して、身を慎み、災いや穢(けが)れを落とし、「大禊祓」(おおみそぎはらい)を実行して、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄から脱出する時機(とき)が来ているのではないでしょうか。 《霊的食養道》は、人類の生き残りをかけて、人々に大きな示唆を与えています。それは日本伝統の精神に立ち戻り、食体系を正して、縄文時代から培われてきた玄米菜食主義の実践です。玄米穀物菜食を実行して、霊的神性を高め、食べ過ぎないこと、あるいは食を乱さないことを旨とし、時には食を断って「みそぎ」をするという、古人の智慧(ちえ)に戻るべきでしょう。 この古人の智慧に立ち戻り、《霊的食養道》の食養の見地から健康な状態を述べれば、蚤(のみ)や虱(しらみ)に食われても、痒(かゆ)くもなく、膨れ上りもせず、食肉や乳製品以外の何を食べても完全に栄養になり、その自己の躰に現われる、あらゆる色合いが健康な人間の肌色であって、吹出物や湿疹等のその他の病原菌から全く遮断された、霊的な躰を持つということが、まさに古人の立脚した《霊的食養道》なのです。 |