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●醫しのある風景集1

外ヶ淵

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一仙蓮華

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垂れる稲穂

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曼珠沙華

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囲炉裏のある生活

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みどりの葉

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流れ池

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農村風景

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黄色の一仙蓮華

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ある寺院の石段

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雨に映える葉

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出湯の灯り

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茶席への遠望

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黄色花

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笹溜まり

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紅葉す

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雨上がりの陽差し

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ある茶席会場

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深まる秋

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椿の実

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ある橋の袂で

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石垣の片隅で

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緑田

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さくら咲いた

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路傍のたんぽぽ

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ツツジヶ池

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ある鐘突き堂

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 自然の中には色々な顔がある。いつか見た、あの時の懷かしい風景があるかも知れない。それは随分遠い日の、いつだったか思い出せない、そんな遠い日の風景かも知れない。
 わたしたち現代人は、喧騒と多忙の日々に生きている。それは、うすうす間違っているのでは、と感じつつも、今に随(したが)うしかないのが現代人の日常である。

 しかし、心の窓を開け放ち、そこから遠望すれば、いつか見た、あの懷かしい風景が日常の騒がしさを超越して帰って来るかも知れない。
 多忙に追われ、競争原理の働く現代社会にあって、科学や技術に振り回される現代人は、今こそ、科学や技術が、本当は人間の為の道具であったことに気付かねばならない。

 わたしたち現代人は、本来人間の道具であるはずの道具に、金銭と引き換えをする酷使の奴隸に成り下がってしまった。そして、道具が道具以上に、何の役割も果たさないのに、道具を降伏への往復キップと勘違いしてしまった。

 道具は、わたしたちの生活を確かに「便利」にするが、生命を「幸福」に導くものではあり得ない。そこに大きな誤算があった。道具は、あくまで道具に過ぎないのだ。ところが道具に価値観を見い出した時から、現代人は、便利と幸福を混同してしまったのである。この、混同を如何に多くの人が混同していることか。
 そして混同の誤謬(ごびゆ)は人間の生命を歪め、生命を歪めているのではないか。
 今こそ、現代人は自らの心の不幸と貧弱さに気付かねばならない。