福智山・山行きと強健術 2

●人間の躰は食の化身である

 
人間の躰(からだ)は食物によって作られます。人間の躰には「」の基本構造があります。赤血球は腸内で造られ、その赤血球が、やがて体細胞へと分化して行く。この一連の流れを説いたものが『腸造血説』です。

 則(すなわ)ち、人体の中では、の変化や発展は絶え間無く起っており、これが人間の躰の基本構造なのです。
 これを更に具体的に言うと、食物が消化される事により、腸壁の腸絨毛(ちょうじゅうもう)で赤血球母細胞に作り替えられます。その赤血球母細胞は、腸内から放出され、血管に送り込まれて赤血球となり、これが全身を巡って、躰の総ての細胞へと変化・発展して行くのです。

 更に、血球から体細胞への変化・発展の「分化」は、組織細胞の処に辿り着いた赤血球や白血球は、その周辺の体細胞から強力な影響力を受け、あるいは誘導され、その場が肝臓ならば肝細胞へ、脳ならば脳細胞へと順応し、分化を遂げて行くわけです。

 組織細胞に辿り着いた赤血球や白血球は、その周辺の体細胞から影響や誘導を受けて、やがて自分の役目を終えれば、崩壊した体細胞の穴埋めをしたり、障害を受けて壊れた組織の修復にあたります。
 このようにして血球から新しい体細胞が次々に造り出されるのであって、現代医学や生物学が教えているような、細胞分裂は、実は起っていないのです。

 人間の人体は基本構造から図にすると、次のように言い表せ、三重の同心円として描く事が出来ます。

食→血→体の生体における基本構造。人間の躰は「食物の世界」は「血液の世界」に展開され、それは更に「体細胞の世界」へと発展して行く。

 食べ物は、、まず躰(からだ)の中心部である腸に入ります。それが腸壁に取り込まれる事により、血管内を駆け巡る赤血球に変えられます。そして更に、本体である内臓・筋肉・骨・皮膚などの総ての組織器官を構成する体細胞へと発展して行きます。

 私たちの躰は、食が血になり、血が人体を造っているのです。したがって、躰の大本の素材は「食物」ということになります。こうして考えて来ると、人体とは、まさに「食物の化身」であると言えます。
 この事から得られる結論は、私たちが日々取り入れている食事の内容を正せば、健康状態は必然的に良くなると言うことです。


【白米やパン食、食肉などを止めて玄米を正食にする】
 日本人は食生活が欧米化された為に、動蛋白や乳製品が非常に多く食卓に並ぶようになり、こうした、日本人には不適切な食べ物を食べて、これまで日本人には存在しなかった病気が殖(ふ)え始めています。

 こうした病気の発症の裏には、主食も「米」から、「パン」に変わり、欧米食が花盛りになったことが起因しています。そして、こうした日本人向きではない、食事をすることで、これまでなかった病気が蔓延(まんえん)しているのです。

 どこの病院に行っても、外来患者で溢れ返り、病院は大繁盛です。
 かつて病院は終戦直後から昭和30年代にかけては、閑散(かんさん)としたものでした。それだけまた、当時は生きる事で精一体であり、自然治癒力は旺盛の状態にあって、日本人は健康であり、日本人の食生活も間違っていなかった事になります。

 ところが昭和30年代後半から、日本は高度経済成長の波に乗り、日本人が等しく裕福な食生活にありつく事になります。この裕福な食生活は、欧米化する事で豊かさが満喫できると言う、欧米型の食生活の模倣で、やがて日本人は「一億総中流」の意識を持ち始めます。しかしこの意識は、奇(く)しくも、病魔に魅入られると言う悪魔の誘惑だったのです。

 今日もその延長上にあります。また、多くの日本人は自分の直ぐ横に、肉眼では見る事の出来ない悪魔や死神が寄り添っている事に気付きません。俗界人が病魔に襲われ、バタバタ斃(たお)れて行っても、その原因を考えようとしません。そしてやがて、自分がその病魔に魅入られ、死神と手を携(たずさ)えて地獄への直行便のキップを買ってしまうのです。

 こうした不幸現象から逃れる為には、やはり食の改善が必要です。基本的には、良質の玄米を主食にし、それに旬の野菜を加え、海藻類や、動蛋白としては小魚や貝類を摂るようにしなければなりません。こうした食餌法を、『夫婦アルカリ論』では「正食」と云うのです。

 「食」を誤れば、人間が「道」から外れることになり、この外れたことに付け込んで、種々の病魔が襲って来ます。そしてそれは、何も病気だけではありません。
 怪我や事故、争い事や不調和などが起り、あらゆる不幸現象が姿を顕わします。これは「道」から外れた為です。

 道から外れれば、人間の持つ霊的神性は曇らされ、霊的波調は粗(あら)くなって、「穢(けが)れ」が積み重なります。穢れを祓(はら)い清める作用として、病気や怪我などの不幸現象が起るのです。これは人間に発した警告です。
 私たちは、この警告を素直に耳にしなければなりません。


【腹一杯食べないと病気が治らないという妄想】
 年中病気をして居る人で、何でもよく食べる事により、病気が治ると信じて疑わない人が多いようです。
 また、固定観念として、「食べないことは悪」と信じて居る人も少なくありません。そして、病気を治す為には、「腹一杯食べて、滋養を付け、それで元気になる」と、こうした図式に縛(しば)られて居る人も少なくありません。

 つまり、戦後の現代栄養学が持ち込んだ食思想は、病人ほど何でもよく食べて、滋養を付け、これによって元気になるという考え方を日本国民に植え付けました。しかし、果たして現代栄養学の思惑通りに、病人の数は現象したでしょうか。
 食べ過ぎて、日本中、どこの病院も病人で溢れ返っています。食べ過ぎは、「不健康の元」だったのです。

 それでも美食家たちは、食べる事への執念を捨てません。明らかに食べ過ぎであるにも関わらず、美味しい物と聞けば、彼等は何処へでも押し掛けます。また、これに一般人も右へ習えして、食物屋の前には長蛇の列を作って、何時間でも並びます。
 そして、こうした流行に乗せられている人の多くが、止めどもなく肥(ふと)り、ちょっと下向いただけで、もう息切れがしてしまう無態(ぶざま)な体躯(たいく)になっています。誰も彼も、40代以上の初老の多くは、狭心症状態にあります。僅かな衝撃で、心臓部に起る激烈な疼痛(とうつう)発作を起してしまいます。

 心臓への血流が妨げられているにも関わらず、更に驚くべきことは、こうした狭心症持ちの中・高年者が、美味しい物の店の前に、若者と一緒に列に混じり、長蛇の列に加わっていることです。行列に並ぶ中・高年者の体躯を見てみますと、膝が悪くなり、腰が悪くなり、股関節を傷め、坐骨神経痛の病気持ちで、心臓までもが悪くなり、故障だらけの躰をしながら、まだ「何かを食べたい」「喰(く)い足りない」と美食への「食い道楽」を目論んでいるのです。
 いったい「何が喰い足りない」のでしょうか。

 そして、こうした老若男女を問わない食通(グルメ)の意見は、「痩せたら死んでしまう」という強迫観念で、ひたすら食べ続けるのです。喰っても喰っても喰い足りません。
 その上に「美味しい物を食べれば元気になる」という、全くの妄想を抱いています。

 果たして、美味しい物を食べれば元気になるという事は、本当でしょうか。
 その理由は、スポーツマンや格闘技選手が、試合直前にわざわざ食事をするかどうか、これを確かめれば一目瞭然です。美味しい物をたらふく食べて、それで元気になり、これを信じて、試合をする選手がいるでしょうか。
 拳闘家たちは、試合の数日前から、食べ物を退け、減量して、水も肥るので飲まないと言う厳しい生活を実行します。

 これは食べる事により、内臓に負担がかり、気力も注意力も散漫になって、集中力が低下してしまうからです。
 人間の躰は、体内に食物が入りますと、消化器、肝臓、腎臓など様々な器官を総動員して消化作業に懸ります。また、人体のバランスとして、激しく躰を動かしたり、闘ったり、考えたりする方の集中力は弱りますから、必要最低限度の食物を摂ることは大事ですが、満腹状態や腹八分と云った状態は、決して感心できることではありません。もっと少なめの「腹六分」が理想なのです。

 食べ過ぎと言うのは、一種の「盗みの罪」に相当します。したがって、食べ過ぎている人の運勢も、盗みを働いているのと同じですから、運は好転することはありません。自分の必要とする以上に食べ過ぎ、その結果、肥(ふと)るのです。

 「肥る」と言うことは、「盗みの罪」で躰が重たくなり、自由が利(き)かなくなって、それが起因して様々なトラブルを起してしまうのです。
 人間の躰と言うものは、現代栄養学や現代医学が言うように、成人なら、一日のエネルギー摂取量は「一日1200Kcalが最低である」と言われていますが、これには全く科学的な根拠がありません。一日、何千Kcalも摂取してみたところで、消化・吸収できなければ、何の意味もないのです。

 また、自分で健康と信じて居る人でも、摂取したものが、どれだけの消化力で、どれだけ吸収され、どれだけ排泄されるか、こうしたことに無関心です。
 人体と言うのは、まさに「収入の部」と「支出の部」のバランスシートのようなもので、この収支はバランスが保たれていなければならないのですが、貸借対照表の関係を、多く人はすっかり忘れてしまい、摂取することだけに心を奪われ、美味しい物と聞けば、何処にも押し掛けている有様です。
 そして、この行為は、自ら死に急ぎのレールの上を驀進(ばくしん)している姿ではありませんか。


【生・老・病・死の「老」について】
 人が、「老いる」とは、一体どう言うことなのでしょうか。
 人は長い人生を生きて来て、就業の時期を終え、隠居して、晩年の「死」を目前に控えた「老」の状態に入ると、現代では何故か、アルツハイマー型痴呆症のような「ボケ症状」が訪れます。

 では、人間は何故ボケるのでしょうか。
 60歳を過ぎると、三人に一人が高血圧症を患い、70歳を過ぎると四人に一人がボケると言われています。
 ボケは大きく分けると、アルツハイマー型痴呆症と、ある程度治療が可能な脳血管性痴呆症の二つに分けられます。

 アルツハイマー型痴呆症は、脳の大脳皮質が萎縮(いしゅく)する原因不明の病気であり、60代から70歳過ぎの高齢者に多く見られます。また、これらは女性に多いと言うのも特長であり、知らぬ間に症状が進行していたということもあり、発祥時期が多くの場合見逃されます。

 また、脳血管性痴呆症は多発性の小梗塞(しょうこうそく)によって生じるもので、50歳半ばからその兆候が現れます。日本では、このタイプの痴呆症が全体の痴呆症の約50〜60%を占め、動脈硬化や高血圧症、心臓疾患や糖尿病が引き金となって起ります。

 こうした発症の現実を考えますと、成人病を予防すれば、必ずしもボケ予備軍の中には入らずに済むと言うことです。特に高血圧や動脈硬化が予防でき、あるいはその兆候を見せ始めた人でも、まず血圧を正常に戻すことが出来れば、ボケ予備軍からは離脱できます。

 もっとも簡単で、効果的なのは、大気の淀(よど)んだ下界から一旦離れ、大気の澄んだ、綺麗な山頂に一時的に移動して、ここで「腹式呼吸」を遣(や)ると言うことです。
 血圧の高い人は、山頂で10分間深呼吸をしただけでも、血圧は40ほど下がります。

 呼吸は人間の躰に不思議な力を与えます。実際に山頂に立って、自分で深呼吸してみれば、自分が今まで下界でどれだけ浅い胸式呼吸をしていたかが、気付かされます。脈が速くなったり、血圧が高くなるのは、浅い呼吸で、呼吸の仕方が胸式呼吸であるからです。浅い呼吸は吐く息も弱く、その為に生きる力が非常に弱くなっています。

 これを恢復(かいふく)させる為に、まず、大気の澄んだ綺麗な山頂で、下界の汚れた重い空気を大きく吐き出さなければなりません。そうすれば、次には自然に大きく吸わなければなりません。大きく吐く、そして大きく吸う。呼吸術の稽古とは、ただこれだけでいいのです。

 吐いたら、勝手に吸っている。この事だけを知るだけでも、呼吸術の稽古になるのです。
 少しずつ呼吸の仕方が変わってくれば、その人は、呼吸によって人間が新しく変わります。瑞々(みずみず)しく見えて来ます。血圧の高い人は、この大きく吐き、大きく吸う、呼吸術を覚えただけで、40は下がってしまいます。何も難しい事はありません。普段の、本当の人間の姿に戻るだけなのですから。

 これが出来るようになれば、やがてアルツハイマー型痴呆症はおろか、ボケ予備軍からも、足を洗うことが出来るのです。


【死ぬ前になって、慌ててからは遅い死の意識】
 人間は、決して死から免れる事は出来ません。生まれたからには、必ず死ななければなりません。人間の「生」には、常に「死」が同居しているのです。したがって、人間は死ぬべき存在であり、この存在が生きているということは、まさに奇蹟に他なりません。奇蹟は、天命によって、人間が生かされていという現実があります。

 生きる因縁があるから、人は生きているのです。生きる因縁を失えば、直ちに死ななければなりません。自分がメシを食うから生きているのではなく、メシを食う運命を背負わされているから、天命より生かされて生きているのです。そこには「生きる因縁」があります。

 つまり、「より善き死」を得る為には、よく生きなければならないのです。そして、人は死を迎えるにあたり、「死の荘厳」と云う、死を目前にした人の臨終での態度が必要になります。
 死は、地上の人類が、「死」と言う現象を知る知らぬに関わらず、時代の古今を問わず、洋の東西を問わず、あるいは長幼を問わず、性別を超えて、等しく平等に課せられた命題です。

 人の生と同じく、人の死は、善きにせよ、悪きにせよ、一切やり直しが利きません。「生」も一回限りのものであれば、「死」を迎える臨終も一回限りのものであり、やり直しが利かない上に、如何程心の準備をしても、追い付くこともなく、何の用意もできないまま、死ぬ時期を迎えた人には、突然襲い掛かります。

 こうした意味で、現代人は余りにも無防備で、何の用意も、何の心構えも出来ず、分かりきったようで少しも分からない状態で死んで行きます。しかし、分からぬからと言って、遠慮なしに死を迎える人も、また少なくないようです。

 では、いったい死とは何でしょうか。
 これは生の終止符です。生命の総決算です。したがって、人の世の一大事が、実は「死」なのです。
 しかし、これを心から納得して死に就く人は少ないようです。
 人間最後の、最高の欲望が、「生」に執着する「生命欲」であるとするならば、その断絶を迫るものが死であるわけですから、死を迎え、死に対する悲痛が、最も強くなるのも当然の事です。

 もし、人間の人生にとって、死が人生の最大の悲痛であるならば、人間はあらゆる努力を払って、悲痛なる死を乗り越え、これを克服しなければなりません。人類の努力は、「死の超剋」に向かって、払われるべきものでありましょう。

 何故ならば、死こそ、人生の一大事であるからです。そして、それを意識することによって、死をもって人生の終わりにするのか、また、新たに生まれ変わる為の再出発と取るのか、そこで人の死に対する考え方の明暗を別けているようです。

 一般に「死」は、生の終焉(しゅうえん)でないと云います。魂は永遠であると云います。仮にそうでなくても、「生」は永遠であり、霊魂は生き続けるという観念を持つ事が、死者や死に逝(ゆ)く人への贐(はなむけ)であり、また人情であるかも知れません。

 生命は「玄妙」なものであります。したがって、「死」を以て、生の終わりとするから、これに人生の成果の一切が懸(かか)っているように映ります。そして実は、死は生の終焉でないとも云います。更に、これを知る為には、「生」の本質を見抜かねばならないと云います。

 生きていると云うことは、「形をとる」ということで、これが成長するに遵(したが)い、変化すると云うことなのです。則(すなわ)ち、変化とは「現象」であり、現象を起すと言うのが現象人間界の実体です。
 そして、こうした現象の背景には、必ず、隠れた「幽玄(ゆうげん)」なる他の側面があります。

 現象とは、生と死の表裏一体の関係から生まれ、本来、死すべき存在が生きていると云うことです。本来は非存在であるはずのものが、存在していると言う「現象」です。これは「顕われの反面」と言えるのではないでしょうか。
 つまり、人間が生きていると云う現象は、奇蹟の連続であり、ここに天命より生かされていると云う現実があります。

 「天命より生かされている」という現象は、実は人間の肉の眼で確認することが出来ません。「生かされている」という現象は、無形であり、常住であり、一見不変なる一面があって、その反面として「生」が存在しているのです。
 私たちはこの現実を素直に認め、ただ「死」から逃げ回るだけの奔走に時間を費やしてはなりません。

 本来こうして考えて来ると、この現象界には、はじめから「生」み「死」も無いことが分かります。しかし、形に捉われると、これに気付かなくなります。
 人間は「形」に捉われ易い生き物です。
 例えば、大海原(おおうなばら)を見る時、波だけに、風だけに関わったものとして大海の現実を視る場合、末端の変化だけに捉われていると、大海全体が分からなくなり、あるいはそれに大気が関わっていると言う現実を見落とします。

 人間の生死(しょうじ)もこれと同じ事です。「生」の全体像を掴んでいないから、「生」の本質が分からず、したがって「死の世界」あるいは「霊的世界」が感得できません。
 一般に霊的世界などと言うと、一般人の意識には「非科学的」なものと映ります。非科学の根拠としては、実際に眼に見えないからです。眼に見えない不可視世界を上げているからです。

 現象界の一切は波動によって起ります。更に「波動の研究」等と云えば、これ等は、非科学的なものへと映ってしまうようです。しかし、これは未(いま)だに解明されない、三次元科学では「未科学のジャンル」であり、決して非科学的なものではありません。
 「死」も、一つも眼に見えない現象であり、その後の意識も、眼に見える物ではありません。

 二十世紀の科学は、「眼に見えないものを切り捨てて来た前科」を持っています。しかし、こうして切り捨てて来たものは、実は未科学の分野に含まれるものであり、近年は物理学の範囲で、量子力学が「見えない心の糸口」を掴みかけたところです。

 しかし、現代医学は「見えない心」を探索する意識や認識が希薄です。そして、「未科学」をオカルトと捨て置く実情があります。
 現代医学が、これに真摯(しんし)に取り組むのは、もっと先のように思われます。したがって、一般人が、悩みの一つとして掲げる、「死に対する恐怖」も解決の糸口を見い出していません。ここに人の死を危うくする、不成仏の現実があります。

 この世は意識や想念によって創り出された、心像化現象の賜(たまもの)ですから、意識や想念が狂って来ると、そこに顕われる「現実想念」も狂いを生じます。つまり、実際には無いはずの「地獄想念」までが出現し、心の中で、地獄までもを作り出してしまうのです。

 繰り返しますが、この現象界には、本来「生」も「死」もないのです。ただ在(あ)るのは、「今」と云う現実だけです。この「今」を見失ってはなりますまい。「今」の現実には、全く生死が存在しません。それなのに人間は、人生の問題として、生・老・病・死の「四苦」を掲げます。総てが思い通りにならない苦悩を抱え、その中で迷い、自我に固執することで、更に迷走を深めます。

 自我に固執すれば、当然のように迷うが生じます。頑迷が、苦悩を一層引き寄せます。
 例えば、これは今、坐骨神経痛によって、その疼痛(とうつう)に苦しめられ、歩行も儘(まま)ならない人が居たとします。この人は、日々疼痛に苦しめられ、苦から悩みが生じ、遂に「死ぬまで治らないのでは?」という想念の欠片(かけら)が、潜在意識に刻まれたとします。あるいはそれを打ち消しても、心の何処に、無意識の意識として刻まれたとします。

 こうした想念の総(すべ)ては、「弱気」から、「消極的」な思考から、発生していると言えます。そして、疼痛は辛い、歩くにも痛みが伴う。だから動き回らずに、じっとしておく。これは実に消極的な思考です。この思考が、更に苦しみの種となり、これは死ぬまで付き纏います。

 ここに解放されない愚行への選択があり、これに埋没する無慙(むざん)な哀れさがあります。そして永遠に抱く意識は不成仏の意識です。
 ここに、本来は存在しないはずの地獄想念を描き出し、地獄直行便のキップを手に入れてしまうのです。
 この意識は、肉体が滅んだ後も永続するから、実に恐ろしいものです。

 元々、人生は「苦」であり、「人生」イコール「苦」なのですから、本当はこれを素直に、総て受け入れ、現象人間界とは、こうした物だと理解すればよいのですが、自他を切り離し、垣根をつくって、これを隔絶しようと企てるから、苦しみが起り、悩みが起り、そこから迷いを派生させてしまうのです。

 人生は「苦しみ」と「悩み」と「迷い」の連続ですが、「わが這裏(しゃり)に生死なし」と感得した時、人は一気に「死」から解放され、非存在の現実を素直に受け入れる事が出来るのです。
 つまり、生死の問題を解決するには、「いま私は、此処に生死など持っていない」と観(かん)じた時、一切の苦悩から解放され、囚(とら)われている柵(しがら)から解放されて、迷いも消滅してしまうのです。

 これは登山した時の、頂上に辿り着いた、「あの爽快な感覚」とよく似ています。つまり、何事も考えずに、一心に頂上に向かう、あの姿は、実は生死を超えた心の想念がつくり出した「歓喜」だったのです。



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