●歩く事で、晩年生活からボケを追い払え
「自分とは何か」ということを考え続けられない人は、確実にボケの現象に見回れます。また、アルツハイマー型痴呆症のようなボケ現象も、「自分は、なぜ生まれて来たのか」を考え続けることができない人に多く発症します。
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▲ある時、ふと暮れ泥(なず)む夕焼けを見て、今まで忘れて居た事を思い出す人は多い。それは過去の哀愁であったり、切ない心の裡(うち)であったり、あるいは少年の頃の夢に描いた理想境であったりする。私たち人間は、確かに心は柔軟性をもって、しなやかに躍動していたのである。明日への希望に向かって。
しかし、人は「しなやかな躍動」を失った時、ボケの病魔に取り憑かれる事になる。 |
人間は定年を迎え、晩年、年金生活に入ると、若い頃、一生懸命(いっしょうけんめい)汗水を垂らして働いて来た人は、多い人で、月額20万円前後の年金を手にする事が出来ます。これを夫婦で併せると、月額40万円を超える人もいます。老後から、死に至るまでの生活設計は、実に安定し、また安泰でもあります。
何の心配もなく悠々自適(ゆうゆうじてき)の隠居生活が送れ、その余生は実に安定・安泰です。ところが、こうした状況の中にも、身体的に思わぬアクシデントが派生します。
不慮の出来事や事故、災難や奇禍(きか)は人の世につきものです。それは安定や安泰からの対価として、自分では予期しない代償が払わされるからです。それが「ボケ」という現象の代償です。
特に、不安もなく、何も考えず、車に頼って歩かない人はボケます。晩年のドライバーで認知症(知覚・記憶・思考など、ものごとを知る認識程度が低下する症状)の老人を多く見かけるようになりましたが、車ばかりで移動して、自分では惚(ぼ)けていないと高を括(くく)った人に多く現われている症状です。
一方、何歳になっても、自分の足で歩く事を止めず、自分の働く仕事を持ち、それに使命感を感じている人は、ボケません。死のその日まで、使命感をもって仕事をし続けます。こうした人は、生涯ボケずに、死ぬその日まで、矍鑠(かくしゃく)とした精神をもっています。
「自分とは何か」を知る人だからです。
では、ボケなければ幸せなのでしょうか。知性だけを振り回しているだけの人間であると言う事が、結局ボケない要素であるとするならば、知性の鬩(せめ)ぎ合いを闘わせているだけで幸せなのでしょうか。
こうした現実が連続すれば、他人と対立して争うことになり、ハードな格闘が起り、とても、しんどくて人間など、やっていられません。
では、もっとソフトな知性を期待できないものなのでしょうか。
つまり、常に切迫感があり、知性を健全に働かせる、「修行の場」が、何処何存在していないのでしょうか。
人は、常に自分と向かい合う「修行の場」が必要なのであり、この条件下に於いて、健全な人間で居られることが必須条件になるのです。これは「場」を求めるものであって、格闘などで無益な殺生をする事とは違います。
しかし、心の中では、「日々戦場の心構え」くらいは持ちたいものです。激動の「現代」という時代を生きているのですから。
したがって、ボケとは、生活状態の安堵(あんど)から起る、「安泰病(あんたいびょう)」なのです。
人間は、若い時、自分が働いて年金を支払い、それが晩年、受給年齢になると、老後の生活に困らないと言う保証が確立された時、ボケ老人になる図式が見えて来ます。これが安泰を感じる条件となります。つまり、「ボケの始まり」です。
これは「楽」を感じる事であり、「苦」そのものの人生に於ては、逆転されて、まさに元凶となります。老後の生活は、60歳か、65歳から先がずっと安泰で、「安泰」の見通しが未来に反映された時、人間の生命活動には拍車が掛かり、その時点でボケが派生します。
また、車社会は、ボケを派生させる諸条件が揃(そろ)い、特に、足から蝕(むしば)んで行く事になります。脳溢血(脳出血)などで、半身不随になる人も、ボケ老人の考え方に似たところがあります。「苦」から「楽」へと現実逃避を図る意味では、同じ意識の上に立っています。
脳溢血は、脳の血管が破綻(はたん)して出血し、脳組織の圧迫・破壊を来す疾患です。高血圧症や動脈硬化によるものが最も多いようです。この症状は発作的に起ります。そして、頭痛・意識消失・悪心・嘔吐(おうと)・痙攣(けいれん)などを来し、出血部位により種々の神経症状を呈します。
また、予後は出血の部位や大きさにより異なりますが、しばしば半身不随などの後遺症を残します。一生、よく恢復(かいふく)したとしても、「ナメクジ歩行」が精一杯です。
更にこれに似た病気に、脳卒中があります。この病気は、脳の急激な血液循環障害による症状から起り、急に意識を失って倒れ、手足の随意運動は不能となることがあります。脳出血によることが最も多いのですが、脳塞栓(のうそくせん/脳軟化症)や脳膜出血などでも似た症状が起ります。
何(いず)れの病気も、偶発的に偶然が重なって起こるものではなく、目的論的に、あるいは決定論的に起ります。これらの病気を目的論的に云うならば、「“苦”から逃れることを目的に、何らかな形で現実逃避を企てた為に、これらの何れかの病気になった」と言えますし、決定論的に云うと、「脳血管障害の何(いず)れかの病気になる為に、“苦”から逃れる行為として現実逃避を図った」とも云えます。両者は何れも目的意識がある人間側から見たもので、本来は一つのものであったのです。
そして、「一つのもの」を考えた場合、ボケの現象もこれと同類項とまでは行かなくとも、“苦”から解放されて、安泰病から発症するのですから、「類似項」とは言えるでしょう。
総(すべ)て、「自分は、なぜ生まれて来たのか」ということを考えない事から起る、「報い」です。人は、この「報い」に襲われる時、そこにはボケが起ります。
では、「自分とは何か」とか「自分はなぜ生まれて来たのか」ということを考える「修行の場」は、一体何処なのでしょうか。
あなたの書斎でしょうか。あなたの寝室でしょうか。あなたの運転する車の中でしょうか。あるいは仕事をする机の上でしょうか。更には、瞑想をする静止状態のリラックス・ルームやヨガ道場や坐禅道場の中でしょうか。
これらは何れも、「静の状態」であり、人間の動物と云う条件を総(すべ)て満たしていません。人間は動物であり、「動く」と言う中に、「動中静」を求める生き物であり、この中にこそ、「自分とは何か」とか、「自分はなぜ生まれて来たのか」という、諸条件があるように思えます。
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▲「動中静」を求める徒歩禅としての修行の場。
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黙々と山路を歩く姿の中には、普段の意識を無意識に誘う効用があります。
この無意識は、「意識の高揚」に他なりません。無意識は、無意識である状態そのものを、意識する事は出来ません。無意識は、「魂の目」のみで捉(とら)える事の出来るものなのです。ここに「徒歩禅(とほぜん)」としての意義があり、歩く事や登る事の中に、大きな生命の躍動(やくどう)が感じられるのです。
この躍動は健康を促進し、健康を維持し、それでいて無意識を獲得する、日本人の山岳民族としての智慧(ちえ)が、この中に凝縮されているのです。
人は、今は若くても、歳月を経て何(いず)れ老いるものです。しかし、同じ老いでも、運動不足で醜く老いるのと、美しく老いるのとは分けが違います。
登山をすれば、当然ボケ防止にもなりますし、自然のおいしい空気やイオンなども沢山吸収する事が出来、これに変わるダイエットは他にありません。 もし、同じ運動量を上げるならば、ジョギング・水泳・サイクリングなどの有酸素運動を30分以上も、週に3〜4日続ければなりません。それに比べて、福智山ハイクは一回の登山で、それと同じ運動量に相当されます。
つまり、野山を歩き廻るトレッキングは、非常に効率の良い運動法であり、心臓と血管の強化が達成されます。また同時に、持続的に酸素を摂取しながら高山の麓(ふもと)を歩いたり、山頂を極めたり、大自然の風景などを楽しむことができて、心身に非常に良い影響を齎(もたら)すのです。
●心の傷を吐き出し、深呼吸をして体質を一新しよう
トレッキングで大事なのは、ただ物質的な装備だけでなく、「心の装備」も必要です。山行きに、ハッキリとした「目的意識」を持つ事です。
人間は、その人生に於いて、いつの時代か、何処かで、必ず「心の傷」を背負っているものです。これは過去の冥(くら)い因習から来るもので、こうしたものは大自然の中で、深呼吸する事で、吐き出して行かなければなりません。
ところが、普段、下界で暮らしている私たちは、これを吐き出す事が出来ず、トラウマと云われる「心の傷」を引き摺(ず)って生きています。その為に、心と身体が汚染され、短命に終る運命の陰陽が余儀無くされます。現代人は無意識の儘(まま)、自覚症状を持たず、運命に絡(から)め取られる生き方をしているのです。
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▲私たちは、一時的に下界を離れて、下界の汚れた空気を吐き出し、高山での新鮮で澄み渡った、新しい空気を取り込んで、肺胞の中の淀んだ空気を換気しなければならない。 |
私たちが普段、「運が良い」とか、「運が悪い」などという言葉を使いますが、これは心の汚れに反応した、「運勢の陰陽の反応」であり、運が悪い場合は、身体に取り込んでいる「空気」と、「食」に間違いがあり、運の良い場合はそれが比較的軽く、心と身体に余り影響を与えなかったと言う場合が、それです。
常に、運命に振り回される生活をしているのです。私たちは下界にいて、悪い空気を吸い込み、現代栄養学の云う、乳製品や動蛋白摂取の間違いに疑問を抱かず、常に、運命の陰陽に振り回されているわけです。
そして、こうした運命の陰陽に作用される元凶をつくるのは、その第一が「空気が汚れている場合」です。つまり、これが「酸毒化した空気」です。
私たち人間は、酸毒化され、空気が汚れている生活環境の中では、生きて行く事が出来ません。この認識が、いよいよ実感として感じられるようになり、これが浸透して来た場合は、心までもが汚染されます。トラウマが発生します。
今日の価値観は、まだまだ「眼に見える物」ばかりの、三次元的なものに振り回される現実がありますが、これからの世の中が認める価値観は、そろそろ「眼に見えるもの」から、「眼に見えないもの」へと移行しつつあります。
二十世紀は「眼に見えない心」などを切り捨て、唯物論が先行して、これを非科学と一蹴して来た時代であったのですが、二十一世紀の人間の意識は、眼に見える物から、肉の眼に見えないものへと移行が始まっています。
そして、近年は、「眼に見えない心」というものに焦点が当てられ、人間の本質を、もっとよく見詰めようという意識が盛んになって来ました。
眼に見えるものから、眼に見えないものへの移行の過程に、「呼吸」というものが考えられるようになりました。
人間の躰(からだ)の営みの中で、二十世紀はすっかり、人間が「呼吸する」と云う事が軽視され、公害を蒔(ま)き散らして、利潤追求に耽り、金と物と色に心を奪われていた時代でしたが、二十一世紀は、人間が呼吸をしている事を再認識するに至った時代であり、呼吸することの大事な理由が、重要視されるようになって来ました。
喩(たと)えば、下界にいて、呼吸の浅い人は「人間本来のリズム」を無くしています。また、これにより、病気になり、病院に行くのですが、病院では、人間の呼吸について、何一つ指導をする事はなく、肺胞内の換気を行うと言うことについて、これまで殆ど促す事はなかったのです。
医者の関心は相変わらず、珍しい病気ばかりに向いて、「木を見て森を見ず」の医療が行われて来たのです。
そして、人間なる生き物は、日々、自(みずか)ら代謝するものを排泄し、更に処理して行く宿命を持つ動物であったと言う事を、完全に忘れていたのです。
人間とは、躰(からだ)の中で絶えず変化が起り、自分の躰を自ら壊し、新しいものへと作り替えている存在だったのです。その代謝機能の第一が、実は「呼吸」だったのです。
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▲福知山山頂の澄み切った青空。この青空の山頂で、下界の汚れた空気との換気を行い、胸一杯、腹一杯の空気交換を行う。血圧の高い人は、これだけの深呼吸で血圧が40も下がる。
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下界の汚れた空気を吐き出し、新しい新鮮な空気と入れ替え、肺胞の中を、換気をしなければならないのです。汚れた空気を吐き出して、心身共にリフレッシュする必要があるのです。
現代人の多くは、いつも何かに慌(あわ)て、何かに怒り、何かに恐怖して、何かに気が動転し、セカセカと速い息をしています。いつも浅い呼吸で、深呼吸する事が出来ず、それでも一生懸命に空気を吸っています。しかし、それは行き詰まるような、世貪(どんよく)が齎(もたら)す下界の中の空気です。その為に、血圧が上がり、脈拍が上がります。
その上、筋肉も骨も硬化している為、躰全体が硬くなり、深く吸い込む深呼吸が出来ません。
何かに、秒単位で慌て捲(まく)る生活は、常にゆっくり呼吸する余裕を与えることがなく、寝ても覚めても、浅い呼吸ばかりをしています。そして浅い呼吸の胸式呼吸は、日常の生活テンポも慌ただしくさせ、せわしなくさせてしまいます。
早く食べる為に咀嚼(そしゃく)回数も少なくなり、早喰いをして、駅の階段を速く駆け上り、あるいは駆け降り、誰かと常に速く話し、不可解な流行語を喋り、いつも何かに追い立てられて、とにかく慌ただしい生活空間の中に生き、そして事故や病気などで、慌ただしく死んで行きます。一体こうした人生の、何処に価値があると言うのでしょうか。
こうした人生の過ごし方の間違いにも気付かず、頭の方だけに血の廻るような仕事に追われ、最早(もはや)こうなると、内臓を納める腹部の方に血が行かない為、便秘を引き起こしたり、上役のお追従と神経の遣い過ぎで、胃潰瘍(いかいよう)になったりします。
更に、足にも血が巡らない為、足に浮腫(むくみ)が来て、足そのものが動き難くなります。足が動き難くなると、筋肉は関節部が硬化し、足の動きが悪くなるばかりか、ますます頭に血が上り、些細(ささい)な事で激怒したり、未(まだ)だ来ていない明日の事に不安を感じたり、怯(おび)えたり、敗北感や絶望感を感じるようになります。
そして、こうした生活環境に追い込まれた元凶は、総(すべ)て、その人の浅い呼吸にあるのです。
呼吸する環境が悪く、その上、浅い呼吸をしているとなると、人体の生理機能も狂ってしまいます。一方、腹式呼吸による深呼吸を行うと、食べる時には、食べる事に集中でき、働く事には、働く事に集中できるようになります。注意散漫状態が、派生しなくなるのです。
脈もしっかりして来て、ビタミン剤や下剤や消化剤と云う、薬の飲用の悪癖から解放されます。
そして、私たちは、自分ではない誰かが、何かに頼ること自体が、人間の本来のリズムを狂わせていると気付くべきなのです。
何はともあれ、心と身体を洗濯する為に、私たちの「洗心錬成会」で、無理のない登山に精を出してみてはいかがでしょうか。
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