|
▲山が登山者に語りかけて来るもの。それは「生命の躍動」である。
|
●怪我や病気などの後遺症予防の山登り
怪我や事故の後遺症や、慢性化した病気などから克服する為には、「医者任せ」「治療師任せ」ではお話になりません。他力本願では、心が煩(わず)わされない「安住の地」は得られないでしょう。
恐らく一生涯解決する事なく、死ぬ直前まで、生の意識が失われるまで付きまとうでしょう。臨終(りんじゅう)のその瞬間まで、その刹那(せつな)まで、怪我や病気の術後の後遺症の痛みを引き摺(ず)り、あるいは慢性化した病魔を撃退する為に、投薬された薬の副作用に苦しめられながら、哀れな死を迎えることは疑いないようです。
例えば、怪我や事故で、腰椎や腰骨、寛骨(かんこつ)や股関節を、思わぬアクシデントで酷(ひど)く傷めたとします。これを治す為に、整形外科や柔道整復院、あるいは鍼灸師やその他の整体院などに頼り、ここで治療を受けても、後遺症の痕(あと)を引き摺(ず)るばかりで、殆ど治ることはないでしょう。
多くの現代人は、歳をとると、一つや二つの整形外科や柔整院を抱えて放浪するという迷信に騙されています。ここに他人任せの現実があります。
死ぬまで、坐骨神経痛から起るような、周期的に疼(うず)く「疼痛(とうつう)」からは解放されないでしょう。
それは「医者任せ」あるいは「治療師任せ」の、「決して治らない意識と想念」が先行しているからです。
今日における医療に、「患者の病気は治したいけれど、治せはしない」と言う医療側の現実があるようです。現代という時代には、「現代の黒死病」とも云うべき、慢性化した「現代病」の現実が横たわっています。
治らないまま、治せないまま、「生きざるを得ない」というのが、現代人に課せられた実情のようです。これでは、怪我をしたり、病気をしたりして居る人は、「生きる糧(かて)」を奪われたも同然です。しかし、これに抗して闘う人は少なく、「老化だから仕方がない」と諦めて、死ぬまで「生きる屍(しかばね)」を強要されて死んで行くことになります。
病気のモトになる元凶は、大半が「ストレス」です。そして、このストレスを生む元や、トラウマ(心の傷)が、過去の出来事に関係していることは誰もが知るところです。しかし、依存の意識が、こうしたものから解放させてくれません。
私たちの潜在意識の中には、遺伝的な情報が刻印されています。この刻印は、環境と共に刻々と息づき、刻々と生まれ直し、刻々と新鮮な自分として、新陳代謝を繰り返しています。
しかし、こうしている時はいいのですが、これが過去の情報のままで止まり、そこから動かなくなると、まさに心の傷となり「病気の病因」となります。ここに新現象として病気が発生し、あるいは過去の出来事の因習によって、怪我が発生します。
怪我や病気をする人は、こうした状況下に自分自身の身体と心が置かれ、「陰極まれば陽になり、陽極まれば陰になる運命の陰陽」に支配されて、種々の不幸現象に遭遇するのです。また運命の陰陽の支配は、運命学の見地に止まらず、東洋医学の教えるところです。
そして、怪我をする人や、病気をする人は、こうした不幸現象を、「あなた自身が作り出している」ということに殆(ほとん)ど気付いていません。それが意識的であるにしろ、あるいは無意志的であるにしろ、その一切に、関わらずです。総(すべ)て、起因は自分自身にあるのです。しかし、これを知りません。
自分自身で、怪我や病気の不幸現象を、自分で作っているという実情は、その非の責任が「自分自身にある」と云うことです。したがって、怪我をしたり、病気になれば、一切を病院に行って、医者から治してもらうという考えは改めねばなりません。
最初の応急処置的な事は、一時的には医療機関に頼らねばなりませんが、その後は、自分の責任において、怪我を回復させる、病気を回復させるという事に専念するのは自分自身です。この現実から逃避をして、「医者任せ」あるいは「治療師任せ」で逃げてはなりません。
自分が積極的に後遺症に挑(いど)み、慢性病に挑み、躰(からだ)ぐるみで、心ぐるみで、自然治癒力が発揮される状態に持っていかなければなりません。病気や怪我への挑戦を試みなければ、死を待つばかりとなります。黙って、消極的な、他人任せの回復を願っては、治るものも治らなくなります。
怪我をしたり、病気をしたりすると、多くの人は医者任せで、「病院で治してもらう」という意識が強いようです。また、心と身体、病気と健康は表裏一体になっているのにも関わらず、それをバラバラに考えてしまいがちです。
昼と夜は明らかに時間的には違いますが、しかし同根で、「同じ時間の輪」の中を循環しているだけです。
また、眼に見える物や、眼に見えないものがありますが、眼に見えないからと言って、これが表裏一体でないとは断言できません。したがって、眼に見えないものを科学的でないと考えるのは、間違いであり、未(いま)だに発見されない「未科学の分野」に入れられるべきものです。
したがって、病気が治らないという現象は、私たちが、実際に肉の眼で見る事が出来ない状態が発症しているのです。
つまり、病院では、あるいは治療院では、病気の症状が僅かながらに改善はされても、病気そのものは治らないのです。それどころか、副作用で悩んだり、後遺症に苦しめられたり、別の病気が発症して、病気が益々悪化する場合もあります。
これは病院や治療院で起っていることではなく、日本の医療そのものが、こうしたシステムで運営されているからです。
つまり、診てくれるのは、健康でない部位だけに限られます。
また、薬や外科的治療やリハビリなどの治療方法の選択肢が限られていて、医師や治療師と、患者も含めて、世の中全体に、「医者任せ」「治療師任せ」「病院任せ」「治療院任せ」の固定観念があり、誰もが此処から脱け出せずに居る事です。
●病気や怪我などの不幸現象は食事と密接な関係がある
今日の日本人の食べ物に関する健康法は、現代栄養学の支配下と指導下にあり、人間の不必要な動蛋白信仰や牛乳神話は大きく間違っています。
そして、この「食」の間違いが種々の病気を齎(もらた)し、また食の誤りが間接的な起因となって、判断に不注意や散漫を起こさせ、怪我を発生させる元凶となっています。
つまり、「運を悪くしている」のです。食と、運は密接な関係にあります。また、現代の飽食の時代に代表される、「食べ過ぎ」にも大きな問題があります。食べ過ぎるから病気になるのです。食べ過ぎるから注意散漫となって、ミスを起こしたり、事故と遭遇して、これを躱(かわ)す事が出来ず、大怪我を負ってしまうのです。
口から出るものや、入って来るものに気を付けなければなりません。これに無頓着になり、「何でも好き嫌いなく、一緒に食べよう」では、病気や怪我ばかりでなく、人間関係も悪化し、人間不信に陥ったり、自他離別の想念が生まれて、排他的になり、ここに争いや、訴訟や、ひいては戦争までが起こります。
人間の「食」と云うのは、単に個人の健康や運・不運を左右するばかりでなく、この間違いから、戦争までもを引き起こしてしまうのです。世界には、未だに戦争の火種が燻(くすぶ)っています。これは国家や世界の在(あ)り方の、健全ではない証拠と言えます。こうした健全ではない証拠が、天地大自然の運行までもを狂わせてしまうのです。
ここに宇宙の玄理(げんり)で云う、小から大に至る問題の根本原因が横たわっています。
では、これを解決するのには、どうしたらよいのでしょうか。
霊的食養道では、次のように教えます。
まず、「腹一体食べるのではなく、腹八分にとどめよ」と。しかし、腹八分でも完全であるとは言えません。健康維持を保って行くのならば、「腹六分」にとどめるべきです。食べたりないくらいが、健康には一番よいのです。
そして、残りの「四分」を自分以外の者に捧(ささ)げ、飢えて困っている人に奉仕してこそ、運もまた開けていくのです。これは食事を摂生し、養生を考える食餌法(しょくじほう)を実践する上では、重要な要となります。また食費は節約でき、体躯(たいく)には省エネ化された軽快な躰(からだ)が出来上がります。
鈍重な肥満体から、軽快な体躯を差し引けば、残るのは贅肉(ぜいにく)ですが、この贅肉こそ、「余禄(よろく)」というものです。この余禄分の品物や金銭を、貧困者に廻して、「メグリ」をよくする運命好転の循環を作り上げるのです。
これにより、「食を慎む心」が生まれます。貧困者に捧(ささ)げるか、あるいは神仏に食を捧げる事により、食に対する感謝の心が生まれます。つまり、「捧げる」という具体的な形を顕(あら)わすことが大事であり、要は、想念的な在(あ)り方が基本になって行きます。
私たちは、「捧げるからこそ、頂ける」という道理を忘れています。衣類も、住居も、土地も、あるいはマイカーや、総(すべ)て自分の物と思っている一切は、みな神から頂いたものではありません。貸し与えられているだけなのです。その証拠に、これらを墓場の中まで持って行くことは出来ません。
そして食べ物だけが、僅かに、人民に「生きる糧(かて)」として与えられているのです。
食べ物は、陽(ひ)の恵み、月の恵み、土地の恵みによって人間に齎(もたら)されます。したがって、食物を節して、多く頂くのではなく、これを自他の境目をなくし、捧げてこそ、運が開けていくのです。
現代人は、このような大自然の齎(もたら)す、尊い恵みに対する感謝の心を忘れています。ただ毎日を飲み食い三昧(ざんまい)に明け暮れています。そうした「病的社会」が、様々な問題を抱え、有効な解決策を見出せないまま、時々刻々と自己破壊に向かっていることは疑う余地がありません。
これに歯止めにかけるには、まず生物の食性を知らねばなりません。食養道では、「遠くて近いもの」を食せと教えます。「遠くて近いもの」とは、人間の性(さが)よりも、もっと遠い位置にある穀類や野菜を食べよと云うことです。
そして、「近いもの」とは、自分の棲(す)んでいる場所の土地で採れた食物と云うことです。これが「身土不二(しんどふじ)」の食思想を日本人に作り上げたのです。
●粗食・少食について
一日3食よりも、「2食」の方がいい。一日2食よりは、「1食」の方がいい。しかし、一日1食は、現代栄養学者の言により、「肥(ふと)る」と言われているのは、一日1食は、「喰(く)い溜めするから良くない」と言われています。
しかし、減食すれば、毎日一日1食分が三度の食事から、一回の食事の普通量から、確実に減るので、減った以上肥るわけがありません。
一日2食主義を実行すれば、一回分の普通食量が減ります。また一日1食を実行すれば、一日のうちの普通食分の二回分が減るで、三度の食事から一日1食となり、これが軽快な体躯をつくって行きます。
こうした差し引いた分の食事量が、一週間、二週間、一ヵ月、二ヵ月、半年、一年と続けば、食事の絶対量は確実に減っているのですから、軽快な体躯となり、その上に「省エネ体躯」となった上に、食事を節約できた分だけ、残りは「余禄(よろく)」となります。
一日1食を心掛けた場合、10日経ち、20日経てば、それだけ胃は収縮をはじめ、少食でも耐えられる状態となります。
一日1食が「肥る」としているのは、「溜喰い現象」が良くないとしているのですが、溜喰いをしてしまうのは、その人の心の弱さ、精神力の弱さがあります。これが問題となって、「溜喰い」が起るのです。決して一日1食が悪いわけではありません。
したがって、一日1食主義を実践することと、溜喰い現象に陥ると言うことは全く別問題です。
一日1食主義を栄養学の立場から言えば、何一つ問題はなく、肥ると言うことも、「心の弱さ」に絡(から)んだことです。もし、一日1食を実践して、二食分を食べなかった空腹感から溜喰いが起るとすれば、それは「心の弱さ」の問題となります。
精神力の弱さと、栄養学上の道理を混同してはなりません。
一日1食主義が肥ると言うのであれば、餓鬼に陥れられている発展途上国の人達は、一日に一食の食事も、食べられるかどうか分からない生活の中で人生を送っています。もし、一日1食主義は肥るのであれば、飢餓国に住んでいる人は、みな肥っていなければなりません。ところが肥るどころか、手・足は痩せ、腹が膨らんで、これは餓鬼状態にあることが分かります。
したがって、一食分の普通食量が一定ならば、一日1食主義が肥ると言うことは物理的に考えても、起こり得ません。
地球の南北問題に於いて、北半球に棲(す)む人は割合に裕福であり、南半球に澄む被地は貧困であると言われています。更に文明は、北半球に偏り、先進国の殆どは北半球にあります。
そして北半球に棲む、先進国の、階級的に中間層の人は、「喰い道楽」に陥る人が少なくないようです。
食道楽にある人は、あちらこちらを歩き廻り、美味しい物を求めて彷徨(さまよ)います。したがって、こうした徘徊(はいかい)する時間は、朝方よりも、昼間以降となり、特に夕方ともなれば、徘徊のピークとなります。そして食事時間は、夜遅くなり、午後九時過ぎから深夜に掛けての食事は肥る原因をつくり、内臓を傷めるばかりでなく、骨格的にも腰骨の関節を弛(ゆる)め、腰痛の原因ともなります。
椎間板ヘルニアという、一般には「ギックリ腰」と云われる腰痛捻挫は、夜の遅い夕食に発端します。夜遅く、居酒屋や深夜レストランなどで飲み食いをすると、本来締まるべき腰骨の間接が弛み、朝になっても回復しません。この「回復しない元凶」が実は椎間板ヘルニアであり、これを度々繰り替えしてしまいますと、慢性化して坐骨神経痛に発展します。
人間は食事をすると、内臓に食物が送り込まれる為、腰骨が弛んでリラックス状態を齎(もたら)します。しかし、夜の遅い夕食は、翌朝の起床までにそんなに時間がなく、腰骨が弛んだままで朝を迎えることになります。
朝の洗面の時、朝の出勤前の諸作業の時、この時間に「腰痛捻挫」が起ります。また、出勤して、会社のロビーで足を滑らしただけで、股関節が亜脱臼(あだっきゅう)し、坐骨神経痛の元凶をつくってしまいます。総て夜の遅い食事に由来しています。
夜遅く、飲み食い三昧(ざんまい)をすると、腰骨の関節が、弛んだ状態から締まった状態に移行するのに長時間懸り、朝起きた時も弛み放しです。この時に些細(ささい)な刺戟(しげき)が加わっただけでも、腰骨を傷めてしまうのです。
常日頃から、粗食・少食に心掛け、食べ過ぎないようにすると同時に、夜遅くの美食主義に走る傾向は極力避けなければなりません。
もともと人間は軽快な体躯(たいく)で生まれてきます。しかし、食生活の環境の間違いで、鈍重な躰(からだ)になって行きます。鈍重な体躯では、車社会ではそれなりに動く事が出来るでしょうが、もし、車も通れない処では歩く以外になく、また山地では、自分の足で登り下りをしなければなりません。
こうした場合、肥って鈍重な体躯になっていることは不利であり、登り下りの際に、膝、足頸、股関節、腰骨などに大きな負担がかかり、後遺症を引き摺(ず)る損傷を与えてしまいます。こうした愚から避ける為にも、「強健術」を学び、足腰を鍛練しておくことが必要なのです。長寿を全うする為に……。
|