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耐えることと活かすこと

 下手に廻って憂愁を宿し、慄々(りつりつ)と頭を下げる苦労を積んでいくと、それはやがて、その人の人格形成の血となり肉になっていく。耐えることを学ぶからである。それはまた、運命をダイナミックに流動させる原動力になる。活かすことを学んだからである。


愚人からの評価

 自分の評価が低いと嘆く人がいる……。しかし、この世の中は愚人によって動かされている。したがって愚人の評価では、愚なる評価しか出来ないものである。
 非凡が、愚人から「仕事の出来ないやつ」と評価されて怒るようでは、更に愚人であろう。
 愚人から評価されて、「出来ないやつ」であって、何の不都合があろう。


単純なものが複雑化された時代

 個々人が狭い分野の専門家として扱われる時代は、その専門分野はますます細分化され、狭められ、ミクロ的になって、分裂し、然も窮屈になる。
 かつて一億総有名人として持て囃(はや)された時代は、遠い過去のものになり、当今は「こだわる」ことが美徳とされる一億総専門家の時代である。
 狭く、深く、その狭隘(きょうあき)の中で、一芸に秀でれば、誰もがスペシャリストである。そして、肝心な全体像が失われていく。
 総専門家が群れ合う時代、マクロ的な判断を下す見方をする人が、少数派に限られるようになった。
 当今のプロとは、その背景に、かつての単純明確なものを一掃して、単に複雑化させただけである。


人間通の噺

 教師として教える者は、生徒として学ぶ者の教学の量と質を変える。しかし、教える側は、学ぶ側の十倍の知識量と見識力をもっていなければならない。この量と力があってこそ、一子相伝(いっし‐そうでん)の秘事である。つまり、人に教えるということは、「人間学」なのである。
 人間学には、師弟ともども平等感が存在する。
 それは「学ぶこと」と「問うこと」を共有することにおいて、不平等感が払拭され、師弟の相互間には、同じ図式のうえで相乗の効果を齎すからである。
 学んで問うことは、また問われることである。この遣り取りは、人間が好きで、「人間通」でなければ出来るものでない。


扶け合いと凭れ合

 「富者」対「貧者」の比率はユダヤ黄金率で22:78(28:72とも)といわれる。貧者の方が圧倒的に多い。しかし、真当(ほんとう)に貧しいというのは、扶(たす)け合う心を失った者であり、また、この世の中が人同士の凭(もた)れ合で成り立っていることを知らない者を言う。


老巧の噺

 老練という言葉がある。練れた人のことを言う。多くの経験を積み、なれて巧みなことで、老巧ともいう。
 老巧という言葉を酒に置き換えれば、老酒(ラオチュウ)だろうか。呑めばピリリと利いて、然(しか)も直ぐに酔いの廻る酒でない。練れた酒は舌の乗って、練れた味があり、呑めば呑むほど陶然(とうぜん)となり、それは心地よいものである。
 また盃を置けば、ほのぼのと醒(さ)めるような感覚がする。
 人間で言えば太老(たいろう)であり、老大人(ろう‐たいじん)といえばいいだろうか。長老然としている。
 練れた老人は、激昂したり、銷沈して悄気(しょげ)易いタイプの老人でない。先ず、世故に長(た)けている。安易に喜怒哀楽を顔色に顕さず、疾言遽色(しつげん‐きょしょく)せぬ老練な人を意味する。
 老いるとは、歳を取る、老(ふ)けることには違いないが、その背景には「馴れる」があり、「練れる」がある。故に、太老を「老巧」というのである。


窮乏の只中

 「窮(きゅう)すれば則(すなわ)ち変じ、変ずれば則ち通ず」
 『易経』の一節に出てくる言葉である。
 窮地に立たされ、困窮して、窮し、更に窮して窮して、ドン底に堕(お)ち、窮乏の只中にある。こういう極致に立たされて、人は始めて変化に見舞われる。その変化が生じたとき、既に通ずる道が出来ているのである。懦夫(だふ)が勇者に変わる瞬間である。


忘の噺

 人間は誰しも、苦境に立たされ、生死の明暗にあるとき、心の支えになる言葉を必死になって探し求めるものである。また、死と対決するようなときにも、生命に緊張を齎す言葉を探すものである。
 この場合、恋愛小説に出てくる甘い言葉ではなく、ゴツンと手応えのなる言葉を需(もと)めるものである。
 老荘では、しきりに「忘(ぼう)」の徳を説くのはことためだ。
 斯(か)くして、是非(ぜひ)を忘れ、恩讐(あんしゅう)を忘れ、生・老・病・死すら忘れる。これこそ、実は衆生(しゅじょう)にとっては救いなのである。


禍福の選択

 禍(か)と福は糾(あざな)われている。その縒(よ)り合わせだが、禍と福が交互になっているとして、福を選択する場合は、より重いことにこしたことはなく、禍は出来るだけ軽い方がいい。多くの人の抱く人情だろう。


天地まぜまぜ

底辺の一劃(いっかく)に安堵(あんど)を覚え、下が一番いいなどと、世の中を甘く見ていると、そのうち痛い目に遭(あ)う。
 世の中は、なにも底辺だけで構成されているのではない。底辺が安堵できるのは、上に良きリーダーがいるからである。そのリーダーがいるからこそ、世の中が円(まる)く治まるのである。
 「民主」の名の下(もと)に、底辺ばかりが騒然と蠢(うごめ)くのであれば、烏合の衆であり、あとでとんでもない衆愚の世の中が出現する。更に恐れるべきは、この状態に極端化すれば、必ず「天地まぜまぜ」になるのである。上下左右、つまり天地の釣合が壊されるからである。良きリーダーがいてこそ、デモクラシーが成り立つのである。