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真当の幸福

 自立した個人は、自立した社会にまで発展しなければならない。しかし、個人主義を中心としたマイホーム主義では、自立した社会までには発展しない。そもそも個人と社会とは、その目的が違うからである。
 自立した個人とは、一人ひとりが自覚した個人であって、始めて社会の発展が見込まれる。
 個人主義に奔り、自分ひとりが幸せになって、物質的な成功者として君臨したところで、全体が不幸の只中にあっては、それは仮初(かりそめ)の覇者(はしゃ)に過ぎない。
 真当(ほんとう)の幸福は、他人(ひと)も幸福であって、自分も幸福であるという構図と、その条件が揃ったときに真当の幸福を感じるものである。


生命の火

 ボケる精神構造……。
 人間は歳を取っていく生き物である。老いれば青少年期のように、肉体的にもタフでなく、烈しい訓練にも耐えられない。肉体が蹤(つ)いていかないからだ。同時に記憶力も退化していく。更に、弛(ゆる)んで「緊張する」ということも少なくなる。
 しかし、同じ高齢者でも、順風満帆で、跡継ぎもいて、総(すべ)てが良き人生だったと楽観するのは如何なものだろう。
 老いても、普段は「程よい緊張」が必要である。
 人間は安堵感が長らく続くと、その上に胡座(あぐら)をかいてしまう生き物である。この長らくの安堵感が、一つはボケを誘発する。つまり、人間が常に程よい緊張が失われると、ボケる生き物なのだ。
 世間では、ストレスはいけないと言う。ストレスがガンなどを誘発する病因となると言う。しかし病因になるからと言って、逃げ廻ってばかりいては、ガンは精神的には追い掛けてくる病因を潜在している。
 逃げれば逐うというのが、この世の現象界の相対法則である。
 そして、相対法則の中に、人生に張り合いを無くすと、ボケる。失望すると、ボケるという現象が起こる。失望が進行すると、肉体より、精神に異常を来すからである。
 人間は病気では死なない生き物である。人間が死ぬのは寿命である。これは誰もが、見逃す多くの盲点である。
 人間の寿命は、生命(いのち)の火を灯すとともに、失望から絶望に変わったとき、その火は水を浴びせられて吹き消される。生命の火が寿命という所以(ゆえん)である。


碌でもない世に中を生きるには

 この世は「碌(ろく)でもないところ」である。碌でもないだけに、この世を生きるには、創意工夫が要る。工夫して、愉(たの)しく生きる以外ない。
 ここに生き方の創意と工夫がある。この世が碌でもないところだからこそ、また生きる愉しみがあるのである。


老後の話題

 老いてからの愉しみは、取り敢えず読書だろう。読書の習慣は、若いうちからつけておくといい。また、長年連れ添った伴侶も、読書習慣のある人なら、教養に関する話題は事欠かない。
 ただ最悪なのは、例えば伴侶にした夫人が、若い頃、ただ可愛く、見掛けがよくて、アイドル歌手か、ファッションモデルのような人であっても、無教養なら、その亭主になった方の老後は、さぞかし哀れだろう。老夫婦間で、語らう話題がないからである。


怨根の噺

 人が意(おも)う怨根(おんこん)には根深いものがある。
 かの川中島の一節に出てくる「遺恨なり十年……云々」は、その情念の深さを顕している。そうした情念の風景には、爾来(じらい)その精神そのものが風土と化し、子々孫々まで受け継がれていく。
 怨みに深さは、一代限りではなく、何代も受け継がれていくのである。人からの怨みは、出来るだけ回避して、徳をもって他人に奉仕したいものである。


徳の力

 禍福(かふく)は糾(あざな)える縄のごとし……。
 想えば、禍福は紙一重の差である。右から検(み)れば善であっても、左から検れば悪となり、上から検れば吉であっても、下から検れば凶である場合がある。
 今日の福は、明日には禍(わざわい)の種のなる。
 斯(か)くのような、必然を乗り越えるために、まず人は信ずるものを持ち、信ずるものに己(おのれ)を慎んで、徳の力を得ようとするのである。


守るべき者

 独立独歩。自立主義……。
 他人(ひと)に恃(たの)まぬ強さは、孤独に耐え得る力の根元であるが、それでも人は独りでは生きていけぬように出来ている。それゆえ、信ずるものを得ようとする。
 その信するものは、ときには伴侶であったり、自らを不動にし得る勁(つよ)い信念である。
 また、信ずるものは、人によって異なる。
 例えば、男には必要であっても、女には不要のものであったりする。周囲を見渡せば、そういうものはゴマンと転がっている。
 しかし、共通項を挙げれば、人は守るべき者のために生命の火を燃やし、喩(たと)え孤独に追いやられようとも、わが信ずるところを目指すのである。


学問をする意義

 かの佐藤一斎(さいとう‐いっさい)はいう。
 「少(わか)くして学べば、壮にして為(な)すあり、壮にして学べば、老いて衰えず、老いて学べば、死して朽ちず」と。
 一斎は江戸後期の儒学者で、朱子学を奉じながら、一方で陽明学に傾倒し、陽朱陰王と評された人物である。
 著書の中で、特に『言志四録』は有名である。
 人は、学問をすると頑(かたくな)にならない。それは思考に別途の迂路(うろ)をもつことが出来るからである。また、その迂路(うろ)は「ゆとり」に繋(つな)がり、判断を修正できるからである。
 人間はもともと絶対的な存在でない。相対的な存在であって、妖(わか)いと判断を誤り易い。そうした判断の誤りを訂正するのは、年齢を重ねるという時間であり、この時間が誤りに気付かせてくれる。
 考えれば、価値観すら時代とともに変化するのである。今日の価値観は、明日に通用するものではなくなっている場合が多い。したがって、学問をすると、行動の意義において、独善的な独断と偏見を修正し、より正しいものへと近付ける。更に、そこに予見と客観性が生ずるのである。


繁栄の噺

 不誠実である者は栄えない。何事も真摯に実行して繁栄を観る。


一つのこと

 持続とは、長く一つのことを愛することで保たれる。これが継続されている条件において、愛することは廃(すた)れない。