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自分は死んでもいいと思う人間の本性

 誰かを救うために、自分は死んでもいい……。そういうと、実にバカげたことのように映る。しかし、そういうバカげたことが、時には必要なのである。
 かつて、オーストリアの精神科医フランクル(Viktor Emil Frankl)はそう思った。同国の精神医学者フロイト(Sigmund Freud)の弟子であった彼は、自分がユダヤ人であるために、アウシュビッツ強制収容所に送り込まれた。そこでフランクルが見たものがあった。
 師匠のフロイトは、常々人間と言う生き物を「性悪説」で捉え、そのように弟子達にも教えていたが、フランクルが見たものは確かに、理性や知性を失ったユダヤ人が、本能的に、あるいは無意識に同胞のユダヤ人を売り渡し、同胞の死んで逝く姿を見ながら、横で、平気でパンを食べる姿を見た。これは師匠のフロイトの言う通りだった。
 一方、同じユダヤ人でありながら、ごく自然に、自分の命を投げ出し、同胞の命乞いをするユダヤ人に何とか救助して、獄舎の檻(おり)から解き放そうとする奇特な同胞達も見た。
 そこに、人間の厳然たる事実を見た。これは、師匠のフロイトの言とは違っていた。違った人間の本性であった。


地位の決定

 今日の社会では自分の出身校で、社会的な地位が振り分けられている。しかし、出身校と学問は無縁である。


自然と無縁な生活環境

 現代社会は四方をコンクリートに囲まれた生活環境の中で暮らしている。そのうえ地面はアスファルトで覆われている。
 しかし、土や樹などととは無縁になってしまった人工的なものに固められた生活は、一方でストレスを増幅させ、都市化されていく生活環境が、様々な弊害を産み出している。その弊害は、人間を畸形化(きけい‐か)させているようだ。


人生の意義を見詰める

 長生きするだけが人生の目的でない。どう生きたかが問題なのである。人生の意義である。ここに着目する多くの点があろう。


乱世の徴

 世の中、言動が粗暴となり、表面だけが騒がしい「暴言侈傲(ぼうげん‐しごう)」ならば、寡黙重厚(かもく‐じゅうこう)でいく。
 私利私欲に奔(はし)るならば眼眸厳正(がんぼう‐げんせい)でいく。これを等閑(なおざり)にすれば、乱世の徴が顕われる。


秘すべきこと

 「色道大学」ほど卒業し難い学校はない。しかし、この道にも厳然たる掟(おきて)がある。
 もともと色恋は秘事(ひめごと)である。濃艶(のうえん)な濡場(ぬれば)は表に出るべきでないものである。秘すべきものが表に出て、公然とされる。異常なことである。
 当今は、自分の不倫相手の濃厚な濡場を手記にして、売り出した本が一万分以上のベストセラーになるから、世の中も変わったものである。しかし、この手記の公表者は、未(いま)だに色情の欲の中に溺れていることになる。


怨悪の噺

 人間は不思議なもので、「悪の不思議さ」からいえば、他人を苛(いじ)めた者は、苛めることに一種の快楽を覚える。この快楽が、以降も苛めがなくならない要因になっている。
 一方、苛められた方は、生命の危険を感じるほどの苦痛に襲われる。つまり、苛めた者の行為を怨悪(えんお)のなかに封じ込め、遺恨として保存することになる。
 怨悪(被害者)と快楽(加害者)は紙一重と言えよう。更に、これが逆転すれば、復讐(ふくしゅう)という名の報復となる。したがって加害者が、被害者からの報復を恐れる所以(ゆえん)である。結局、恐れるあまり、十重二十重(とえ‐はたえ)の防御策に講ずることになる。
 その顕著な例が、日本では『忠臣蔵』である。


期待外れ

 表面は魅力的でも、中身が違っている場合が多い。その典型が都市社会である。
 都市的な社会関係は、たえず親密と反撥が繰り返されている。更に、表面的で一時的で、非人格的である。


健康そうに見える噺

 健康であるよりも、健康そうに見えることが大事である。しかし、その条件として、制約されたり束縛されない自由が必要である。


真の情報

 危険な匂い……、危ない思想……などと、頭から毛嫌いする人が多い。
 しかし、である。
 情報と言うのは違和感を与えてこそ、真の情報と言えよう。
 何ら違和感も無く、すんなりと染み込んで、意図も簡単に受け入れられ、それに軽々しく相槌(あいづち)を打つような軽薄情報では、情報としての何ら価値も無く、また言葉を弄(ろう)して、わざわざ発表することもないであろう。
 ゆえに真の情報とは、いつも危ないものが付き纏うものである。