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恥じない生き方

 死後の世界が有るか無いかは別にしても、冥土(めいど)にいっても恥じない生き方を、生きているうちにしたいものである。冥土を「後世の人」と思えば分かり易いだろう。


順序の噺

 厭(いや)なことは先に遣る。そうすれば、後で厭なことが廻って来ない。


徳がないとは

 不運が何処までもつきまとう人は、せっかく廻って来た千載一遇のチャンスも見逃してしまう。徳がないからである。
 徳は物に重ねるのではなく、人の心に種(し)くのである。徳と言う無形のものは、物という有形の上に重ねても、積んだ形跡を残さない。
 つまり、心に徳を積まない者は、他人(ひと)から頼られたり、慕われたりしないのである。


名言を如何に読むか

 世に名言は多い。しかし名言も、読んで成る人と成らぬ人がいる。成る人は、名言に対して理解力があり、成らぬ人は努力して徳を修め、学ぶことを知らないからである。
 名言をいう人の言葉は、徳を介して理解できるようになっているからである。名言に蘊蓄(うんちく)を感じない人は、つまり真理を感得する感性に欠けているのである。
 ただ皋々こうこう/がやがやと騒がしく、世間風の風説に躍るさま)として、道理を知らねば、徳に降る力が何であるか、考えたことがないからである。


周期性の噺

 この世は相対界で、明暗を分けている。活かされている人と、亡ぶ人である。
 活かされる人は日々精進して、毎日同じことを、同じ時間に規則正しく行なうことが出来るが、亡ぶ人は「同じこと」ができず、行なったとしても不規則であり、これが、人間と自然との周期性(バイオリズム)を狂わせているからである。


見切りをつけられたときの噺

 人から見限られるとき……。
 それは、「あいつ」に物をいっても返答しない、反応を示さない、沈黙する、何をいっても同じ……というように、見切りをつけられたときである。
 世の中には、こういう「見切り」という意識が働いているが、見限られた本人は、それに気付かないから、怕(こわ)いものである。この怕さが分からねば、人としての怕さも分からないだろう。
 別の見方をすれば、「怕いもの無しの人」とは、他人(ひと)から見限られた人のことを言うのである。


理解度

 人は経験や体験によって、物事を本質を理解していくものである。


骨の折れる噺

 他人(ひと)から道を訊(き)かれて道順を教えるとき、教えた後に、「本当に分かったのだろうか」と考えさせられることがある。また、教える相手が老若男女によって、分かり方も異なると思うのだが、それはその人の持つ想像力においても異なるようだ。
 想像力の乏しい人に、道を教えることほど骨の折れることはない。


不始末の所在

 不始末を世の中の所為(せい)にする人は少なくない。
 世間は、子供の不始末は親の所為であり、児童や生徒の不始末は学校の所為にする。そして、ついには政治の所為にし、社会機構の所為にする。
 これは多くの場合、自分以外の誰かに押し付けることで、体裁のいい自分の責任逃れるなるからである。


いちゃもん

 自分に降り懸った苦痛や禍は、その因果関係を、与えた相手に回帰させる。そうすることで、手っ取り早い解決法と思い込んでいるからである。その背景には、自分に対する「権利の主張」があるからである。
 こういう権利指向の社会では、世の中がますます生き難くなってくる。謂(いわ)れのない「いちゃもん」が飛んでくるのは、社会意識の欠けた人間が急増してくるからである。