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勇ましく振る舞うことの正体

 感情にまかせて、腹立ち紛(まぎ)れに怒鳴ったり、罵(ののし)ったり、暴力を振るうなどの、そういう人は、口で言うほど勇気もなく、また優しい人でもない。ただ見栄で、表面は勇ましく見せ掛け、内面は臆病で、慄(ふる)え上がっている人である。
 強がって勇ましいことを言う人は、心の鍛錬がなされていないためである。肚(はら)の出来た人は、その強さを裡(うち)に秘め、表に現さないものである。
 勇ましく振る舞うのは、徳の力が、武勇より優ることが分からないからである。


内弁慶の噺

 可もなく不可もなく。そして、沈香(じんこう)も焚(た)かず屁もひらず……。そのうえ、内弁慶……。こういう人は、明らかに器量が小さく、小人(しょうじん)である。
 だが、別の見方をすれば、その器量の小ささを持った人は、極悪人でない証拠である。況(ま)して善人でもない。善人は無力ではないからだ。


心の喜び

 有名になりすぎて、名が世間に知れ渡ると、却(かえ)って禍(わざわい)を招く。
 賢者というものは、その倹(けん)を察して、身を隠し、その害から遠ざかるものである。心の無事を怡(たの)しむことこそ、心を穏やかにし、和(なご)むことである。


「才の人」と「徳の人」の違い

 組織というものは論功行賞の遣り方いかんで、良くもなったり悪くもなったりする。また罰するより、賞する方が難しいのである。
 功労があるからといって、見識がない者に地位や役職を与えると、組織は崩壊に向かいからである。
 例えば、こういう場合である。
 「あの人は、わが組織に利益を齎(もたら)した。したがって高い地位か、肩書きのある役職に就けよう」となった場合である。こういう場合は、地位や役職を与えるのではなく、論功行賞において「賞」をもって酬(むく)いるのが筋である。
 本来、「賞」は金一封とか、ボーナスとか昇給などであり、これを取り違えて、重役にしようとか、会社員から会社役員に引き揚げようなどのポジションを与えると、いかに利を齎す才があっても、人を支配させるような人間では、当然、組織は崩壊の運命を辿る。そういう者がポストを得ると、内部トラブルと混乱が低迷を招き、ついには崩壊する。利の才はあっても、徳がないからである。


意志力

 優れた人物の許(もと)を訪ね、その人に接することが、いかに大事で、人生をどれだけ有意義にし、自己錬磨に有益であるか、誰しも考えることである。しかし、それを実践するか、否かで、その人がダメ人間で終わるか、飛躍する人物になるかの分かれ道となる。
 つまり、考えたり、思ったりすることは誰でもするが、それを実行するかとなると、これが非常に難しいのである。見ず知らずの者を訪問すると言うことの難しさはここにあり、そこには大変な意志力がいるからである。


優れた本を百冊読む噺

 つまらぬ本を百册読むよりも、優れた本を百冊読む方が確かに為になる……。誰にも分かることだが、実はこの誰にも分かることを、遣らずに、つまらぬ本を愛読書にしている人は何と多いことか。
 現に、人生を説いたり、生き方を示す本より、つまらぬ不倫小説がベストセラーになる現実を考えれば、世の中の多くは、いかにつまらぬ本を読んでいるかが、一目瞭然となる。


諂い者の噺

 権力主義の権化と言われたマキアヴェリでさえも、諂(へつら)い者を身辺から遠避け、耳に痛いことでも直言できる者を身辺におけといった。追従したり、調子のいいことばかりをいう者が取り巻きにいると、幾ら賢者でも、直ぐにバカになる。支持を得ていると錯覚するからである。
 特に、某業界で茶飯事になっている「オヤジのためなら死をも辞さぬ」の言葉を口にする者が周囲に居た場合、そのトップは半年も経たぬうちに骨抜きにされているだろう。諂い者の常套句であるからだ。
 「死をも辞さぬ」というのは、死ぬ必要がないときだけ、そう豪語するからである。


斃れる戦い方

 戦い方の一つに、「斃(たお)れる」という戦法がある。これは戦術においての駆引きではない。覚悟の戦いである。こういう戦い方を仕掛けた者に対し、受けて立つ方は苦戦を強いられる。勝ったとしても無傷では済まされない。
 ここに、勝てば生かされ、負ければ殺されるという開戦前の呼吸を忘れたような緊張がある。
 斃れるという戦い方は、利害や善悪、あるいは勝ち負けで蹶起(けっき)するものではなく、感情と一体になっているからである。こういう「火の玉」のよう体当たりしてくる側の結束は固く、また力も、戦鬼が憑(つ)いたように、力も倍増しているからである。


好運の正体の噺

 今年は運がいい。何から何まで順風だ……。人生には、そう思えるときがある。
 しかしこれは、これから啻(ただ)ならぬ事が起こることを暗示している。
 例えば、思わぬことで大金が転がり込んだ。彼女、あるいは彼氏が出来た。不倫相手が見つかったなどである。こういう事象には、これから凶事が始まることを予感している。濃厚な不吉である。
 これこそ、作用に対しての反作用が起こる前触れである。
 この前触れは、好運のような形で訪れる。


本末転倒の時代に顕われる幾多の凶事

 現代は、かつての正道が崩され、本末転倒なことが起こっている。
 財の考え方一つ挙げてもそうだ。本来、財はその人に徳がありさえすれば、あとから幾らでも蹤(つ)いてくる。徳さえあれば、財は自然に集まるものなのである。その人に、財が集まらないとしたら、それは集まらないことを嘆くより、徳の無いことを先ず嘆かねばならない。根本は徳であって、財は徳に比例してあとから蹤いてくる。
 ところが、現代は財を集めるばかりで、徳を穢(けが)しても、なんとも思わない時代になった。その背景には、本末転倒が経済的不自由を招く結末に至っているのである。
 経済的不自由に陥っている人は、世の中の不条理とか、社会の責任にしたり、景気の悪さばかりを挙げて、その所為(せい)にするのではなく、自分にどれだけの徳が具(そな)わっているかを、疑うべきである。