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頑固の正体

 頑固であることは真理において不動であるということでない。ただ、幻想にこだわっているだけである。


陥穽の噺

 現代の世において、安心は、時の流れに添わないことにも安堵(あんど)を覚えることがある。しかしこれは、実は不安定の要素であり、それが見掛け倒しであることに気付いたとき、不穏の種になる。側面には陥穽(かんせい)があり、聞き逃しや見落としがあるからだ。


心の錯覚の噺

 隣の花が美しく見えることがある。所謂(いわゆる)「隣の花が赤く見える」という場合である。
 人は、赤い花に誑(たぶら)かされ易い。そのため、赤い花に憧(あこが)れる。
 しかし近付いて見ると、それは赤く美しい花でなく、穢(けが)れたくすんだ垢(あか)で色褪(いろ‐あ)せた花だった。
 世の中には、垢を「赫」と見間違うことが多い。心が曇れば、垢も照り返して、輝いて映るからだ。


出来た女房の噺

 貧にして楽しむとは、どういうことか。
 『酔古堂剣掃』には、貧士の客好きを挙げている。
 曰く「貧して客を亨(もれな)す能(あた)わず。而(しか)も客を好む。老いて世に狗(したが)うを能わず。而も世に維(つな)がるるを好む。窮して書を買う能わず。而も奇書を好む」とある。
 貧乏しているくせに、貧士は客好きである。何も無いのに無闇に客に酒を進めたり、矢鱈と議論をしたがる。またそれが嬉しくてたまらず、ここに同類が好んで押し掛けてくる。こういう亭主持ちの女房は大変であるが、そういう亭主に付き合って、一生、苦労しても報いられることが少ないのに、女房は女房で、結構、満足している……。かつては、そういう出来た女房もいたが、昨今のマイホーム主義の中では、殆ど見掛けなくなった。


わかれ道の噺

 順風満帆……。裏を返せば、好事魔が多しである。
 人間は懐具合がよくて、万事好調に事が運んでいるときには、人間があまりおたおたしないし、ボロも出さない。
 ところが、その同じ人間が、不運に見舞われて、ドン底に落されて困窮すると、途端に一変して邪(よこしま)な姿を顕す。
 人間は困窮したときに本性を現し、その窮地を持ち堪えるか、否(いな)かで、人物のわかれ道となる。


生きた金の噺

 金の遣い方は本当に難しい。なぜなら、人格がそのまま遣い方に反映されてしまうからだ。


ごまの擂(す)り方の噺

 迎えごま。逆さごま。勇みごま。脅(おど)しごま。貶(けな)しごま。そして、敵本ごま。
 敵本とは、真の目的を隠し、他に目的があるように見せ掛けて行動する遣り方で、敵本主義から出たもので、「敵は本能寺に在(あ)り」からの造語である。


話し方の噺

 話すときに言葉を濁(にご)すと、相手は、自分がいいように解釈してしまう。そして、過大なる期待を持たせることになる。大事なことは言葉を濁さず、はっきり物を言うことである。


下り坂のくだり方

 老いれば、人間の気持ちは総てが失われていく。このため、若い頃は追いつき、追い越せの「引き算」の計算で、問題を処理できたのだが、老いれば、「引き算」は足枷(あしかせ)になるばかりである。
 人生の分岐点を折り返せば、そこからは坂道であり、下り坂は、下り坂の下り方ある。
 その下り方の秘訣が、物事を「足し算」で考えることだ。
 いいところを見付けて、それを「足し算」で換算することである。


好人物の噺

 人物評定は六十点をよしとする。しかし、六十点以下では駄目で、それ以下では、なお駄目である。
 なぜなら最初から百点満点を目指して評定してもらおうとすれば、時間が掛かり、また弾力性もなくなる。こうなると、下手を打ったときに、その人は責任回避を企てるからだ。
 人物評定は他人(ひと)からの六十点を維持し、それを継続できれば、その評定にだんだん味が出て来る。好人物とは、そういう人なのである。