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現代人を欺(あざむ)く偽・私・放・奢の噺

 現代社会はどういう社会に変貌してしまったか。
 現代の世は「偽/偽物と搾取)、私/個人主義)、放ほう/自由奔放)、奢しゃ/虚飾と華美)」に覆(おお)われている。戦後の日本は、この四つの痛切な罠(わな)に懸かり、生活の意義がすっかり喪(うしな)われてしまったと言える。


亡国の三兆

 国が亡ぶ場合、三つの兆(きざ)しが顕われる。
 その顕著な例が清朝末期の中国である。当時、阿片戦争をイギリスと戦った曾国藩(そう‐こくはん)はこの時代の政治家で、また思想家でもある彼は、太平天国の乱平定に湘軍(しょうぐん)を率いて活躍ことでも知られるが、このときに世の乱れる前兆として、三つの事柄を挙げている。
 その第一は、世の中が曖昧(あいまい)になって白黒が分からなくなり、何れでもないグレーゾーンは急増ことを挙げている。
 当今に流行には「曖昧」があるが、白黒をはっきりさせず、曖昧の領域に置いて、明確にさせないことである。つまり、こういう世の中になると、例えば堅気(かたぎ)と暴力団との境目が曖昧になったり、すべての領域で曖昧が殖(ふ)え、明瞭さに欠ける世の中が出現することである。これが顕われると、国民が現実逃避的になったり、特定の集団に対して迎合的になることである。
 その第二は、一般に善良な市民と言われる人々が忍従を強いられたり、沈黙して遠慮がちになり、これに替わり、下らぬ人間が世の中をいいように牛耳ってしまうことである。昨今の公共の電波を独占して「無頼漢主義」などを論(あげつら)い、フリーガニズムは横行するはその顕著な例である。
 その第三は、問題が深刻になると多目的主義になり、細分化され、あれもこれもと、無理からぬことまで容認してしまい、どっちつかずで、何事も真相が隠され、分けの分からぬことになってしまうことである。その顕著な例がスポーツなどにも見られ、当今は多種多様のスポーツが、テレビで所狭しと放映されている。
 これはその国の指導的地位にある者が、事に当たって、計画な決断を行なう勇気に欠けていたり、部下から軽重を問われ始めた現象である。それは本人だけの問題ではなく、その国の国民の問題でもあり、国が亡国に向う兆しとも言える。


卿大夫士の噺

 機密が漏れるという組織や集団がある。機密が外部に漏れるような組織や集団は、大体において殆(あや)うい要素を持っている。それは側面に「卿大夫士(けい‐たいふ‐し)を礼せず」というものがあるからだ。
 卿大夫士は中国の周代にあったとされる臣の三つの身分のことで、諸侯の臣には大夫・士があったが、上大夫は特に卿と称されたのであるが、この身分が小馬鹿にされ、蔑(ないがし)ろにされると、内部で秘さねばならぬ機密までが外に持ち出されて漏洩する。これは裡(うち)を治める能力が著しく欠如した現象である。


贅沢指向の行き着く先

 社会全体が贅沢指向に奔(は)り、国民が分不相応な生活に安住すると、国民の大半は余分に働くことをしなくなり、むしろ働くことより休暇を欲しがるようになる。仕事をするだけの時間がありながら、賭(か)け事に夢中になったり、レジャーや旅行を楽しんだりして、興味の対象がその方向に向う。そういう現象が起こり始めると、国民は因循姑息となり、新しい概念より古い因習を好むようになって、物事を実行するより困難なものは先送りして、実行しないための理由を探し始める。


病巣現象

 日本には未(いま)だに病巣現象が起こっている。
 例えば、ホテルの部屋や航空機の席が、いつも満席と言う慢性化現象である。ファミレスや回転寿しなどにいくと、いつもいっぱいで、俟(ま)たされるということが少なくない。これは現代人が、家に居ても、そこに安住を感ぜず、何かを需(もと)めて徘徊(はいかい)しているためである。これは一種の病巣現象である。
 この現象が進行すると、ついに殺気立つ。われ先にとか、われもわれもとなり、あたかも適応性を喪った動物が、ある日、突然、一斉に大群で移動し始める現象が起こることを髣髴とさせる。


博奕と退屈は同根である噺

 博奕熱が急速な勢いで波及している。パチンコ、カジノ、ビンゴ、そして宝籤、場外馬券を始め、その他の公営ギャンブルの盛況。どうやら、博奕は日本社会に定着したようだ。


シンギュラー・ポイントの噺

 シンギュラー・ポイントという言葉が識者の中で問われ始めて久しい。特異点のことである。
 ふつう、この現象が起こり始めても殆ど気付かないが、ある日、突然驚愕(きょうがく)することが起こる。
 例えば、フラスコで湯を沸かしたとする。点火して暫(しばら)くの間は何も起こらない。ところが、いつの間にか泡が立ち始める。湯気も出る。しかし、この状態では、たいして注意も惹(ひ)かない。更に放置する。すると急に沸点に達し、湯が溢(あふ)れ出して、酷い場合はフラスコが破裂を起こす。この分岐点を「シンギュラー・ポイント」という。これは時勢の中にも存在する。
 「何も心配ない」
 この状態で放置すると、ある日突然、シンギュラー・ポイントに達し、あっと言う間に突破して、混乱の極致に陥れられる。ここからが、一挙に破滅の道へと爆走していくのである。


得意淡然の噺

 古代中国史層の原点に『呂氏春秋(ろし‐しゅんじゅう)』というのがあり、この中に人物鑑定法があって、人間の出来具合を検(み)る方法を定めている。
 その中に、「之(これ)を喜ばしめて、以て、その守りを験(けん)す」というのがある。
 まず本人を喜ばせて、その人にどれだけの自己防衛力があるのかを見抜くために、その人を験(ため)すと言うのである。
 人間、嬉しいこと、幸運なことが起これば、直ぐに有頂天に舞い上がる。
 これを人物鑑定法の中には「あてにならない人物」として挙げている。
 一方あてになる、頼りになる人物は、こういうとき「得意淡然(とくい‐たんぜん)」という人こそ、真物(ほんもの)の態度と言うのである。


吝嗇の意味

 世の中にはケチを売物にする人がいる。そういう手合いは、人間的な教養が欠落している人である。
 吝嗇(りんしょく)という意味が、どういうことか分かっていないからである。
 吝嗇家は人間社会が助け合いを尽くして、凭(もた)れ合いであるという根本事情を理解していないからである。自分のことしか念頭にないからである。


玄徳の噺

 身分不相応な欲望を抱くと、禍(わざわい)が降り懸る……。これは儒教的な考え方である。
 一方、『老子』の中には、「生じて有(ゆう)せず、為(な)して恃(たの)まず、長じて宰(さい)せず、これを玄徳(げんとく)と謂(い)う」
 玄徳とは、深遠な徳、あるいは玄妙な徳のことである。
 産み出すしも所有せず、成功しても誇らず、最高位に就いても支配せぬことを「玄徳」というのである。当今では、そういう人物を、とんと見なくなった。