
過去集



































舌の噺
人体の中で舌ほど貪欲な部位はない。また、舌ほど恥じ知らずである。したがって、もし舌を完全にコントロールできる人がいたら、その人は聖人か、あるいは非凡な意志の持ち主であろう。
人生を楽しむ噺
こっそり楽しく暮らす。そして自由に、時間に縛られない生き方。給料に縛られる生き方をしていては、自由も時間も得られない。況(ま)して精神的衛生は得られない。
みんなが幸福になる時代は、これから先、訪れないであろう。そして、みんなと同じことをしていると不幸になる。つまり、人真似である。こういう人はますます不幸になるであろう。
快楽の増大、苦痛の減少をすべての道徳や立法の窮極の原理とし、「最大多数の最大幸福」の実現を説いたこの理論は、これからますます成り立たなくなるだろう。
顧客の選び方
顧客の絞り込み。そのためには向上心が必要であろう。凶を変える術
有難いフィードバックと言うものがある。これを修祓之術という。凶を吉に変える術である。創意工夫の噺
自分の中に、分かっていない自分がいる。分かっていない自分に呼び掛けて、新しい回路を創る。これを創意工夫と言う。努力は実るか潰えるか
無駄な努力をするな。努力は実らないと言う。だから、努力をするなという話ではない。正しい努力をせよ。では、正しい努力とはどういう努力か。
それは楽しい努力であり、苦労でも楽しい苦労になる。
更に、危ない努力は、見返りを需(もと)めての努力である。見返りを需めての努力は、最初から実らないのである。
幸せの需め方の噺
幸せは自分の外にない。自分の裡(うち)にある。自分の裡側から自分で紡ぎ出すのが本当の幸せである。外に需(もと)める幸せは直ぐに消え、求めたものも直ぐに厭(あ)きる。奢る者は亡ぶ噺
格言にいう。侈傲(しごう)の者は亡ぶ……。
これは貴賤を問わず「亡」に見舞われる。「亡」の決定は百発百中である。「亡」は外れることはない。
ふつう如何なる家も、先祖の遺徳で守られている。先祖の鬼神は、鬼となり神となって子孫を守る。
その「守り」に、先祖は子孫の家訓を残した。子孫は家訓により、先祖の教えを学んだ。家訓は先祖の智慧のエッセンスである。
家柄を驕(おご)り、己の心の鍛錬を怠り、驕ったままに生きる者は、やがて亡ぶ。そういう家は三代も続かず没落する。
強面(こわもて)に幅を利かし、傲慢(ごうまん)に物を言う。傍若無人に横柄に振る舞う。そして、他人(ひと)の話に聴く耳もたず……。
こういう因縁を抱えた者は、いずれ亡ぶ。譲ることを知らず、慎みを知らないからだ。
忘れてはならないのは、この世には作用と反作用が働いているからである。
多忙人の噺
現代は目の赤い人が多い。六大関節が亜脱臼を起こすと、白目の部分に充血が顕われ、目全体が赤くなる。これは疲れ目が慢性化した状態であり、その一方で仕事の多忙がある。こういう人を「多忙人」と言う。多忙人の多くは六大関節を亜脱臼させた人である。
六大関節……。
上から順に、首の頸椎及び頭骨縫合(1)より始まり、左右両肩(2)、左右両肘(3)、左右両腰(4)、左右股関節(5)、左右両膝(6)の六ヶ所の部位である。その発信源は腰骨であり、腰椎と仙腸骨の「外れ」と「開き」にある。これが腰痛の許であり、この病因によりその痛みは脊柱を昇り、猫背・亀背を伴いながら両肩に至って此処で「肩凝り」となり、「肘痛」となる。更に脊柱を昇った腰痛の痛みは頸骨を歪め、そこより更に頭部に昇って頭骨の各縫合を外して頭痛となって顕われる。生体のリズムが狂ったからだ。
では、この元凶は何か。
夜遅い食事。夜の巷の徘徊……。そして、現代の太陽と共に起き、太陽と共に寝る生体リズムが崩壊したためである。それが多忙を産み出し、その帳尻合わせてとして、ひとときの慰安が行なわれる。自然の流れに逆行する人種こそ、多忙人の特徴である。
自他離別と自他同根の噺
人間は誰しも賢者でもないし、まして聖者でもない。しかし、人が聖賢の域にあれば、争いは著しく極小化するだろう。争いの元凶は嫉妬、羨望、猜疑、嫌悪、憎愛、侮蔑、屈辱などである。そして、そこに働く意識は「自他離別」である。これが争いを起こし、戦いへと駆り立てる。
一方、他人を譲ることが出来る謙譲の礼を知れば、そこに自他同根の意識が生まれる。自分を後回しにして、他人に譲る行いである。
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