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こだわらない噺

 物事に執着しない。いつまでも同じことにこだわらない。余計なものを引き摺らない。つまり、こだわらないことである。当今は、こだわることをいいことにように思い込んでいる節がある。だが、いいことではない。あたかも、楊枝で重箱の底をほじくるが如しである。
 こだわるのでなく、正しくは極めるのである。こだわれば生き方が狭くなる。挙げ句に、萎縮する。
 物事を広く深く見渡すには、こだわるのではなく、極めねばならない。その意味で、こだわると極めるは同じものでない。次元もまったく違う。相違を知るべきである。


性命エネルギー

 生きようとする本当のエネルギーとは、なんであろう。それは野性の血であろう。人工でない、自然界にあるものだ。したがって、人工のエネルギーで、どうこうできるものでない。
 例えば、サプリメントや栄養ドリンク、あるいが健康器具である。こういうもので性命エネルギーを得て、自然な健康が獲得できるだろうか。
 自然界に存在し、人間の中に内在されている性命エネルギー。これは人工のお手頃の商品では得られないものである。
 このエネルギーを得るには安いエネルギーでなく、幸・不幸を超えて人生をしたたかに生きてやろうとする烈しい情熱がいる。如何に生きたかという人生への情熱である。これが生きようとするエネルギーになり、出し切って生きれば、枯れるように老い、朽ち果てるように死んでいけるのである。


陰陽の周期の噺

 いい学校を出て、いい会社に就職しても、それだけで成功へのパスポートを得た訳でない。また、一生食うに困らない権利を得た訳でない。
 一瞬先は闇である。人生は寸善尺魔(すんぜん‐しゃくま)であることを忘れてはならない。
 そもそも人生に順風満帆はあり得ない。人間は陰陽の周期に振り回される生き物である。
 昨日みた夢が翌朝には一瞬にして醒め、その朝から茨の道が展開されるかもしれない。
 寿命が延びた人間の人生、単調で安らかでということはあり得ず、のんびりと長閑な平和が続くことは絶対にないのである。
 上下を行き来する生命の周期は常に陰陽を繰り返しているのである。そして問題なのは、低落したときの態度、窮地に立たされたときの、その人の姿勢である。


己ずから閑なり

 中国の箴言に「機を知れば心己ずから閑なり」というのがある。これは、生き方の原理原則の一つであろう。
 どんな難解な問題が発生しても、どんなに困窮する窮地に立たされても、どうなに複雑なことに出くわしても、それに振り回されることなく、心は常に長閑である。そういう閑なる心を養いたいものである。


忘れてはならない不変の原理原則

 いつの時代の人間も、変化する時代に変応することは大事だが、太古から変わらない人間の遺産である不変の原理原則も堅持しなけれならない。


運命への作用と反作用

 人から悪口を言われた。陰口を叩かれた。不慮の事故の遭遇し、とばっちりをうけた。こういうツイていないことが起こった場合、怒ってはならない。冷静に考えてみる。そして、この解釈の仕方である。これを運命から験されていると考えてみてはどうであろうか。
 更に一歩進めて、これのツイてない事象を、運命に貸しを作ったと考えてはどうだろうか。
 現象界は作用と反作用は働く世界である。作用として、ツイてないことが起これば、反作用としてツイていることが起こる筈である。


真物の成功の噺

 成功するとは、世間が認めた評価の中にある。だが、この評価は一瞬のものである。長くても、一世を風靡する程度で、長期に亘り成功を維持できることは稀である。
 人が遣らぬことを想起して、その思惑が当ったとしても、その後、真似をする模倣者が続出し、二番煎じ、三番煎じと続出し、摸倣の的にされる。更に恐るべきは、異なる方法を用いて後続の模倣者が、一番最初の発案者を押しのけ、長期に亘り君臨することである。
 その背景には、変化させようとする欲望が渦巻いているからである。富の収奪と独占を企みからである。変化の中には立場の逆転を窺って、模倣者は執念を燃やす。その原動力も、また欲望である。
 成功者の周りには、先行者と競合者の熾烈な争いのあと、何れかが消え去る。
 もし、本当の成功を目指すのであれば、消え去ったあとこそ問題なのである。そのとき、なにが発想できるかである。それこそが人が真似できない真物(ほんもの)の成功である。


二つの境界

 人間は病気の時と健康な時の境界を処する工夫を整えておかねばならない。


本末転倒

 他人を押しのけて利益を得ることが、いかに危険であるか心得ていなければならない。それは自他離別であるからだ。
 本来の利益とは自他同根で、ともに喜ぶべきことを根本に据えておかねばならない。
 利益は目的でなく結果である。


姿勢の噺

 人間は地の上を歩く生き物として、姿勢の大事だある。姿勢が崩れていては歩くにも、走るにも、あるいは泳ぐにも支障を来す。
 そして姿勢の大事は、いかにして腰骨の上に脊柱を垂直に立てるかにある。これは、仏像の坐像を見れば顕著である。
 仏像坐像は前から見れば腰骨の上に脊柱が垂直に立っている。また横から見て、脊柱がゆるやかなS字カーブを描いて真っ直ぐに伸びている。その姿勢に猫背はない。首は前に落ち込み、脊柱上部が亀背(きはい)になっていない。
 腰骨の上に脊柱を確(しっか)り垂直に立てる。これが亀背にならずに済み、また亀背を矯正するコツである。性格的にも、こだわる人は亀背が多いようだ。
 静中に動あり。動中に静あり……。人間は常に静動を交互に繰り返している。この中に畳一畳で寝る姿勢と、畳半畳で起(た)つ姿勢がある。
 猫背、亀背では運が低下する。いまよりますます低くなる。
 今は地を這う臥竜は、やがて天の昇る。臥竜の才はないにしても、どんな人でも周期的な運を掴んで天に昇る時機(とき)があるものだ。それは周期に大小はあるが、年齢はあまり関係ない。
 そもそも春秋時代の秦の名相といわれた百里奚(ひゃくり‐けい)は九十歳になって宰相にのぼった人物である。紀元前655年、晋の献公が虞を滅ぼした時に、晋軍に捕らえられたが、秦の穆公(ぼくこう)がその賢を聞き。五コ羊の皮(五枚の牡羊の皮)であがなったという。
 爾来、五コ大夫(ごこたいふ)と呼ばれた人物である。御歳九十歳であったと言う。
 運気は誰の頭上にも渦巻いている。
 また、かのアブラハムは七十五歳のとき、これまで暮らしに馴染んだ土地家屋から離れた。妻や子に捕りと財産を分与し、自らは放浪の旅に出た。
 『旧約聖書』では、子イサクを通じてイスラエルの民の祖といわれ、また、子イシュマエルを通じてアラブ人の祖とされる。彼は安住の地を探すために、放浪に果てにカナン(Canaan)の地に辿り着く。神がアブラハムとその子孫に与えると約束した地である。
 しかし、世の中には五十歳も満たないのに早々と人生を諦めた人がいる。自らの前途に青い春が広がっていることを視れない人である。
 背を丸めて下ばかり視て歩くと、頭上に青雲の空があることがわからない。猫背・亀背の歪みを正し、胸を張って天を仰ぎたいものである。