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経済的不自由の噺

 人間、金に困れば必ず嘘をつく。万人に言えることである。


帝王学の噺

 貧しても楽しむ。利に動かない。富んでも礼を好む。極めつけは、勇往(ゆうおう)すること風雨の如し、奮発(ふんぱつ)すること雷電の如し、呑却(どんきゃく)すること鯨飲の如し。
 そして、自他を益する学問。


切磋琢磨の噺

 人間は磨かないと光らない。烱(ひか)りを出すには磨いて玉(ぎょく)をつくりしかない。ただ生きていただけでは光らない。その意味では璞(あらたま)である。磨かずに放置したのでは、ますます色褪せる。躰も心も磨いて始めて烱る。男も女も、磨いて輝きを増す生き物である。輝きを増すには切磋琢磨するしかない。
 切磋琢磨って、むかしは儒学者が好んでつかった言葉である。
 この言葉は今でもよく遣われる。人間界は人格を問う世界だ。そこで人格を磨くということになる。
 切磋琢磨の『切』は切るが如く、『磋』は磋(す)るが如く、『琢』は琢(う)つが如く、『磨』は磨く如しという意味である。


運命に貸しをつくる噺

 多くの現代人には損得勘定がある。損か得かを考える損得勘定が多くの人に働いている。そして人生は損か得かで割り切り、損したか儲かったかで人間を推し量っている。
 人間の意識にある損得勘定。甚だ厄介なものである。ちょっとしたことで損した場合、ついてないと思い、得した場合はついていたと思う。損をすれば、地団駄を踏んで悔しがる。
 だか、この感情を一新させて、損をすれば「運命に貸し」を作ったと思えばどうだろうか。逆に得をして儲かれば「運命に借り」を作ったと考えれば、どうであろうか。
 損しても得しても、たいしたことではなくなろう。


清規と陋規の噺

 二千五百年前の孔子の時代から、中国では「清規」と「陋規」がやかましくわれてきた。
 ちなみに清規とは、「親孝行せよ」とか「兄弟仲良く」とか「人の者を盗むな」とか「無闇に姦淫するな」とかであり、これは一般的な表向きの道徳である。
 一方これに対して、陋規は「賄賂には賄賂の取り方がある」とか、「喧嘩には喧嘩の暗黙のルールがある」とかのダークサイドの裏街道の仁義である。
 そして陋規が崩れると、世の中が不穏になり、世は乱れ、人の心は荒み、これが起因して革命が起こると謂れてきた。この崩壊は社会秩序の崩壊に繋がり、文明崩壊の危険信号のシグナルだった。つまり、これは人心が荒廃したからでもあった。


城濮の戦から学ぶ噺

 中国春秋時代に『城濮(しょうぼく)の戦』というのがあった。
 春秋時代、馬の首飾りを吝(お)しんで、丹水という川の溜めた湖を取り損なったという吝嗇家(りんしょくか)がいた。この湖、また田猟地で、孟諸(もうしょ)というところで禽獣(きんじゅう)の多く棲(す)む湿地である。そして、そのケチの主(ぬし)は、確か子玉(しぎょく)とかいった。この吝嗇家、しかし一方で、猛将として知られ、戦闘には相当に自信があったようだが、ケチが祟って、自らの命すら落してしまう愚か者である。結局、ケチが祟って死んだ楚の宰相である。楚が後に亡ぶのは、この吝嗇家が克明に暗示していたのではないかと思うのである。ケチが一国を滅ぼすこともあるという教訓である。ケチの始まりは、自分の馬の見事な飾り物であった。子玉は合戦の前に、夢の中で黄河の神が顕われ、その飾り物をよこせば、お前に孟諸の沢を与えようといった。目が醒めた後、この夢の話を側近にしただけで、戦勝を祝って黄河に玉を沈めることはしなかった。戦闘には自信があり、そういうものまで投じて神頼みすることはないと高を括ったのである。だが、これはこの時点で楚軍の命運が玉の如く砕け散ったのである。子玉の自侭な戦の所為で、楚の北進は十五年も遅れる凶因を作った。紀元前六三二年のことである。
 歴史には人間のこうした愚行が列記されているのである。


無恥の噺

 当今、知識と知性は別物になり、似ても似つかぬようになった。
 かつて知性といえば、そこに品格が漂っていたものである。
 だが当今は知識はあっても知性がない。おまけに常識までない。
 当今のインテリは無知であるが、また無恥でもある。


氾濫する評価合戦

 現代の世は、自分を評価してもらいたい者で溢れかえっている。自分を高く評価してもらいたい……。そういう人間で、現代社会は氾濫(はんらん)状態にある。自分の功績を功績として、世に高く評価されたいと思っているのは、換言すれば人情だろうか。
 しかしである。
 自分の行なった結果を評価されたいと考えるのは、確かに自分の進歩にとっては大切であるが、これは自分の善いことを世に示す気持ちと、悪いことを隠す気持ちとは、実は同じことなのである。


人生を諦めたときの噺

 諦めるとき……。それは老け込んだときである。
 「老いる」と、「老け込む」のは違う。老いるのは自然の摂理であり、老け込むのは人生を諦めたときである。


即決力の噺

 成功の秘訣。健康維持の秘訣……。それは、「いま何をするべきか」を的確に判断できる中に、それぞれの秘訣の糸口が隠されている。
 気付いたら同時に行なう。すぐに行なう。この即決力である。