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無関心の噺

 いつの時代も、多くの人は他人についても、自国のことについても無関心に生活している。
 無関心……。
 それはそれなりに幸福であると言えるかも知れない。しかし、この種の幸福は、自覚しない幸福であり、厳密に言えば、本来の幸福とは程遠い。それだけに、未来には大きな不幸が待ち構えていると言えるかも知れない。


日々精進の噺

 若い頃、あれもしようこれもしようと思う。しかし、そう思いながらも気付いたら五十を過ぎ、過去を振り返れば、何もしてこなかったことに気付く。
 職人にも下手な職人と言う者がいる。下手な職人でも、下手は下手なりに、毎日コツコツと、職人の生業として同じ仕事を精進してきたのである。ここに「日々精進」の大事がある。
 『徒然草』の第百八十七段には、職人の話が出ている。いろいろな道の職人は、たとえ下手であっても素人の上手よりは優れているとある。生業としてその道に励む職 人は、日々油断無く、慎んで仕事を軽率に遣らないからだ。その意味では、素人の勝手気侭な行いとは全く違うからである。
 これは芸道における職人の道だけでなく、生業としてその斯道に励む者は、一般的な振る舞いや、気配りなども用心深く、じっくり取り組むからである。それが上達に繋がるのである。単に器用で、勝手気侭に、気が向いたら遣る素人の気紛れが、そもそもが失敗の元凶といわねばならない。「日々精進」の戒めから考えれば、全くその通りである。


逆境の噺

 順境や順風満帆な運びは、人を殺し、逆境は人を活かす。苦労をして、それに耐えることにより、活かされていることが見えてくる。


窮すれば通ずの噺

 人は「窮すれば通ずる道」がある。窮して困り果てた時、何処かに変化が生じ、その変化の中に通じる道がある。
 困窮に立たされ窮地に置かれても、あるいは怒声の嵐の中で罵詈雑言の無理難題の揶揄(やゆ)が飛んだとしても、一切弁解せず、黙々と始末をつければ、必ず解決の糸口が見つかる筈である。


どちらが人間的か

 金のない人は暇もない。したがって、毎日が多忙にならざるを得ない。
 一方、金のある人は閑(ひま)もある。したがって閑から、ゆとりが生まれ、その余裕の中で自分の時間を充分に満喫し、人生を謳歌(おうか)することが出来る。


唇の噺

 馨(かお)るような言葉。汚らしい言葉。怒気を含んだ言葉。澄んだ美しい言葉。心が洗われる言葉。人間の唇の先からは様々な言葉が発せられる。
 言葉は必ず知らぬ間に、泥水や香水を振りまいて、他人の晴れ着や袖を穢(よご)しているかも知れない。


若気の潔さ

 青雲の志や理想を掲げて生きる人は「若気の潔さ」を生涯通じて保っていなければならない。
 人間は年齢とともに感情の圭角(けいかく)がとれ、夢が凋(しぼ)み、円満となって刺々(とげとげ)しさが無くなっていく。それは同時に、人の世の清濁併せ呑み、善悪綯(な)い交ぜの世界に適合した器量が出来上がったことを「圭角がとれる」という褒(ほ)め言葉で讃えるようだ。「青くない」という意味だ。近年には「あの人は大人ですね」などの褒め言葉が飛び交っているようだ。
 つまり、「あの人は大人」という形容詞には、裏を返せば、理想を追い求め、正義感を貫く心の姿を喪った姿なのである。少年の心が死んだ姿なのである。


手の噺

 人間の手ほど不思議なものはない。
 手が触れたもの、染めたものを思い出してみるがいい。
 それを思い起こせば、顔を赧(あか)らめるものもあれば、心を清々しくするものもある。あるとき、神聖なるものに触れたかと思えば、その同じ手で穢いものに手を染めている。
 手は千差万別に種々のものに触れ、様々な道具を使い、次々に新たなものに染まり、遊戯自在で、それでいて手自体は清濁もなければ善悪もなく、依然として手は手である。


正直の正体

 人間は「正直」でなければならぬというが、それは正直であった方が信用もされるし、立身出世の近道と考えているからである。商売繁盛も正直であった方が得をするというタテマエがあるからだ。
 考えてみれば、正直は信用や出世や商売繁盛の道具にされている観が否めない。最良の、一種の政策に過ぎないことが明確になる。
 したがって裏を返せば、「正直者は損をする世の中」となれば、正直は守るだけ無用の長物となる。
 更に、正直者は正直であるということは何も真から正直であるわけではなく、ただ世渡りにおいて賢いだけなのである。総て損得勘定から正直現象が起こっているとしたら、功利、利害、打算などが人間の生き方を律する基本であるからだ。
 しかし、これが社会の為来(しきた)りとしたら、そこに身を投ずる自己は自縛されていることになる。猫被りの正直が横行している。今こそ正直を再点検する必要があろう。


成功するかしないかの噺

 成功するかしないか、それは既に自らの中に用意されている。
 本来の成功とは遥か彼方に存在するのでなく、その因子は自らのなかに内蔵されている。
 「功は舎(お)かざるに在(あ)り」という言葉がある。
 「舎ざる」とは、捨てないということで、簡単に諦めないということである。「継続する」とか「持続する」とかの意味である。捨てない以上、成功する可能性は蹤(つ)いて回るのである。
 成功を描いてそれに賭(か)けたのであれば、それをどこまでも持続させ続けなければならない。その継続において、成功する未来があるかないかの現象が起こる。