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人は好運も不運も内臓している噺

 運が悪かった。運がなかったという人は多い。
 運が悪いか否か、運の有る無し。ただその一言で片付けられる「運」の一字。運とは果たしてそういうものだろうか。
 そもそも人間には、運も不運も、その人の中に内蔵されている。
 のちに顕われた結果が、好運なのか不運なのかは、自らが紡ぎ出した現象に過ぎぬ。
 現象に好運が齎されれば、自身に内臓された好運の部分が紡ぎ出されたのであり、不運に見舞われたのであれば、自身が内蔵する不運の部分が顕われたに過ぎない。


不気味な平凡の噺

 「この人はたいしたことがあるまい」そう一瞥(いちべつ)される人の多くは、体貌に鋭気が見え過ぎる人が多い。斯(か)くも、眼光の鋭さを直感できる人は、そういう欠点を持っている。
 本来の達人というのは、見るからに平凡なのである。心身の力みを感じさせないのである。肩に力が入っていない。他人(ひと)に「達人」と悟らせないのである。つまり、これが不気味な平凡である。
 対すれば、平凡か非凡か分かったときには、対戦相手は斃(たお)れているのである。
 人には隠顕(いんけん)があるのなら、達人には顕がなく、永遠に隠のままに臥して、人生を生きていく人なのである。達人の境地は、相手の才能を認め合うことのない世界なのである。
 相手がその達人の才能を認めたときは斃されている。既に死んでいる。何と恐ろしい世界か。


ひと回り大きくなる噺

 現代は人権の擁護や男女間の差別に対して、「差別はいけない」と喧(やかま)しくいうが、特に喧しいのは「傷付ける」という行為に対してである。
 差別しないというのは、果たして傷付けないことに繋がるのだろうか。
 確かに、人を暴言などの言葉や、無視するなどの仕種で傷付けるのはよくないことだろう。しかし、むやみに傷付く方もよくないことを知らねばならない。
 傷付けられて傷付くよりも、傷付けられて人間がひと回り大きくなるように心掛けるのが筋だろう。


死ぬことで活かされる死の噺

 生きる者は必ず死ぬ。多くの生命にとって、自らの死は自らの終わりに均(ひと)しいであろう。自分のこれまでの努力や仕事によって営為を齎したものは、死とともに潰えては虚しい。
 むしろ、自分が生きたという証(あかし)が、死によって活かされるような死に方をしたいものである。


一幕物の現代版「人生劇場」の噺

 時代が複雑になる一方で、現代人の人生劇場は虚無と空白で締め括る一幕物が多くなった。テーマも人間の希望と絶望。その役者は観客であり、役者と観客がひとりで二役をこなず多忙ぶり。現代版「人生劇場」では善玉と悪玉が、ひとりで二役をこなすという多忙に追い捲(まく)られる忙(せわ)しない一幕物である。


盲点を衝く噺

「人の行く裏に道あり山桜」という格言がある。
 この格言は、多くの人が見逃してしまう盲点を挙げている。盲点とは人が見落としがちなところなどと辞書類には挙がっているが、それは単に表皮的なことであり、盲点はそういう表皮にあるのではない。うっかりして見逃すような不注意から起こるものでない。物事を見詰めて観察すれば、ミクロ的には正しいが、マクロ的には間違っているというものが沢山ある。戦術のような小局的な局部においては役に立つが、戦略の酔うに大局的に見て間違った方向に展開しているというものは山ほどあるのである。
 見方によって、焦点の合わせ方によって、正しくなったり、間違ってしまうようなものは沢山あり、その間違ったところが「盲点だ」と指摘しているのである。
 表から検(み)ればよく見えるが、裏から検れば悪くてよく見えない。美醜も観る焦点によって、あるいは時間によって異なるのである。


物を考える噺

 物で幸せは買えない。物で作った幸せは長続きしない。しかし、人間は物無しでは生きていけない。
 人間には物欲がある。物欲があってこそ人間であり、もし物欲がなければ問題である。しかし、物は持ち過ぎてはならない。
 自分の身の回りの物を整理して、三百点ほどにしてみる。そうすると、どんなに生活が簡素化されたかよく分かる。更に五十点ほどにしてみる。もうここまで来ると自由人の世界である。物から解放されたと得心するだろう。人間として別の生き方があることが分かって来る。


禍論

 世に「何もしてないのに」という疑いとともに、禍(わざわい)に巻込まれた人の嘆きがある。
 何もしてないのに……。よく耳にする言葉である。何の落度もなく、無垢で純真で、そういう人が、なぜ禍の巻込まれるのであろうか。災難が頭上に降り注ぐのであろうか。
 果たして、何もしてないのに、禍が偶然に、突発的に起こるのだろうか。起こる前に、禍の前兆を感じることが出来なければ、無防備では手遅れとなる。
 これは病気でもそうであろう。
 人間がある病気を罹病する場合、その人が至誠であったり、一生懸命に道義を守って真面目を貫いていたりする人でも病気をする。はっきり言えば「悪いことは何もしていないのに」である。
 では、なぜ罹病するのか。
 そもそも、禍は希望的観測に縋った時点で、そこに禍の種子が発芽したのである。則(すなわ)ち、「何もしていない」とは「悪いことはしていない」と想った時点で、その禍は発芽したのである。
 その種の「想い」が、現象界に作用するからである。


宝の山の噺

 「宝の山に入りながら、手を空しくして帰る」
 『正法念処経』には、そうある。
 気付いたとき……。それは事を処理する最高のチャンスである。手を空しくさせてはなるまい。
 しかし、鈍感な人は宝の山に気付かない。鈍いから気付きもしないのである。ただ頑迷で、強情を張っているだけである。こういう人は折角のチャンスもアドバイスも無駄になる。
 世の中に、宝の山に入りながら素手で引き返して来る人の、何と多いことか。
 コロンブスの卵というのがある。あとで分かってみると何でもないものである。
 しかし注意散漫で、人の意見に聴く耳を持たなければ、分かる筈のことも簡単には分からない。


迷子の羊の噺

 羊の中にも、羊飼いの角笛に背き、野に咲く艶やかな花に騙されて、その蜜につられて、つい、うっかりと危ない茨の藪(やぶ)に迷い込む羊がいる。そんなとき、よき羊飼いはその迷子(まいご)になった一頭を救うために、危ない道を物ともせず、捜索に出掛けると言う。