尚道館の歴史 1



曽川和翁宗家と総本部・尚道館のあゆみ

初期の大東流修気会屋外稽古の樣子。
当時は道場がなかったので稽古はいつも屋外で行われていた。

大東流柔術の当身拳法稽古。
(会員を集めての合宿稽古。山口県吉見海上自衛隊にて)

大東流柔術の一本捕り。
山口県吉見海上自衛隊での大東流修気会の会員の合宿稽古において。






昭和40年(1965)4月……西郷派大東流合気武術は最初「大東流修気会」として発足した。
 初代宗家山下芳衛(ほうえい)先生より、曽川和翁先生が四段を賜わり、師範の印可を受ける。

 この当時の大東流修気会の会員達はまだ道場がなかったので、稽古はいつも屋外で行われていた。

 この稽古の中にはただ大東流の儀法を修練するばかりでなく「山行」として長距離行軍や福知山登山、英彦山(ひこさん)登山なども加えられたいた。

 会員は少年少女や社会人らも含めて、既に50人以上に達していたが、当時は男女とも道衣姿にリュックサックを背負い、よく行軍や登山をしたものである。

 この行軍や登山はただ日中の道を歩くだけでなく提灯をつけて夜道を行軍する事もあった。

 また途中で山稽古と称して、屋外の実戦稽古なども行い、常に実戦を意識した稽古も展開された。

 この間、野営に関する朝晩二回の炊飯経験を全員が経験する事もあった。

 当時は今と違って娯楽や観戦スポーツなども少なかったので、参加者は今日に比べるとかなり多くの人達が会員として参加していた。



熊本県垂玉渓谷で滝行の修行をする。
曽川和翁宗家。滝水の受ける場所は頸
(くび)の唖門宮(あもんきゅう)で受ける。

学生の稽古風景。



野外稽古(福岡県芦屋町・芦屋海岸にて)

昭和41年(1966)12月……曽川和翁先生が「大東流修気会」の初代会長となり、北九州市八幡東区を中心に活動を開始する。
 娯楽の少ない当時、この武術同好会は次第に多くの会員を集めて行った。



西郷派大東流合気武術発祥の地、
北九州市八幡東区の豊山八幡神社。


指導員に稽古をつける曽川和翁宗家。



昭和42年(1967)4月……北九州市八幡東区春の町一丁目の豊山八幡神社の宮司・波多野英麿氏の尽力によって、当神社境内に本部「大東修気館」道場を置き、曽川和翁先生が館長に就任。弱冠十八歳。

熊本県南阿蘇垂玉(たるたま)渓谷で。ここは曽川和翁宗家が修行の場として度々訪れた場所である。



各大学の幹部達と曽川和翁宗家。

大東修気館道場玄関前で。



昭和43年(1968)2月……福岡県内の近辺大学に「大東流合気柔術学生連合会」が発足する。曽川和翁先生が各大学の指導に派遣される。当時の参加大学は福岡工業大学大東流合気柔術部、八幡大学大東流合気柔術部、西南学院大学大東流合気柔術同好会、福岡大学大東流合気柔術愛好会、北九州大学大東流合気柔術愛好会、九州歯科大学大東流合気柔術愛好会、東海大学九州校舎大東流合気柔術愛好会の合計七大学が参加していた。

当時の大東修気館道場の道場生と曽川和翁宗家(左から3番目)

この年の道場の合宿は垂玉渓谷で行われた(後列の左端・宗家)


昭和44年(1969)3月……朝日テレビ系列(旧NETテレビ)桂小金治アフタヌーンショーに出演。初めて大東流の名が電波にのって全国に知れ渡り、その儀法を披露する。(宗家二十歳)



大東流合気霊術・白刃抜きを公開をする曽川宗家の儀法。

フジテレビ万国ビックリショーの司会者役、故・八木次郎アナウンサーと。
 白羽抜きで刀を引き抜いた後、手を見せる。このテレビ出演に際し、曽川宗家は八木次郎アナウンサーと「よど号事件」についてある約束を交わしていた。
 詳細は小説『旅の衣』に出ているので、是非参照を請う。
曽川和翁宗家の枯竹斬りの妙技。

昭和45年(1970)3月……大阪万国博覧会を記念した、フジテレビ万国びっくりショー(司会、故・八木次郎氏)に出演。全国に大東流の名を更に印象づけ、大反響を呼ぶ。

 しかしこのテレビ出演と前後して、1970年(昭和45年)3月31日午前7時40分、富士山南側上空で日本初のハイジャック事件が発生した。過激派(赤軍派)学生9名による羽田発福岡行き日航機351便(よど号)乗っ取り事件である。
 のち北朝鮮に渡った犯人達は、金正日(キム‐ジョンイル)体制の中で、日本人拉致にも関与している疑いが非常に強い。
昭和45年11月25日、三島事件が起こった。


●作家・三島由紀夫について
 20世紀西欧文学の文体と方法に学んで、秩序と神話を志向、純粋日本原理を模索して自裁。著書に『仮面の告白』『金閣寺』『葉隠入門』『鹿鳴館』『豊饒の海』など多数がある。




 同年11月……三島由紀夫(1925〜1970)事件が起こった。
  小説家であり劇作家である三島由紀夫が、昭和45年11月25日、彼自身で創った組織「盾(たて)の会」メンバー(森田必勝ら5人)を引き連れて、市ヶ谷にある陸上自衛隊東部方総監部に侵入し、陸将の益田兼利総監を監禁状態にして立てこもった。
 これを阻止しようと総監室に入った中村二等陸佐は、三島の刀で左腕を切られて重傷を負うなど、八名の自衛官が負傷した。

 その後、三島は頭に日の丸の鉢巻をしてバルコニーへ出て、約千名の自衛官の前で、檄文(げきぶん)の垂れ幕、並びに蹶起(けっき)を訴えるビラを撒き、「われわれは自衛隊を愛すればこそ憲法を改正するため自衛隊が蹶起するとこを願ったのに、自衛隊はわれわれの希望を裏切った。諸君は自分を否定する憲法を何故守るのだ」と約10分間演説をした。

 三島の蹶起(けっき)を理解しない自衛官たちは、三島に向かって「総監を解放しろ」「垂れ幕を回収しろ」など野次を飛ばした。
 これを見た三島は、もはや自衛隊の蹶起は無いと判断、再び総監室に戻り、自身の刀(関の孫六)で割腹自決をした。



北九州市教育委員会社会教育認定団体の認定を受けた頃の曽川和翁宗家。昭和46年頃。



昭和46年(1971)3月……北九州市教育委員会の社会教育認定団体となる。「北九州合気武術連盟」を名称とし、曽川和翁先生が会長となる。以降この団体は、社会教育法の保護下に入り、その後、演武会や選手権大会を通じて現在も活躍している。

北九州教育委員会の認定書

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大会に参加した大東修気館の道場生全員で。



昭和46年(1971)10月……第一回全九州合気武術選手権大会を開催する。於て:八幡市民会館。日時:10月24日午前10時より。

大会終了後の大東修気館道場で。



宗家の証として、神殿に安置された西郷派大東流合気武術の「御霊」

相続した「肥前国住陸奥守忠廣」と脇差し「近江大掾藤原重政」

相続した「左正之」
昭和46年(1971)12月……初代宗家山下芳衛先生より、宗家の証である「御霊」、「肥前住忠吉」(俗にいう「五字忠」)の太刀、「繁慶」の短刀、「越前住記内」の鐔、その他の刀剣ならびに鐔などの小道具を相続する。
 また神道の関する古文書、合気柔術に関する英語論文全巻を相続する。これをもって曽川和翁先生が第二代当主宗家となり、西郷派大東流合気武術を代表する。

相続した「肥前国忠吉」

「政隋」の鐔と、無銘「月に雁」

藤原兼房の槍。