道場憲章 13



附則 師範指導員会議

 わが流の組織は指導会議によって運営され、組織を維持する。そして参加者で協議され、宗家指導の下に本会議は定期的に開催される。
 指導会議は年一回五月上旬の連休を利用して行われ、その他は「夏季セミナー合宿」や各地区で行われる「講習会」等の散会後を利用して、指導にある者だけが参加して行われる。

 本会議の議題は、次の通りであり、宗家の経験や体験が基本となって行われる。またその目的は、経営などの実務指導や、指導者としての儀法の自己点検、あるいは宗家から直接技術指導を請うものである。


【実務篇】
1.心理学で言うアイドマ理論(AIDMA)の研究並びにその応用と会員の扱い
 これは道場生募集と有能な人員確保に関する大切な理論であり、指導する側の指導意図と、教わる側の受け入れ意図を明確にして、有意義な生来性のある有能な人員を確保しようとする考え方である。

 ここで言う、「有能な人」とは、自らが「誇り高い人」である。また自分を大事にして、自身に戒めを課せる人である。
 世の多くの人は、他人に厳しく自分に甘い。また自分を粗末にして、「自分とは何者か」という、自問を試みない人が少なくない。だから「自分に甘い」とは、一見幸せのように思えて、実は最大の不幸を背負っている事になるのである。こうした人は優柔不断であり、運勢的には「凶」である。こうした人間が何十人、何百人集まったところで、こうした集団は旨く運営できるはずがなく、烏合の衆に成り下がった禍根を招く。だから人を吟味する見識眼が必要なのである。

 円滑な運営を実践して行く為には、有能な人材を確保しなければならないが、その確保にあたっては、それなりの見識眼が必要である。
 その際、入会審査は厳重に行い、教える人間は選ぶべきだと、これまでの長い経験を通じて痛感する次第である。
 人間を見る見識眼という能力養成は、組織運営の為には非常に大事なことである。
 したがって月謝收入をアテにした目先の金に転ぶ事は禁物であり、まず、入会希望者の人間をしっかり見て、大丈夫だと思った人間でも、三ヵ月ぐらいは入会見習いとしてのテスト期間を置き、直ぐには正式会員にしない事である。この間、出席状況や目上の者に対しての言葉使い等をよく観察して、じっくりとその会員見習いの人格や人編成や品性を見る事である。そして問題があれば、迷わず三ヵ月目で破門を申し渡す事である。

 また、月謝の支払いを定期的に出来ない者(身分の卑しい者は、値切ったり、不払いである事に何の心痛も感じない)は、やはり入会させるべきでなく、いざというとき、戦力にはならないので要注意である。
 更に要注意人物は、「可もなく不可もなく」の人間が一番恐ろしく、よくよく注意する必要がある。つまり、男子ならば男気(おとこぎ)がなく、無力で善良な小市民と言うやつである。
 また、こうしたタイプの人間は、道場内で、高い級位や段位は与えない事である。ほどほどに相手にして、いずれは辞めて行くと言う事を、承知しておくことが大事である。

 本当の集団を形成・組織する場合、主戦力と副戦力に分かれ、その他多勢の浮遊層(ファッションや時代の好奇心で集まった者で、気紛れに入門し、気紛れに去るタイプ)の副戦力人員を、数少ない主戦力の人がこれを統率し、管理する体制を造ることが大事である。
 またこうした組織には、集団比率の割合と言うものがあり、組織論は1:5から1:8までが有効であり、このバランスが崩れると、組織は烏合の衆になり、運営にぎくしゃくしたところが発生するので、集め過ぎるよりは、少数精鋭で行く方が長い目で見た場合、運営スムーズに行き、有能な人間を懇切丁寧に、じっくりと教育する事である。有能な人間は本当に教え甲斐があるが、無能なその他大勢は、箸にも棒にも掛からないので、そうした現実も認識しておくべきである。

 そして心理学上のアイドマ理論をしっかり研究し、組織造りに大いに役立てるべきである。
 つまりアイドマ理論とは、消費者の購買心理の過程を示すものである。
 喩えば、消費者がセールスマン(販売員)にアプローチされているとき、あるいは消費者が店頭で商品を購入しようとするときの心理的な段階を表わしたものである。
 AIDMAの「A」は注目する=Attention、「I」は興味を示す=Interest″、「D」は欲求を起こす=Desire、「M」は記憶する=Memory、「A」は購買行動=Actionを示す語句の組み合わせである。

 また道場も一つの経営体をして考えるならば、道場主は一種のセールスマンであり、顧客のAIDMA段階に応じたセールス活動を進めることが有効である。また、この理論は、広告チラシやダイレクトメールや入門案内のパンフレットを作成するうえでも有効だといわれる。

 武術と言う稽古事は、確かに子弟関係が成立し、商行為だけが総てではない。しかし謝儀の関係で儀法を教授する事も事実だが、道場も一種の経営体である以上、道場主は霞だけでは食べて行かれないのである。もし、商行為でない子弟関係と、一方で経営体としての道場が存在するならば、これは大きな矛盾であり、これからの道場主は、この矛盾の解決に向かって努力すべきであろう。


2.指導責任と監督責任の厳守
 時代は、益々複雑になり、また発生する問題も多様化している。
 日本はアメリカ並の訴訟社会になり、表皮的な法治国家であるが故に、裁判沙汰や怪我や事故等の医療保障も頻発する現代、単に「自己責任において、怪我や事故を管理する」というような時代は終わっていると考える。
 自己責任押し付け主義は、損害賠償を目的にした民事裁判では不利になる事が多く、「自己責任において……」などは法律上、揚げ足をとられやすいので、自己責任の念書は、昨今は裁判の判例から見ても、有効とは言えないようである。

 その為に、怪我や事故がないように指導するのは最も大事なことであるが、昨今はこうした事ばかりでなく、組織の管理責任を問われるような問題が浮上して来ている。こうした事を事前に防止するには、人をよく見て入門させる事も大事であるが、指導者自身も指導に対する責任と、充分な管理能力を身に付けなければならない。

 また、類似詐欺や私文書偽造、著作権違反などの問題も起こり、複雑・多様化する現代、単に道場で人を集め、指導する時代は終わったとみなければならない。
 これからの指導者に要求される事は、強弱論ばかりを問題にするのではなく、指導力が問われる時代であり、はっきりとした指導目的を持ち、その責任範囲での自己全(まっと)うである。

 教える側も、教える事によって学んでいるのであるから、この両者の間には「磨き合う砥石(といし)の関係」であり、教わる側は教わる事によって技を学び、教えるが側は教える事によって、「教える事を学んでいる」という気持ちが大切である。こうした関係が出来れば、子弟関係や人間関係も非常に良くなり、「信頼」という、願ってもない「人望」が得られる事になる。人望がなければ、人は蹤(つ)いてこないのである。

 また一方、監督責任や管理責任等も問われ始めている。
 特に管理体制が悪いと、その盲点をつかれたり、管理の甘さや、個人の持つ先入観の誤解から、とんでもない方向の問題や訴訟を抱え込む事になる。
 指導者は、どこまでが管理責任範囲であるか、ハッキリと認識しなければならない。


3.税務対策と節税対策
 指導者は、人を教え、月謝を徴集している関係上、税務や節税に疎いようでは、これからの発展はない。
 また基本的な基礎簿記程度の『貸借対照表』バランスシート/財政状態を明らかにするために、総べての資産と総べての負債・資本とを対照表示した書類)や『損益計算書』(1会計期間における企業の経営成績を明らかにするために、その期間に属する総収益と総費用を対応させ、当期純損益を表示した書類)の読み方を知る必要がある。これが出来てはじめて、経営と言う認識が深まり、税務対策や節税対策が出来るのであって、ドンブリ勘定では、恐らくこれから先の時代は生きられないであろう。

 こうした事も踏まえて、指導会議では一日掛かりで実務を勉強するのである。申告の際、経費として認められるものと認められないものくらいの科目別項目は、即座に解する実務能力の有無が問われ、熟知しておく事も、これから先は重要になる。

 また月謝収入は、プロ道場経営(道場経営を職業とする者)あるいはセミプロ道場経営(普段は会社員や、他の業種の職業があり、その余暇を利用して指導に当たる者)に関わらず、税務上の申告義務が発生する。したがってこうした税務実務に関する処理は大事である。人任せ、税理士任せではよい道場の経営は出来ない。

 月謝あるいは会費と言われるものの性質は、これ迄のある期間、不払いであっても、その不払い者の月謝も収入になるので、これには税金が掛かる事を知らねばならない。不払い金や未収金は、収入と看做されるのである。売り掛け金として「収入の部」に入り、これは不払い分の金も税金が掛かるので熟知しておくことが大事。しかしこうした事を知らない道場経営者は決して少なくない。

 また退会した者も、退会日がはっきりしない者は、この者の月謝も不払い金と看做されるので、入会する時の入門願書だけでなく、退会した時は「日付けを記入した退会届」を受理して退会させるべきである。これをドンブリ勘定的に遣ると、査察調査(通称「マルサ」といい特別査察の意)等を受け、脱税で検挙され、追徴金やその他の罰金を払わされる事になるので注意したい。ここに税務実務を理解する必要性がある。


4.道場生並びに門人の会員登録
 新しく道場を開設した准指導員補以上の指導者は、自分の指導する道場生の会員登録をしなければならない。
 わが流の登録については、総本部尚道館に対し、入会・入門してくる人間の住所・氏名・性別をメールで送付して登録するだけである。登録なき者は、会員台帳に掲載できないので、級位証や段位証を発行する事が出来ない。

 今からは、社会的責任として、本部も支部も、世間から厳しい目で見られる事は必定であり、監督責任などの責任が発生するので、この辺の義務は厳格にしてもらいたい。
 また、これは指導者としての義務であり、こうした事に従わない指導者については、段位取り消しや資格取り消しなども考えているので、厳しい態度で臨んでもらいたい旨を通告している。


5.段位や級位の管理並びに資格の維持
 退会者は以降、「西郷派大東流」並びに「西郷派」は名乗れなくなるので、流名を保護すると同時に、一旦我が流から外れたものは、自分で流派を起こす場合は、以上の名称は名乗れなくなり、また自分の履歴や経歴の中にも、あるいは資格の中にも記載する事(間接的には履歴経歴の詐称で、私文書偽造と同等に扱われ刑事の処罰を受ける)が出来なくなるので、こうした事も、違反なきように注意したい事柄の一つである。

 今現在、自分の取得している段位(階級)や身分(役職……准指導員補以上の資格)は放棄せず、大事にしたいものである。
 わが流は、退会などをして辞めた時点で「破門扱い」になり、以降、こうした階級や資格は失われるので、この辺もよく勉強すべきであり、「知りませんでした」では許されず、「履歴経歴の詐称」となるので十分に注意したいものである。



【儀法篇】
1.果たし合いの禁
 昨今は、顔を見られたりしないことから、名前・住所・生年月日・電話番号などの実際を隠して、匿名で面白半分にメールなどで挑戦を挑む、心無いストーカーのような若者が増え始めている。道場に直接顔を出したりしないことから、バーチャルゲーム感覚で、メールの遣り取り上の挑戦を楽しむ者もいるようだ。

 また素人や格闘技観戦者の中には、派手な格闘技アクションなどを真似して、自己流で、ある程度の素人試合で勝ち進むと、自分で「強い」と思うになる異常者も少なくない。
 万一、こうした者の挑発を受けて相手にした場合、非(ひ)は受けた方にあるという、不利な「決闘罪」という法律があるので、迷惑を被る事は必定である。またこうした事の対処法や、法的な措置の仕方も心得ておかなければならない。法的知識も勉強しておくべきである。

 まず、迂闊に挑発に乗らない事であり、わが流では「果たし合いの類」を禁止しているので、これは堅く慎まなければならない。

 こうした類の挑戦者に対しては、一般門人の稽古と同じ様な稽古をしてもらい、その稽古が半端なものでないと分かれば、もう、次には挑戦等の言葉は出ないようである。素人の気紛れ練習と、日々稽古する修行者としての稽古量は当然異なるのは当たり前である。

 毎日稽古している修行者は、1200グラムの八角素振り木刀を、一万回二万回と三十分から一時間連続するりしても決して根を挙げたりしないが、素人挑戦者はこうした簡単な素振りも、僅か10分も経たないうちに根を挙げてしまう。また、「静坐」一つ坐るにしても、一時間二時間と坐れる者は今迄の経験から言うと全く皆無であった。これを見ても、毎日地道に稽古している修行者と、足跡の挑戦者の伎倆の程度は大きく掛け離れているのである。

 そしてまず、礼儀正しさを説くべきであり、「技がどんなものか」という問いは、入門してから後の事であると諭すべきであり、安易に挑発に乗らない事である。
 日々の稽古を怠り、週一回や週二回等の少ない稽古量で誤魔化している者は、例え、指導者と雖も、ド素人に敗れるのは当たり前であり、こうした者は、指導者としての名を卑しめるものである。
 師範指導者会議では、こうした点検も、実技指導として行っているので、不断の稽古状態が真物(ほんもの)であるか否か、宗家から直接点検を受けるべきである。この会議は、指導者自身の点検の大切な場でもあるのだ。


2.御式内作法とその礼法の教授
 旧会津藩で培われた殿中作法である「御式内」は、礼法の中でも極秘のものである。
 まず、殿中にはその天井に同じ色彩色で、東に三本脚の烏(からす)によって太陽が顕(あら)わされ、西に蟾蜍(ひきがえる)を象徴する月が顕わされている。そしてこれは星座の二十八宿である。

 二十八宿は黄道に沿って、天球を二十八に区分し、星宿(星座の意)の所在を明瞭にしたものであり、太陰(月)は、およそ一日に一宿ずつ運行する。
 殿中における方位は、蒼竜そうりゅう/青い流で東)・玄武げんぶ/黒い亀で北)・白虎びゃっこ/白い虎で西)・朱雀すざく/朱の鳥で南)の四宮に分け、更に各宮を七分したものであり、殿中天井の配置の中には、麒麟キリン/形は鹿に似て大きく、尾は牛に、蹄は馬に似、背毛は五彩で毛は黄色の想像上の動物)や鳳凰ほうおう/形は前は麒麟、後は鹿、頸は蛇、尾は魚、背は亀、頷あごは燕、嘴(くちばし)は鶏に似、五色絢爛(けんらん)、声は五音にあたり、梧桐に宿り、竹実を食い、醴泉れいせんを飲むといい、聖徳の天子の兆として現れると伝え、雄を鳳、雌を凰という)がその間にいる事もあるし、方位を示す青龍、白虎、朱雀、玄武を顕わす事もある。そしてこうした方位を明確にした場所を殿中と言い、そこには当然、礼法が重要な要となる。

 これを指導する指導者を「家元」と言い、わが西郷派大東流合気武術では宗家がこれに該当する。そしてこれは免許を受ける場合等の印伝式などを想定して、宗家指導の下に、古法によって行われる。


3.武術と武道の違いを識る
 根本的に言って、武術と武道は大いに異なる。
 昨今は観戦スポーツが多いに持て囃されているが、現代武道を考えた場合、こうしたものは紛れもなく観戦スポーツの一種であり、観戦者の側に立った興行的試合運びで試合は運営されている。
 つまり誰が観ても、勝ち負けがはっきりし、数分刻みの時間単位で試合が進行されるという事である。そしてまず、観客を退屈させないように試合進行が行われている。
 試合の勝者は、時の英雄として扱われ、新聞やテレビ等に報道されて、ファンの喚声を浴び、英雄視される。現代武道の目的は見せる為である。

 ところが武術は、試合での勝ちを求めて修行するのでないから、幾ら上達しても、新聞に載る事もないし、テレビで稽古風景が実況中継される事もない。常に、地道な稽古を積んで、人知れず、我が身一身の体躯を遣って、秘密裡に稽古をするのが真の武術の姿である。地道な稽古は、見せない事で、儀法の祕密を保つのである。

 こうした事を比べれば、武術と武道は大きく違っている事が一目瞭然である。
 したがって指導者は、この両者の違いを十分に熟知しておかなければ、道場生を指導し、その解釈を説明する事は出来ない。だからこそ、師範指導員会議で再履修し、常々その問いを自問自答するべきなのである。


4.戈を止めるの武術観
 武術は一言で、「戈を止める」という。しかしこの意味を本当に理解している人は、武道家と雖(いえど)も、そんなには多くない。

 武術の説く武術観は、争いを求めたり、好戦的になって自ら武技を競う事ではない。むしろそうした事は極力避けて、敵を作らない事、あるいは挑発に迂闊に乗らない事である。
 しかし、幾ら敵は作らないと言っても、八方美人になって、体裁よく円く納まる事ではない。主張すべきは主張し、毅然(きぜん)とした態度をとって、優柔不断に陥らない事である。

 「外寛内忌、好謀無決」(がいかんないき、こうぼうむけつ)と云う言葉がある。
 この意味は、外側は寛容に見えながら、内側は疑い深い上に嫉妬心が強い。謀(はかりごと)を好む癖に決断力が欠ける。
 こうした人物は何不自由なく、我が儘に育った良家育ちの坊ちゃんタイプの人間く、優柔不断に陥り易いタイプの人間である。

 また表面的には思慮深くて、人当たりが良く、好人物のように見えるが、その内心は、思慮はそれ程でもなく、注意深いように見えて、慎重に判断する事が出来ず、こうした人間を近付けたり、あるいは近くにいると、思わぬ災いを受ける恐れがあるのである。その上、猜疑心が強い為に、迅速な行動をとったり、決断力に欠けるので、やがては「患い」(うれい)を齎すのである。人間はじっくりと観察すれば、まず大きく分けて、優柔不断であるか、そうでないかに別れる。つまり決断の人であるか、そうでないかということである。

 『三国志』では、こうした人間を指して、その人間評価は「表向きの外貌は儒雅じゅが/儒学を修め、文にすぐれていること)なりと雖(いえど)も、心に疑忌(ぎき)多し」と言われる。

 また状況が複雑になると、疑い深い人間は決断が出来なくなって、最後には墓穴を掘るのである。
 真の武術家たらんとすれば、まず、「戈を止める」の本当の意味を、身をもって体感しなければならない。つまり迷わず、「百年兵を練る」の心がけで、敵に「負けない境地」を完成させることが大事なのである。そしてその原動力は「決断」である。