道場憲章 10
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第八条 指導員・師範・皆伝師範の資格・役職・地位
1.指導員(准指導員・指導員) 指導員には、「准指導員」と「指導員」がある。 また指導員以上(准師範・師範・皆伝師範を含む)の取得については、宗家一親等会員(志友会員で講習会等に参加し、宗家一親等の契約をしている者)または教伝を受ける門人であることが定められる。 ◆准指導員 准指導員は弐段以上の段位を持ち、初心者並びに有級者を対象に、その指導が可能であると判断された者に、これを許可して、資格を与えるとともに、その地位も与えている。 ・資格:宗家に替わり、後進者を指導する事が出来、その指導に際し、月謝を徴集する事を許可している。 なお、第四級までの昇級希望者に対し、宗家に成り代わって門人の昇級審査を代行し、あるいは門人の中から優秀者を推薦する事が出来る。 ・役職:師範または支部長の代理を行い、その指導を行う事が出来る。役職は支部分会指導代理を呼称できる。 ・地位:「指導員」の地位が宗家より認可される。 ・免許の発行権:なし。伝承に於ては「不完全相伝」である。 ◆指導員 正指導員は参段以上の段位を持ち、既に准指導員資格を取得して、更に「奥」の指導が出来る者に、その資格と地位を与えている。 したがって道統である、宗家の思想と教えに一致し、その崇高(すうこう)な教えを、世に広める為という目的を持つ。 ・資格:宗家に代わり、後進者を指導する事が出来、その指導に際し、支部傘下で月謝を徴集する事を許可している。 なお、第壱級までの昇級希望者に対し、宗家に成り代わって、道場生の昇級審査を代行し、あるいは推薦する事が出来る。 ・役職:師範または支部長の代理を行い、その指導を行う事が出来る。役職は支部分会長を呼称できる。 ・地位:「指導員」の地位が宗家より認可される。 ・免許(昇級・昇段)の発行権:なし。伝承に於ては「不完全相伝」である。 2.師範 師範には「准師範」「師範」「皆伝師範」の三種の師範号がある。 ◆准師範 准師範は「教授代理」である。 四段以上の段位を持ち、指導員を三年以上経験した者。 但し教伝を受ける門人の場合は「目録」以上の資格を必要とする。 ・資格:宗家に代わり、准師範として後進者を指導する事が出来、その指導に際し、支部傘下で月謝を徴集する事を許可している。 なお、級位全般ならびに初段補から弐段までの昇級・昇段希望者に対し、宗家に成り変わって道場生の昇級審査を代行し、あるいは門人の優秀者を推薦する事が出来る。 ・役職:支部指導を行い、副支部長を呼称できる。また支部長・道場長を呼称できる。 ・地位:「准師範教授代理」の地位が宗家より認可される。 ・免許(昇級・昇段)の発行権:なし。伝承に於ては「不完全相伝」である。 ◆師範 師範には「練士号」と「教士号」がある。 練士号は五段以上の段位を持ち、准師範を八年以上経験した者。 教士号は、六段以上の段位を持ち、五年以上経験した者。 ・資格:宗家に代わり、師範として後進者を指導する事が出来、その指導に際し、支部傘下で月謝を徴集する事を許可している。 なお、級位全般ならびに初段補から参段までの昇級・昇段希望者に対し、宗家に成り代わって道場生の昇級審査を代行し、あるいは推薦する事が出来る。 ・役職:練士号/地区本部の指導を行い、支部長・道場長を呼称できる。 教士号/方面指導部長の称号で総支部を補佐する事が出来る。 ・地位:「練士号」あるいは「教士号」の地位が宗家より認可される。 ・免許(昇級・昇段)の発行権:なし。伝承に於ては「不完全相伝」である。 ◆皆伝師範 皆伝師範には「皆伝上級教士号」と「皆伝範士号」がある。 皆伝上級教士号は、七段以上の段位を持ち、正師範教士号を十年以上経験した者。 皆伝範士号は、八段以上の段位を持ち、皆伝上級教士号を八年以上経験した者。 ・資格:宗家に替わり、皆伝師範として後進者を指導する事が出来、その指導に際し、支部傘下で月謝を徴集する事を許可している。 なお、級位全般ならびに初段補から五段までの昇級・昇段希望者に対し、宗家に成り変わって門人の昇級審査を代行し、あるいは推薦する事が出来る。 また准指導員補以上の資格取得希望者に対し、宗家および総本部尚道館に推挙ならびに推薦する事が出来る。 ・役職:方面指導部長の称号で総支部を総括する事が出来る。 皆伝範士号/各方面指導部長を総括し、宗家代理を職務とする。 ・地位:「皆伝上級教士号」あるいは「皆伝範士号」の地位が宗家より認可される。 ・免許(昇級・昇段)の発行権:なし。そ伝承に於ては「不完全相伝」である。 但し、級位全般並びに初段までの免状発行に当たり、宗家の名においてその発行が許可される。 また、皆伝師範のうち「範士号」を持つ者に限り、「完全相伝」(一子相伝と同格の意味をもつ)を伝承し、総本部尚道館に対し、寄附や寄贈などを行って分家を申し出る事が出来る。 【註】指導員並びに上部の師範資格は、総(すべ)て、わが流に於ては「不完全相伝」であり、「完全相伝」と異なり、自らの師範名をもって、段位書並びに級位書を発行する、一切の発行権はもたない。 また、宗家以外の名を以て、上記の免状を発行する事は出来ない。 3.指導員号・師範号の拝綬式と印伝式 各免状の授与を受ける場合は、古来より「拝綬式(はいじゅしき)」が執(と)り行われてきた。拝綬を受ける拝綬者は、決して無視できない儀式である。 御事典により執り行われる。 「拝綬式」と「お披露目」は古来より日本武術伝承の儀式であり、拝綬式と共に師範帯を、わが師匠から締めて貰(もら)うものであり、わが流においては、これまでこうした儀式をせずに、帯と紙切れを、金だけ払って郵送で貰えばいいと考えるものが大半であった。誠に情けない限りである。武術の「道」というものは、商行為の対価と違うのである。 今後はこの点を大いに反省し、日本の古くからの伝統に回帰すると共に、この伝統を後世に伝える義務を負うものとする。 免許の拝綬・綬章に対し、儀式を行うが、これを無視することは出来ない。 無視する者は、拝綬式をせず、お披露目もせず、いつ師範になったか、いつ指導員になったかの不明な人間であり、こうした行動の不可解と考え方の違いは、後々まで祟(たた)るものである。また、伎倆(ぎりょう)があっても、人格的ならびに品格的な域は、「まだまだ」であり、その資格がないと言うことであろう。 さて、拝綬式は「拝師の礼」とも謂(い)われ、それぞれの免許のランクに合わせた「印伝」を受けることで、また、これは厳粛かつ神聖なものである。免許を許された時は、慎(つつし)んでこれを受け、子弟関係に絆(きずな)を明確にすることである。更に、「宗家一親等会員」として、名誉とその誇りを持つ事は当然である。 一切は事前の御事典による。 本来、お披露目と言うものは、事前に郵便などで「何月何日に○○参段が右の日時に遵(したが)って、拝綬式を行います」という「お触れ」を出し、それに従って拝綬式を執り行うものである。その場合、出席者の多い少ないの有無は関わらず、拝綬式が執り行われる。それに対しては、あらかじめ「お触れ書き」を出し、右の日時を指定するものである。 「お触れ書き」の目的は、世話になった自分の直接の師匠や、先輩各位に対し、お礼を述べて回ることが含まれ、「今日の自分」が存在していることへの感謝でもある。 つまり、免許状を頂くに際し、これを祝って貰う人を募り、また自分は免許状をこの度頂いたと言うことを、まず文章で、前もって告げることである。そして、頭を低くし、恭(うやうや)しく、更には感謝が込められていなければならない。 免許を頂いた時の儀礼の趣旨は、「世話になった人達の謝恩」の意味が込められていなければならない。 この「謝恩」に対し、古人は師匠筋や先輩筋、更には同僚を招いて、一席設けることが古来よりの慣(なら)わしとされた。今日では、必ずしも古法通りの謝礼を行う必要はないであろうが、しかし、せめて口頭による挨拶ぐらいは最低限度の心得として、決して等閑(なおざり)にするべきものではないであろう。 【拝綬式・印伝式の形を踏む事について】 人間は自分で生きているようで、実は「人に凭(もた)れ掛かって生きている生き物」である。 「今日の自分が在(あ)る」と言うことは、単に自分の努力によるものばかりではない。人が関与している影響の方が大きい。環境にも作用された事実は否(いな)めることができず、人によって自分が存続してきたとも言える。こうしたものへ有形無形の感謝を顕(あら)わすことが、拝綬式や印伝式の中には含まれている。 ところが古来よりの伝統である、こうした「形」を無視する不届きな考え方もあるようだが、「伝統からなる形」は、決して無視するべきものではない。何故ならば、現世の物質界において、物質の象徴である形を踏むと謂(い)う行為は、何よりも大事な儀式であるからだ。 人間と動物の違いは、人間は「儀式をする」というその行いの中に、動物と一線を画するところがあるからだ。儀式をしなければ、人間は動物の日常と、何ら変わりない生き物になってしまう。人間と動物の日常の違いは、この儀式をするか、しないかによる。 人間の儀式は「神に通じる儀式」である。したがって、この儀式を「神祀(かみまつ)り」という。儀式の大事が薄れつつある現代、神祀りの根本を成す神体などの偶像崇拝は、厳しく戒めると言うのが現代の風潮のようである。 ところが、物質一辺倒の世の中でありながら、神を偶像崇拝化する戒めというのも、また訝(おか)しなもので、この根本には物質に対峙(たいじ)する唯心論的な戒めであるようにも思われる。 しかし、物質界と謂(い)われるところにとって、ある形式を執(と)って神を祀ると言うのは必要なことである。精神世界における実体には、本来形式など無いが、肉体を持ち、更には未熟な霊的神性を持っている、発展途上の段階にある人間は、「心の持ちよう」だけで、生命力を発揮すると謂うことは難しいし、志(こころざし)もその念だけでは成就し難い。また、その想いだけで、「力」への変換を容易にすることも難しいであろう。何かの媒体が要(い)るのである。これが「神祀り」の行為である。 「力」というものは、容易に顕(あら)われ難い存在なのである。その為に、現世にあっては「形を踏む」という筋道が大事になる。また、この「形を踏む」という行為は、厳粛(げんしゅく)かつ静穏な雰囲気の中で、整然と行われることが大事である。 したがって、拝綬式・印伝式やお披露目の実行日は、日取り的には、人が集まれる日曜や祝日の方がよいだろう。大勢からの祝福を得る為である。祝福を受けると謂うことこそ、儀式の重要課題である。 いわゆる簡単に言えば、結婚式などの儀式に似たもので、免状取得は個人的なものでなく、公(おおやけ)のものとなる。したがって、「公」である以上、その資格を得たと言うことはそれだけ重い責任も生まれ、また自分自身の指導者としての自覚も生まれるものである。それは大勢の祝福によって生じるものであろう。 お披露目は、拝綬式・印伝式に参加する者と、そこに集まった人間とで執り行われるもので、一人以上の参集者を有し、またその場に参集した人により、「免除取得授与の証人になって貰う」という事になる。 お披露目は予算に応じて大小の形があるが、小を挙げるならば、拝綬式に集まって貰った人に酒食を振る舞う、その程度のものでよく、予算も経済状況に応じて、道場(普通、道場で行う場合は、場所の借り賃代として、細やかな謝礼を包む)で、近所の寿司屋から寿司の大鉢をとり、参集者全員でビールで乾杯と言う簡易な方法もあるし、大は何処かのホテルを借り切って、盛大に行う事も出来る。小規模で行うなら、一万円程度で済むであろうし、大規模で行うなら結婚式くらいの金は懸(かか)ろう。 これは拝綬者その人の「志」であるので、宴(うたげ)の大小の形や規模は問わない。問題は拝綬者の取り囲む環境の、暖かい祝福の度合いである。 また、拝綬式を行う拝綬者は、斎戒沐浴(さいかいもくよく/「沐」は髪を洗う、「浴」は滝の水などの聖水で躰(からだ)を洗うの意味で、心を清め身を洗うことをいう)をし、身を浄め、紋付き袴に服装を正し、正装をもって授章されることが古来よりの慣例(しきたり)とされている。しかし今日では、道衣などで受ける簡素の形でも許されている。ただし、これは紋付・羽織・袴を持たない外国人に限られることであり、やはり日本人は、せめて自前で紋付袴くらいは揃えておいて、正装にて拝綬式に臨むのが「道」を踏み行う者の努めであろう。 問題は、慎(つつし)んで恭(うやうや)しく、畏敬の念を持ち、拝綬・印伝に対し「虞(おそ)れを抱く」と言うことである。ここが、「金で紙切れを買う」という蔑視(べっし)の意識を離れ、この恭しさが自身を一等も二等も、崇高な存在として引き上げるのである。拝綬・印伝を受けた者に魂が入り、それが本物となるのである。したがって、それは今後の「大いなる自信」になるのである。また、「毅然(きぜん)とした態度」も、此処に宿るのである。 さて、「拝綬式」を実行するに当たり、拝綬者は次の形を踏んでこれに臨まなければならない。それは次の通りである。 【拝綬者の拝綬式までに行わなければならない5つの行い────御事典の大事】
以上の5つの行いは、拝綬者にとって非常に大事であり、自分の取り巻きと、道場での環境を確認する上で大事であり、こうした事を確認することにより、「人情の機微(きび)」と言うものが生まれるのである。また、これこそが人間と動物を隔てる、一線を画する行為であると言えよう。
武術や武道と言われるものは、「道」を柱にした心の拠(よ)り所である。そこには師と門人の関係があり、また先輩や同僚との関係があり、更には後輩で形作られる関係が存在している。この環境が良好な場合、その人の伎倆も精神性も共に伸びていくのである。 |