●武術と武道の違い
武術は、元来先人の智恵としての経験から積み上げた「戦訓」を活かして、長い時を経て完成したものである。そして武術と武道の違いを単刀直入に述べるならば、武術は「負けない事」を教えるが、武道は「勝つ事」のみを強調するという思考である。
さて「戦訓」とは、元々失敗や敗北の本質から成り立ったもので、それらの原因を冷静に見つめ、分析し、その中から新たな教訓を導き出し、次回の勝利へと結び付けようとするものである。
戦いの場に於て、勝者はいつまでも勝者であり続ける訳はなく、屡々(しばしば)先の敗者に覆(くつが)えされる場合が往々にしてある。それは敗者が、これまでの戦訓を活かして冷徹に分析し、研究し、対抗策を考えて、修練を繰り返し、激しく迫るからである。
此処に失敗や敗北の本質が生かされているのである。
これに対して勝者は、勝ちに気を良くし、大衆層の全人格を代表し英雄を気取り、あるいは安易に奢(おご)り高ぶり、戦勝気分に酔い痴(し)れて、敵対する相手を単純に弱者と見下し、侮り、自らの短所を根底から正しく見つめ直す事を怠るからである。
つまり物事を客観的に観る事を忘れてしまう為である。この意味で試合の勝者は、まさしく、勝ちが「一場の夢」であった事を、後になって思い知らされるのである。
また武道の格闘が、躰のみを張っているのに対し、武術は古人の戦訓から学んだ「智慧」(ちえ)を生かし、「術」を巡らし、それを実戦に応用するのである。この智慧と術こそが、秘伝の源泉なのである。
古来より、「勝者の勝ち戦の戦法より、敗者の負け戦の敗因の方が、その価値としては大きい」と謂われる所以は、これである。
人生に於て、明暗を分けるのは勝者の奢りと、敗者の執念であり、この双方が火花を散らしてぶつかり合った時、次の軍配はまさしく先の、一敗地に塗れた敗者に挙がるのである。
武術は「負けない事」を教えると謂(い)う事が、実は武術の極意であり、負けない事、付け入られない事、侮られない事、攻められない事が、先人の智慧となり、やがてこれが「秘伝」となったのである。
さて、武術と武道の違いを、呼吸法も面から迫ることにしよう。
●武術の呼吸観
先ず、これを一言で解り易く例えるならば、武術はヨーガの呼吸法や瞑想の呼吸法に似ており、武道は西洋スポーツを近年に利用した筋力トレーニングであるので、言わばラジオ体操的なものであり、基本は西洋体操を模倣したもので、その動きは呼吸法を無視したものが多く、早い動きで、身体の振り子反動を利用している動きが多い。振り上げや脚のキックなどがこれに入る。
その為、その不完全性を認める動きとして「深呼吸」を付け加えているが、それ自体も形式的で早い動きであり、筋肉の緊張を益々高めるものとなっている。
つまり筋力とスピードの養成を狙ったもので、躰の柔軟性を目的としたものでない事が分かる。
躰が柔軟性に欠けていれば、その頭脳もまた柔軟性に欠け、柔軟性の欠けた中からは変応自在な業は飛び出す事がない。
結局、力ある者が弱き者を下し、手の早き者が遅き者を叩くという、弱肉強食論に戻ってしまう。これでは詰まるところ、十六世紀の乱世の兵法に、次元を逆も取りさせただけであって、先人の培った智恵が全く行かされていない事を物語っているだけである。
また武術と武道を比較した場合、武術は正対し、対峙する双方はお互いが「敵」であり、この辺が武道の「相手」という感覚とは異なっている。
武道競技は、お互いが相手であり、従って相手がルール違反をしたり、卑劣な手段を遣ったり、禁じ手を遣ったり、得物を持ったりすると罵声の限りをあれこれと論い、また一人に対し、二人以上の相手が現われて勝負すると、卑怯と詰って、これを憚らない。一対一で、正々堂々と、正面からというのが武道競技のスポーツ的ルールである。
また、演武形式を取っている合気道や大東流やその他の柔術は、双方の相手が「取り」であり「受け」であって、「敵」という感覚を持たない。
こうした演武形式の武道は、定められた約束事を、約束通りに熟し、品評会式に出来不出来を競うだけに終始する。早い話しが、狎(な)れ合いの中で成立している演武を無難に、失敗無く、熟(こな)すだけの事である。
しかし「戦い」という実戦の中で、自分の襲い掛かる輩に対し、「敵」という感覚が無ければ、武術としての「術」は成り立たない。
敵は一人とは限らず、また素手であるという保障もない。巧妙な手段で悩ますかも知れないし、特殊な隠し武器を遣って、ほんの一瞬の隙を窺って攻め込んで来るかも知れない。
西郷派大東流は、こうした多敵に対して「多数之位」(たすうのくらい)「多敵之位」がある。
これに備え、防備を図ろうとすれば、まさに敵対者は「敵」であり、あらゆる手段を計算に入れて、「心の備え」をしておく事が肝腎である。
武術には、不慮の出来事に対する備えの心がある。その心を「呼吸」というのである。
この呼吸は一般に言う、空気取り入れの為の、息の吐納だけではない。隙(すき)を作らぬという事である。
そしてまた、この呼吸は、相手と接し、あるいは人間と接し、良好な人間関係を保つ為の心得であり、時としては護身の備えにもなる。ここに相手の、あるいは敵の呼吸を外したり、受けたりする極意が存在するのである。
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