合気揚げの基礎知識 1




合気揚げの基礎知識について


 幕末から明治に掛けて、攘夷思想と暴発テロが渦巻いた。そしてこの歴史的な時代を背景として、極めた特異な“合気揚げ”なるものが派生した。それは、幕末の攘夷テロと、廃刀令から発した護身の為の防禦戦闘思想だった。







●大東流流名由来と伝説的歴史観

 大東流流名由来には、多々諸説があり、またこれ等が各地で実(まこと)しやかに囁(ささや)かれている。
 今日、大東流の流名由来の根拠は「新羅(しいら)三郎義光」や「大東の館(やかた)」等がその中心になっているようである。
 これ等の説によれば、「大東流合気武道は、今から八百有余年前の清和(せいわ)天皇の末孫(まっそん)である新羅三郎義光を始祖として「大東の館」で修練したことに因(ちな)み、《大東流》と称され……云々」と説明する団体もあるが、これは歴史的根拠がないもので、対象から昭和に掛けての後世の仮託である。

 武田惣角(たけだそうかく)は字学のない文盲の人であったが、近代希(きんだいまれにみる)にみる武術の達人で、特に剣は榊原鍵吉に学び、直新陰流(じきしんかげりゅう)の奥儀を極め、剣客(けんかく)の域に達していたといわれる。明治の世になっても、羽織袴に刀の大小(だいしょう)を帯刀(たいとう)し、時代遅れの武者修行をして、日本全国を巡回した武芸者であった。

 元会津藩家老・西郷頼母は、このような惣角を哀れに思い、武芸(剣を捨てて柔術で)で自立出来るようにと、彼の為に架空の伝書の形式(原本)を作成して与え、「会津藩御留流(あいづはんおとめりゅう)は清和天皇に源を発し、代々源氏古伝の武芸として伝わり、新羅三郎義光(しいらさぶろうよしみつ)に至っては大東の館で一段と工夫を加えた。即ち、戦死した兵卒(へいそつ)の死体を解剖して、人体の骨格を研究した上で、女郎蜘蛛(じょとうぐも)が獲物(えもの)を雁字絡(がんじがら)めにする方法を観察して、合気柔術の極意を究めた……」(牧野登著『史伝・西郷四郎』より)という甲斐・武田家伝説を付け加え、新たに「源正義」(みなもとまさよし)の名前迄を授けたのである。

【註】特記事項として、赤文字の戦死した兵卒の死体を解剖して、人体の骨格を研究した上で、の箇所の部分であるが、日本で初めて解剖の許可が許されたのは江戸時代の中期である。当時の元号で言えば、宝暦四年(1754)であり、歴史的に見れば近世になってからの事である。
 では、なぜ解剖が禁じられて来たのか。それは大宝元年
(701)刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らが編纂した法律の「大宝律令」による。大宝律令は日本の法律の「もとじめ」である。その中に、「人間の解剖は行ってはならない」とある。以来、江戸時代の半ばまで約千年以上、解剖はしてはならない事であった。つまり、ずっと禁じられて来たのである。

 江戸時代半ばになって、日本で初めて人体を解剖したのは、山崎東洋
(やまざきとうよう)と言う医師であった。この時、解剖された者の名前は、屈嘉(くつか)という名前が残っているが、この者のは打ち首になった死刑囚だった。
 そして解剖は、これより遅れて杉田玄白
すぎたげんぱく/江戸中期の蘭医。1733〜1817)がオランダの解剖書を手本として、人体解剖を行う事になる。有名な『解体新書』は、この時に発表されたものである。

旧会津藩家老・西郷頼母(保科近悳)。実質上の大潮流合気の編纂者で、頼母の目指したものは、欧米ユダヤの血のネットワークに対峙(たいじ)した「大東流蜘蛛之巣伝」だった。

 さて、惣角は、頼母の言を墨守(ぼくしゅ)し、会津藩の名を恥ずかしめないようにと御留流、後には頼母が大東亜圏(だいとうあけん)構想から、大東流を名乗ると、これまで自らが流名にしていた惣角流とともに大東流柔術を名乗り、総務長や、更に大東流合気柔術本部長と名乗り、生涯を通じて宗家とか、何代目とかは一切名乗った事がなかった。

 この事からみても大東流の流名由来が、大日本武徳会(だいにほんぶとくかい)創立時(明治31年)に、当時の大東亜圏構想に因(ちな)んで、頼母によって命名された事は明らかである。
 この命名によって、当時大陸問題に関わっていた西郷四郎の思想(大東塾を名乗る。【註】但し、影山正治の昭和期に創設された「大東塾」とはことなる)が、何らかの形で流名由来に投影されていたであろう事は容易に推測出来る。或いは最終的な命名者は頼母であったにしても、実質的な流名由来の立案者は、寧(むし)ろ四郎によるところが大きかったかも知れない。

 また四郎が講道館出奔(しゅっぽん)の際に、書き残した一書の題名が「東洋諸国一致政策論」であった事から、吉田松陰(よしだしょういん)の「海防論」(かいぼうろん)の影響を受け、日本を中心としたアジア諸民族の団結を以て、アメリカ、イギリス、フランス及び、ロシア等の欧米列強に対抗する事を主張している。

 この論説の中心人物が樽井藤吉(たるいそうきち)であった。
 樽井藤吉(1850〜1922)は大和(現在の奈良県)出身の社会運動家で、自由民権運動に参加した。社会問題・大陸問題に関心を寄せ、1882年(明治15年)東洋社会党を結成したが、大井憲太郎おおいけんたろう/政治家・社会運動家。豊前出身。民撰議院設立論争で尚早論を批判、自由党左派の指導者。1885年(明治18)大阪事件を起し入獄)らと大阪事件に連座した人物であり、『大東合邦論』は大東亜共栄圏構想に大きな影響を与えた。
 その著書『大東合邦論』に、西郷四郎は以前から共鳴していたに違いなく、欧米列強を意識して「大東」が、その流名になった事は極めて信憑性(しんひょうせい)が高い。

 また、菊池一族の政治的軍事的思想的色彩の強い『正義武断』というスローガンを考えれば、その末裔(まつえい)が、危急存亡(ききゅうそんぼう)に対して同じ様なスローガンを掲げ、欧米列強の脅威(きょうい)に危機感を抱いたとしても、何ら不思議ではあるまい。

 明治初頭から起こった「大東亜」の大アジア構想は「大いなる東(ひむがし)」即ち、聖徳太子(しょうとくたいし)が隋(ずい)の煬帝(ようだい)に宛(あて)た書簡の「日の出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや……」といって憚(はば)らなかった事を今更(いまさら)持ち出すまでもなく、極東の中心は「日の出ずる国」日本であり、歴史家の多くは、この「日の出ずる処の天子」を聖徳太子としている。

 隋の煬帝あてた国書のこれは、最近の研究によって、「日の出ずる処の天子」と名乗った人物は倭(わ)の大王(おおきみ)であり、国王であることから、聖徳太子説が薄れ、聖徳太子は推古天皇を補佐した「摂政兼皇太子」であった事から、大王とは推古天皇(すいこてんのう)ではなかったのかと言う説が浮上している。
 もし、この大王なる人物が推古天皇とすると、隋側の資料には女王として記載されていなければならない。

 ところがこうした記載は見受けられず、隋側はあくまで「国王」イコール「男性」であると「倭国」わこく/古代日本)の描写を行っている。
 これを考えると、此処に浮上してくるのが「九州王朝」であり、かつて「九州のスメラギ」(スメラギとは天皇を指す)と称された「菊池一族」が浮かび上がってくるのである。

 当時、「倭国」は大和朝廷とは別の国であり、この倭国こそ「大いなる東(ひむがし)」の「大東」と云う事になる。
 そして明治初期、菊池一族・西郷太郎の末裔(まつえい)であった西郷頼母は、会津藩御留流に「正義武断」と「大いなる東」をスローガンに掲げ、「大東流」を名乗るのである。
 「日の出ずる処の天子」の国とは「大いなる東」であり、これはまさに「九州のスメラギ」を指すものであった。
 そして「大東流」という流名には海外を睨(にら)んだ思想的、或いは政治的な時代背景があった事が窺(うかが)えるのである。

福島県にある霊山神社。
霊山神社はその紋が笹竜胆である。

【註】霊山神社境内には「全国合気道の発祥の地」という建立碑が建っているが、これは西郷頼母が日光東照宮の禰宜(ねぎ)の職を終え、霊山神社の宮司としてこの地に赴任した事に由来する。頼母の宮司時代、ここには度々武田惣角が会津御留流の儀法を授かりに訪れていた。
 後に頼母の授けた儀法は武田惣角によって、研究され、異なった形で発展していった。そして頼母が大日本武徳会の発足に伴い、「大東流」を名乗ると、惣角も「大東流柔術総務長」あるいは「大東流柔術本部長」を名乗り、巡回指導を行った。こうした時に入門したのが、合気道の創始者・植芝盛平であった。
 霊山神社境内の中にある、「全国合気道の発祥の地」という建立碑は、正しくは「大東流発祥の地」の碑であり、合気道と大東流は、その根本的な武術思想も技術体系も異なっているのは明白であり、「全国合気道の発祥の地」とするのは間違いである。

元会津藩士・鈴木天眼
(東洋日の出新聞社社長)

 当時、頼母が南北朝期の尊皇家北畠(きたばたけ)一族を祭神(さいしん)とする福島県・霊山(りょうぜん)神社の宮司の職にあり、頼母自身、既に十三歳の時には大和畝傍山(やまとうねびやま)・神武(かんむ)天皇陵に参詣して、一詩を賦(ふ)している程の勤皇家(そんのうか)であった事を考えれば或いは「大東流」命名が、頼母の「極東の中心、日の出(い)ずる国日本」の独創であったのかも知れない。

 また、脊髄(せきずい)を冒(おか)されアル中に陥って、苦渋の翳(かげ)りが見え始めたかに見える、講道館を出奔したばかりの当時の四郎にとって、大陸飛翔(たいりくひしょう)の夢と、講道館を離れて、もう既に帰る処がない「内なる会津」の、故郷を模索(もさく)を「大いなる東(ひむがし)」に託したのかも知れない。

西郷四郎

晩年の西郷四郎。西郷頼母の養子となり、柔道の「山嵐」(やまあらし)でならし、小説『姿三四郎』のモデルとなった。写真は晩年の西郷四郎。

 ともあれ武士道精神と、陽明学の知行合一ちごうごういつ)の投影が『大東合邦論』によって、命が吹き込まれ、「大東流」と命名した西郷親子の、何れかの理想がはっきりと掲げられている。
 恐らくこの親子の何れかによって、海外を意識しながら『正義武断』(せきぎぶだん)を掲げ、それを総称して「大東流」と命名したという事が正直なところではあるまいか。

 一方において、嘉納治五郎の目指す講道館柔道は、連綿として続いて来た日本武術を排して、体育と言う名を借りて、競技を主体にするものであった。
 つまり上級武士の戦闘思想の中心課題であった、武士道精神に則って、戦略(strategy)を巡らし、戦術構想を練ると言う会津藩御留流と、講道館柔道は大きな思想上の違いがあった。またこの事が、四郎と嘉納を深い溝をつくり、やがて四郎は講道館を出奔する原因となる。

  講道館を出奔した当時の四郎の行き先は、同郷の元会津藩士・鈴木天眼(てんがん)であった。四郎の長崎時代は、会津藩の弓術の技を近代弓道に生かし、後に弓道九段(武徳会にはその記録がない)の範士になっている。弓道は大東流と同じく、かなりの集中力を必要とする武術である。丹田呼吸の養成と集中力は、弓道と共通していたのである。

 また、長崎県には四郎の主宰した「瓊浦(たまうら)游泳協会」(会津藩校日新館には泳法訓練をするプールがあった事に由来している)があった。
 四郎の長崎時代は、多くの挿話があり、その中でも「思案橋事件」は特に有名である。
 この思案橋(しあんばし)事件は、人力車の車夫が六、七の外人から袋叩きに遭っているところを、そこに通り合わせた四郎が助けたという事件である。
 四郎は今籠町万歳亭の小方定一と事件当日夜、飲み明かし、溺酔状態で小方に抱えられるように思案橋に差し掛かった。そして見たものは、袋叩きにあっていた車夫の姿だった。四郎は直ぐに駆け寄り車夫を助け起こして、小方に預けた。そして巨漢の一人の襟髪(えりがみ)を掴み、得意の山嵐でこの巨漢を投げた。これを見た他の外人群が咆哮を放って四郎に襲い掛かった。小方は、四郎が溺酔状態であるだけにこれを心配して、東洋日の出新聞社の鈴木天眼を呼びに走った。そして引き返して来ると、橋の上には一人の外人の姿もなく、四郎一人が袴の裾についた泥を払っていた。この時、四郎は外人全員を川の中に叩き込んでいた。この一連の出来事が、思案橋事件だった。
 当時の地方紙は競って、この事件を取り上げ、四郎の武勇伝を痛快に書きまくっている。

 また福岡県久留米市には「南筑武術館(なんちくぶじゅつかん)」があって、四郎はここでも柔術師範を引き受けている。
 この時、既に脊髄カリエスで背骨を痛めていた四郎ではあるが、大東流多数捕りの技を使って、瞬時に数人の男を投げたという多数之位(たすうのくらい)は、この時に生れた武勇伝である。
 これらは全て、会津藩の武術が母体となった《合気武術》であった。



●大東流編纂と霊的神性

 さて時代をこれより少し前に戻し、日本に於ける幕末の動きと、西郷頼母の大東流編纂についてを説明しなければならない。

 時は、尊皇攘夷(そんのうじょうい)の渦中に孝明天皇を中心とする《公武合体》の政策が幕府によって打ち出され、会津藩は近辺の諸流派武術の研究及び編纂(へんさん)を始めた。
 元々会津藩校日新館の教科武術であった太子流兵法(軍学)や溝口一刀流や柔術等の極意に、馬術、古式泳法、弓術、居合術、槍術、日本式拳法(柔術の当身を中心とした柔術における拳法)を加え、公武合体が囁(ささや)かれ始めた頃、藩政に基づいて編纂・改良・工夫したのが大東流の母体を成した会津御留流(あいづおとめりゅう)であった。

 この武術は複数の研究者達の叡智(えいち)を総結集し、幕末期に完成した総合的な新武術である。
 そして、曾(かつ)てどの流派の武術も真似の出来ない、高度な技法にまで発展させていった。
 これを頼母は軍事的思想的スローガンを掲げて、幕府要人や皇族要人を警護する奥女中及び、上級武士の為の警護武術に作り上げて行った。
 だが大東流の意図するところはそれだけではなかった。古神道(こしんとう)に立ち戻れば、「人間は人各々に天御中主神(あめのなかぬしのかみ)の一霊一魂を受けた玄妙(げんみょう)なる小宇宙神であり、その根本は大霊と同一の一雫(ひとしずく)である」という惟神(なんながら)の玄意(げんい)が含まれている。

 「陰が極まればやがて陽に転じ、霊妙(れいにょう)になる」という精神的な涵養かんよう/自然に水がしみこむように徐々に養い育てること)は決して「合気行法」と別物ではない。大宇宙の玄妙なる霊気はやがて人間に及び、その森羅万象(しんらばんしょう)に至るまでの玄意が大東流の全貌(ぜんぼう)であった。そこには古神道や密教の秘め事や諸々の約束事があり、言霊の妙用をも含めて大東流の「大東」は神聖なる聖域(日の出と共に陽に転じる霊妙)を有し、霊的神性に貫かれた「大いなる東(ひむがし)」を意味していたのである。

 そして、こうした思想の中で“合気揚げ”なる特異なものが生まれた。“合気揚げ”の背景にあるものは、武術や武道を超越した一種の戦闘思想がそこにあった。

 明治維新とは、まことに奇妙な事件である。日本の歴史の中で、この時代だけが、近代化を標榜しながら、時代を逆行する現象を起こすのである。

 この時代を歴史的に見て、日本に近代国家を創出する為の一連の過程として歴史学上では捉えられているが、西欧の近代民主主義を見てみれば、専制君主制を打倒して近代国家が出現したが、日本の場合は、天皇制を要求し、慶応3年(1867)の大政奉還、王政復古の大号令、翌年の鳥羽伏見の戦い、五ヵ条の誓文などによって、復古が成り、そしてデモクラシーを超越した天皇大権の名の下に、近代国家を出現させたという事である。

 そうした背景の歴史の裏に、会津藩は御留流から新たな新武術を開発する為に総合武術を開発しつつあった。そしてその基本に据えられたのが「合気揚げ」であった。

 「合気揚げ」の基礎知識を理解するためには、まず、大東流合気武術(一部には大東流合気柔術という名称で呼ばれるが)と言う儀法(武技)がその発祥当時、どのような時代背景にあり、これがどう編纂(へんさん)されていったかという事を、歴史的史実を含んで理解していなければならない。

 大東流は、一人の天才によって創始された武術ではなく、数百年単位で、何人もの古人の智慧
(ちえ)を集積しながら誕生した武術である。
またこの武術の背後には、何人もの無名な研究者が居たからこそ、大東流が他の古流派の群を抜いて開花したといえるであろう。
 そして大東流が特異とするものは、まさしく「合気」であった。

 元会津藩家老西郷頼母は、西欧列強の正体
(国際ユダヤ金融資本の上に西欧の肉と皮を纏った西欧支配層)を見抜いていた。西洋と言う、欧米の実態が、実はヨーロッパやアメリカの骨格の上にユダヤと言う肉を纏ったものであるということを知っていた。だからこれに対峙し、牽制(けんせい)するためには「大東流」というものが表面に打ち出されていなければならず、この流名由来は「九州のスメラギ」と言われた菊池一族の「大いなる東(ひむがし)」であった。

 そして欧米ユダヤ
(国際ユダヤ金融資本)の「血のネットワーク」(欧米は同じ先祖から出て、血統のつづいている者、あるいは養親子を含める法定血族からなる血族結婚によってその血統を重んじる社会)に対峙(たいじ)して、西郷頼母の掲げたものは「大東流蜘蛛之巣伝(だいとうりゅうくものすでん)という日本人の霊的神性を蘇らせる特異な『秘伝科学』だった。