現代医学は差別の医学といえます。その根底には徹底した「差別化」が貫かれています。差別思想そのものが、また現代医学を代表しています。
では平等思想に貫かれた医学というものは、一体どういうものなのでしょうか。
その良い例を幾つか挙げてみましょう。
例えば、中耳炎や蓄膿症で、切開手術もせず、また抗生物質も使わず、じっと断食して水だけ飲んで恢復に向かわせるという方法があります。また風邪を引いた場合でも、一時的に食を絶ち、この状態を数日間続けますと、風邪薬などを用いずに、悪化させたり、こじらせるということはなく、速やかに恢復の方向に向かいます。
食中毒でも、下痢や発熱が起こっても、安易に抗生物質を使わず、二三日食を絶てば、容易に自然治癒するものです。
このような手短な応急処置があることを、皆さんに分かって頂きたいと、私達、大東流霊的食養道研究グループは、思っているのです。
現代医学は、難病・奇病を前にして、益々混迷しております。また、こうした混迷の医療が人類の共通項として長く続くはずもありません。真理は必ず芽を吹くものなのです。
しかし、現実は残念なことに、宗教団体の経営する医科大学病院や看護大学病院では、神の愛、神の慈悲を口に唱えながらも、一方で殺菌剤や、安易に抗生物質が使われ、一見平等に見せかけた、その実、皆殺しの医療が繰り広げられています。そして、然もこの矛盾に全く気付いていないのです。
神の愛を信じ、神の慈悲にすがって、「愛」を説く限り、抗生物質の乱用や、異常細胞の皆殺し医療の罪を、意識するのでなければ、ここに従事する医療関係者の信仰はウソになります。
こうした矛盾に対し、欧米の病院や大学病院では、自然治癒の人間の力を最大限に発揮させて、抗生物質の使用は必要最小限にとどめるという、自然食医療が試みられ、これが大きな成果を収めています。欧米の自然食療法は、例えば盲腸炎の患者には、急性でない限り、安易に切除手術は施さず、約一週間程度の断食を実行させて、これによって自然治癒させるという治療を施し、将来の新しい医学の体系をつくりつつあるのですが、日本の現代医療では、こうしたことは殆ど行われず、「盲腸は、人体に不要なものだ」と極め付けて、即座に切除をしています。
果たして、人体に不要なものが存在するのでしょうか。
例えば、盲腸は他の動物に比べて、人間では「退化してしまった」と決め付けるのは、早計であり、そうした人間側の主観でこれを無意味と葬り去り、切除してしまうのは、まさに人間のご都合主義から生まれた、歪んだ思想であると言えないでしょうか。
もう、随分前になりますが、米国の医学雑誌には、人体における盲腸の必要性の論文が載せられ、この話題が世界を駆け抜けましたが、どういうわけか、日本では、差程問題にならず、マスコミも何ら取り上げることがありませんでした。
また、アメリカの医師でメソジスト病院長である、サティラロ博士が玄米と野菜食で自分の睾丸癌と前立腺癌を治癒させたということが医学雑誌『ライフ』で報じられ、世界的な話題となりましたが、日本のマスコミは医療関係企業や医師会の圧力で、何ら報じられることはありませんでした。
無為とは、無為自然であり、自然のままで作為のないことを言います。これにおいて人知の介入は必要ではありません。
ところが、近代西洋科学はこの中に、人為を持ち込み、作為することで、自然をコントロール出来るのではないかという妄想を持ち込みました。
その妄想は、一体何と結び付いてしまったのでしょうか。
人間十人分が一年間食べられる穀物で、一頭の牛を育て、これを食用にするという徒労と多忙を齎したではありませんか。
これは科学する農業の中で、近代畜産の利益率で、その分、人間は肉牛の美味を満喫できるではないか、という人間側のご都合主義が根底に流れています。
こうした考え方の根本には、いわゆる弁証法的に、左右いずれかが、正・反・合を繰り返しながら、無限に発達し、連鎖するという思想が流れています。
ところが、世の中の姿や、森羅万象を有する大自然は、こうした唯物虚構理論が考え出した弁証法に則って、直線的あるいは平面的に発達するわけではありません。
この世界では、立体的に物事が組み立てられ、遠心的に膨張し、拡散する性質を持っています。
したがってこうしたものが、極限かつ極大に至った場合、破裂、分裂、破壊、崩壊、消滅を余儀なくされます。
しかし極限かつ極大の域を超えた所で、消滅したはずのものが再び反転して、求心的に収縮をし、中心・凝固の方向に向かって再び姿を現わし始めます。
すなわち、有形の形あるものは極限において分解に至り、無に帰着し、無は凝固を経由して有形となり、再び形としての姿を現わします。
こうした自然界の拡大・縮小が実態の本質である限り、自然と融合し、自他共に存在することこそ、今日の現代人が多忙を究め、徒労して精魂疲れ果て、混迷に中に奔走する愚を回避する鍵が、実はこの中に隠されているのではないでしょうか。 |
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