人間改造の秘訣
 巷には、体質改善とか、性格改造とか、人格改造とか言った言葉が満ち溢れています。
 ところが「人間改造」となると、あまり耳にすることは殆どありません。
 これは「改造」と云う言葉が、枝葉末節的な末端だけに使われて、根本に迫ろうとした意味で使われていないということを現わした現象とも言えます。
 しかし、以上を総して言えば、やはり「人間改造」ということになるのではないでしょうか。

 人間改造という、動機を可能に至たらしめる根本原理は、仏教の教える「煩悩即菩提」(ぼんのうそくぼだい)という言葉が大変参考になります。
 煩悩とは、 衆生の心身を、わずらわし悩ませる一切の妄念のことで、「貪・瞋・痴・慢・疑・見」を根本としますが、その種類は多く、「百八煩悩」「八万四千の煩悩」などと言われて、煩悩を断じた境地こそが「悟り」であると教えています。
 そして煩悩即菩提とは、相反する煩悩と菩提(悟り)とが、究極においては一つであることを現わします。

 だから煩悩と菩提の二元対立的な考えを超越することが、死生観を超越し、やがて、「生死即涅槃」(せいしそくねはん)という境地に辿り着き、生死輪廻(せいしりんね)を繰り返す「迷いの世界」(三次元顕界を指し、現世の意味)も、その根底においては、涅槃の「絶対の世界」と一つであるということの教えです。
 したがってこの教えを基盤に、人間改造を試みた時、「煩悩即菩提」に立脚した人生観にしたがって生きようとすれば、一方において、「愚」はそれを顧みることによって「賢」に辿り着くとも言えるのです。

 常人・凡夫というものは、そのレベル的分布で、低ければ低いほど、傲慢かつ頑迷的で、横柄かつ威圧的で、また「愚か」でもあります。その愚かさ故に、悩みがなく順風満帆の時は己を顧みませんから、反省するチャンスもなく、有頂天の極みにいて暴言や横暴を繰り返して、霊格を益々降下させる行いをしてしまいます。
 昨今の芸能界やスポーツ界にはこう言う人が、うようよ居ます。そして昨今の、一部の政治家の思い上がりや、傲慢は彼等以上と言えましょう。
 こうした一部の政治家は与野党を問わず、昨今の政治家の、こき下ろし政策の中に、自分自身も嵌り、自ら自身の品格や人格を降格させているようにも窺えるような、暴言と愚行を仕出かします。有頂天に舞い上がっているためでしょうか。

 本来人間は、悩みや苦しみや迷いに出会って、初めて自分の過去を振り返り、そこから反省点を探し出し、これまでの過ちを正そうとします。
 それ故に、病気で悩んだり、死生観に迷いを生じたり、事業に失敗して苦しんだり、落ち目になったことを悔やんだりして、その先に微かなトンネルの出口に通じる希望の光を見い出し、菩提に繋がる絶好のチャンスに巡り会います。この意味で、病気になることは有難いことであり、病気をしたお陰で健康の本当の意味を学ぼうとします。

 しかし、煩悩即菩提という、一見非合理に見えるこの現象は、むしろ、煩悩即地獄と言う方に偏り、この合理的に見える考え方から、「現実逃避」という一時的な思考が生まれました。
 煩悩即地獄という考え方が、現代では主流になり、苦しみや迷いや悩みから逃れることだけにエネルギーが費やされ、一時的な対処法の中に逃げ込むという解決策に終始し始めることになります。
 安易に「解決」と云う言葉が用いられ、根本的な「解消」という言葉が等閑(なおざり)にされています。
 つまり、根本原因を何一つ見つけ出すのではなく、臭い部分に蓋をするという、部分解決のみをベストとする考え方が生まれたのです。

 しかしこうした考え方は、一時的な思考であるため、一件落着的な解決はあっても、根本的に解消するという思考には繋がりません。そしてこうしたものは、何一つ人間改造には役に立たないものばかりです。
 愚者が繰り返し、悪事を繰り返すのは、根本的に改まっていないからであり、違反の上に違反、過ちの上に過ちを重ねる罪障に由来しているためです。
 こうして考えていくと、人間改造を可能にならしめるものは、一見非合理的に見える処に、実はその真理があるのではないでしょうか。

 故事に「可愛い子には旅をさせろ」とはこれを、如実に物語った諌言ではないでしょうか。
 例えば、この諌言を病気に置き換えますと、冷え症の人の場合、次第に厚着の習慣になり、何枚も重ねて衣服を身に纏った上、懐炉(かいろ)を離さずに身に付け、こうしないと、果たして冷え症は癒(なお)らないのでしょうか。
 これは一見合理的に見えます。冷え症だから厚着をし、寒い冬は懐炉を肌身離さず携帯するという事は、裏を返せば、躰を衣服で包めば包むほど、また懐炉を常に携帯するという習慣を続ければ続けるほど、益々寒さに弱い躰を作ってしまうのではないでしょうか。

 また、胃潰瘍の人は、痩身願望者から羨まれるような、「食べても食べても、太らない躰付き」をしています。俗に言う、「痩せの大食い」です。
 昨今の世俗的流行は、痩身体躯が持て囃され、「痩せている」ということが羨望の的になり、「太っている」ということは、不健康の譏を受けてしまうという風潮にあります。
 しかし痩せているということも、決して健康であるとは言えないものなのです。
 一般常識として、痩せている人は滋養食を十分に摂取し、それによって健康的な標準体質に近づけるのでは、という考え方があります。ところが、痩せている人は、多くの場合、胃潰瘍や胃下垂である場合が多く、「食べても食べても、太らない」状態にあります。
 したがって何を食べても、また栄養満点の食べ物を食べても、この一見合理的と思える栄養指導によって、決して太ることはありません。
 これはこうした人が、胃腸を病んでいるために、消化吸収能力が、標準体重の人より劣っているからです。すなわち、弱い体質であり、病的で虚弱な体躯をしているということになります。

 また一般に、酸性体質の人がアルカリ性物質を多く含んだ食品を摂ると、アルカリ性体質なるのでは、と思われています。生野菜をふんだんに食べ、海藻類を毎日多量に食べれば、アルカリ性体質になるというふうに思われています。しかし、果たしてそうでしょうか。
 野菜や海藻類を多量摂取すると、確かに一時的には体質がアルカリ性(生理的には中性)に傾きます。だからと言ってアルカリ性に変わったとは即断できません。
 本当のアルカリ性体質とは、自らの躰でアルカリを作り、それを長時間継続し、維持できる躰のことを言います。

 ところが、野菜を食べ、海藻類を美容食として摂って居る人は、その尿を検査しますと、常に強アルカリの反応が出ます。これはすなわち、大量のアルカリ成分が体外へ総て逃げ出しているということになります。
 こういう状態を防止するためには、アルカリ成分が逃げ出さないような躰をつくることが抜本的な問題であり、大量摂取でアルカリ成分を取り込むという、一見合理的に思える考え方は、生命体では全く通用しないという事が解ると思います。

 疲れやすいから、疲れないように大量に滋養食を摂る、と言った考え方は、実は間違いであり、むしろ、少食にして、食事回数を減らし、食事と食事の食間を常に六時間以上設けて、これに徹すれば疲れ易い体質は改善されてしまうのです。
 食の世界、躰の世界には、根本的には煩悩即菩提という考え方が、何処までも続いているようです。
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