精神障害と霊障
世の中を昏倒とさせる不安材料
 不安材料を大衆に投げかけることによって、世の中を混沌(こんとん)とさせる。
 矛盾は多くの不安材料を包含する。また不満材料を連鎖的に波及し、持たざる者は持てる者への羨望(せんぼう)を露(あらわ)にする。資本主義社会は市場経済にシステムが高度になればなるほど、貧富の格差は広がり始め、やがて不平不満が底辺(下層階級)から上層部(上流階級)に向かって吹き上げることになる。酷使されている、あるいは搾取(さくしゅ)されているという被害妄想が連鎖性を帯びる。暴動事件はこうした事が原因で発生する。

 こうした人間の心理状態に暗示をかけ、繰り返し洗脳を行うと、思考だけに異常を着たし、集団催眠に掛かり易くなる。
 左翼集団が徒党を組んでシュプレヒコールの大声を上げたり、集会に集結して、講演者の意見に気勢を上げ、賛成・同調の拳を振り上げたり、惜しまない拍手を送ったりするこうした心理状態は、一種の「同胞相哀れむ」の集団催眠であると見ていい。

 これは一種の巧妙な洗脳であり、唯物弁証法(materialistische Dialektik/マルクス主義の中枢をなす弁証法)で、もともと弁証法がヘーゲルにおいて精神や理念を基礎としているのに対して、ユダヤ人カール・マルクスは逆に、物質的なものの弁証法的自己展開を基本とした。
 特に否定と実践との契機を重視し、「否定の否定」というような連鎖性を導き出した事を理論詰めで追求していくと、誰もが陥る、麻薬を用いない麻薬的な洗脳法に見事に嵌(は)ってしまうのである。

 これは知的レベルが低くなれば物事を観念論的に捉えて感情に流されるが、逆に知的レベルが高くなると、物事を具体論的に考える人間の思考能力の格差が、物質的なもの物の見方に、弁証法的自己展開に否定と実践との交互に繰り返しながら、その契機を重視する機械的な論理がマルクス・レーニン主義の運動の模写として認識され、これは人間的実践を媒介とした巧妙さを利用した、見事な洗脳法となる。

 日本人大衆が郷愁(きょうしゅう)を感じたり、あるいは情緒的に考える思考は、感動や情緒を醸(かも)し出し、しかも抒情(じょじょう)詩的でもあり、その一方で微視的であり、構造的に主観を中心にして考えた平面思考であり、自分の眼から観(み)る世界観を狭義的に捉える欠点をもつ。

 一方、逆に物事を空間的に立体的に考える思考は、欧米人が得意とするもので、特に軍事戦略等に見られ、事象を見る観察眼が、高度になればなるほど、観察眼は鋭くなり、それに修正を加える場合、より具体的な改造を施すことができる。ここが平面的思考と立体的思考の異なるところだ。

 また全体の流れを把握(はあく)している場合、一局面における破壊活動は、その実行犯にとって小事のなにものでもないのである。したがって、これこそが確信の原点っであり、信念の為(な)せる技となる。
 そして地下組織で培養された革命集団は、秩序ある世の中を混沌とさせる為に、精神異常者を精神病院から解き放つ手段に出た。精神異常者の解き放ちは、物事を情緒的に考える日本人には、またとない恐怖感を植え付ける機会が到来したのである。この作業を率先して行っているのが、革命医師集団の、「日本精神科医師連合会」である。

 「開かれた精神病院」という名目で、精神病患者を病院から次々に解き放ち、自由に外出や外泊させたり、驚くべきは、車の運転まで自由に認めるという、精神異常者の「解き放ち作戦」に出たのである。
 昨今、多発する精神異常者や覚醒剤患者の暴挙や、凶悪犯罪は、こうした事が原因で、次々と日本各地で連鎖反応を起こしている。こうして世の中は、不穏(ふおん)な、重たい空気を含んで混沌(こんとん)とし始めるのである。革命集団が密かに思い続けた現実の到来である。

 日本は地形的に言って、山の多い列島である。古来より日本の人民は、山と山の間で生活して来た。山は、昔から幾多の物語や、民間伝承の民話を生んだ。
 また、山は修行の為にも分け入るところであった。柳田国男の『山の人生』には、こうした事が克明に記され、これによると、人々は何の気無しに、ふらふらと山の中に入って行く、癖のような存在があった事が書かれている。
 明治末期頃には、精神に異常を来したものが山に入り、山男や山女として棲(す)んでいた事件が多かったと言う。

 こうした民間人の行動を先取りしたかのように、当時の精神病院も山の多い小高い丘などに建設された。これを「避病院(ひびょういん)」といった。本来、避病院は法定伝染病にかかった人を隔離・収容して治療し、伝染を防ぐための病院であるが、精神病患者もこうした所に隔離・収容された。

 かつての精神病院は、檻の中の狭い空間の中で患者を隔離した。空間の狭さは、脳に影響を与え、狂暴化を防ぐものであると信じられていた。
 生物学上、狭い池で飼った鯉は大きくならない。これは植物にも同じ事が言える。ある種の植物は、室内で育てると、天井に届く寸前で生長を止める。それ以上伸びても無駄である事を本能的に悟るからだ。
 無理して伸びると、伐採され、剪定(せんてい)されてしまう危険を察知して、自ら生長を止めて自己コンロロールするのである。

 しかしその分、根を張る。その張った根から、子を生み、孫を育てる。そうなれば、人間の方が根分けして、次々に他の鉢に移し植える事を知っているからだ。
 淡水産の硬骨魚の鯉も、小さな池に入れられると自分では決して大きくなろうとしない。子を産み、孫を産む事を考える。小さいままでいると言う事は、自分は狂暴ではないと言う証を人間に示すのである。小さいと言う事は、「可愛いもの」の対象になりうる。

 したがって精神医療が未熟だった明治期、精神科医達は精神病者をこれに習って、小さな檻(おり)に閉じ込め、狂暴化する事を抑止した。しかし、この発想は裏目に出た。拘禁症に見られるように、刑務所等の狭い独房に拘束された人間を長い間閉じ込めておくと、ビルンバウム及びガンゼル症候群((虚偽性障害に近い症候群であるが、解離性障害である。刑務所や裁判所でよくみかける症状で、自分の罪を認めたくないため殆ど無意識的に嘘の返答をする。しかし、その答えの内容は事実と必ずしもかけ離れておらず、近い内容のことが多いのである。不快な状況や責任回避のために起きる。すなわちガンゼル症候群も偽痴呆と呼ばれることがある。これは詐病(さびょう)とも取れるような奇妙な言動を発するものであるが、拘禁反応は抑うつを症状として合併することが多く、それともあいまって一見知能が高度に失われたかのよに見える事がある。偽痴呆とか仮性痴呆ともい))等の病気を起こし、強度な精神分裂病へと進行する事が分かったのである。

  つまり、拘禁症は一種の精神分裂病だと解釈されるようになったのである。
 これは精神病院の規模に関係なく、現在は精神病院自体が狭い空間と考えられ、また人権擁護の立場から、「開かれた精神病院」というスローガンが、しきりに「日本精神科医師連合会」から湧き起こっているが、その意図は大凡(おおよそ)検討がつくであろう。

 ビルンバウムという医学者が拘禁症候群を分類し、それに各々の症状を顕わした。これのよると、心因性興奮状態、心因性不機嫌状態、心因性朦朧(もうろう)状態、心因性妄相形成、幻覚状態などが見られるとした。
 精神分裂病には、患者によって各々に諸症状を見せる。その中には、性衝動、感情衝動、自我衝動、接触衝動等があり、それは同性愛、加虐性、自虐性、癲癇(てんかん)、倫理的欲求、ヒステリー、宗教性妄想、妄想、緊張病、被害妄想、躁鬱状態などの諸症状を見せるのである。

 自己破壊は抑圧や反動、更には退行の過程として顕われる。これ等の初期症状は肩をピクピクさせる、頭を前後または左右に揺する、頸を振り動かす、あるいは顎関節症の状態にある者は、顎ならびに背中や肩の骨を動かそうとする。眼球にも同様の仕種が見られる。眼の焦点が定まらず、見つめる先を反らしたり、動かしたりして目付きが落ち着かない。あるいはこれが進行すると、小さく飛び跳ねてみたり、舞踏症状等が顕われる。

 今日は秩序が逆転した時代である。
 白が黒になり、黒が白になった時代である。天地が逆さまになり、加害者が被害者として世間から同情を受けるという珍現象が起こっている。これが人権擁護へのリバウンド現象である。
 この切っ掛けを作ったのは先の述べた通り、1970年代に猛威を奮った東大全共闘の、以後の行動に新左翼の実体を見る事が出来る。

 当時大学のキャンパスで無法な暴力を奮い、法と秩序を踏みにじった左翼学生達はその後、何の咎(とが)めもなく、壮年期に至って各種学術学会や医学会で実権を握り、また大学や研究施設(教授職)、法曹界(判事、検事、弁護士)や政界(左翼系政治家)、官庁(国家一種合格のキャリア官僚)や、大手一部上場企業の上級管理職として出世街道を驀進(ばくしん)している。
 また、何かにつけ当時の若かりし頃の事を回想して、自身が全共闘であった事を、鬼の首でもとったかのように自慢げに語る往年の革命家もいる始末だ。

 そしてマルクスやエンゲルスの唯物主観で建国されたソ連や、東欧の社会主義国が崩壊すると、彼等は今度は、ブルジョア的思考を相半ばにした「新左翼」(一部はシンパサイダーに落ち着いた)に早変わりした。権威としてのシンパサイダーは岩波書店を次期革命の発信源にしている。
 日弁連や精医連、或いは朝日新聞系やテレビ朝系のジャーナリズムの一部の集団は、曾(かつ)ての全共闘であった左翼学生出身者で占められている。

 彼等は政治や経済、或いは医療現場から革命を企て、新たな角度から市民社会の転覆(てんぷく)を狙っているのである。
 またマスメディアに潜り込み、「犯罪者擁護(ようご)」の立場をとり、実権を握り、国家権力の座に居座って、社会の安寧(あんねい)を根底から脅(おびや)かそうと企てているのである。これ等は朝日新聞系列のジャーナリズム等に見ることができる。

 喩(たと)えば当然加害者であるべき筈の暴走族が、被害者となって報道されたり、ストーカーを擁護したり、また新左翼系の進歩的文化人が、彼等の擁護の立場をとり、これを保護し、無罪放免に導こうとする運動を起こしているのである。犯罪や狂信や狂気を擁護し、応援して、社会を裡側(うちがわ)から混乱に陥れ、現体制を崩壊させるという事が新左翼の狙いである。

 現に、精神障害者が野放しになり、至る所で殺人事件が起こっているというのが、実情あり、この野放し状態を作ったのは全共闘の医学部出身で組織された「精医連」(精神科医師連合会)の医師達(左翼系医療法人所屬の精神科医が多い)である。
 この団体は、中枢に徹底した左翼思想を掲げ、一部の片寄ったジャーナリズム(中味は全共闘出身者)を味方につけて、現体制の裡側から、崩壊を狙って奔走している。

 この精医連は、精神病院の開かれた在り方と称して、精神障害者対策を打ち出し、精神病患者に、自由に外泊出来るような制度を作り、警察で認定する措置入院の制度を廃止する方向に持ってい行こうとしている。そして善良な市民が、安心して住める地域社会を崩壊しようと目論んでいるのである。

 現在、精神病院には精神障害病である精神分裂症(統合失調症)、妄想型精神分裂病、脳血管性痴呆症、アルツハイマー痴呆症、新興宗教によるマインド・コントロール妄想病(自己反省や告白を強く迫った場合に発病)、麻酔分析被害者(拷問や自白によって薬物被害者になった)、強度な自閉症、躁鬱病(そううつびょう)、赤面症や夜尿症、神経症、異常性欲症、シンナーや麻薬や覚醒剤の薬物依存症、アルコール依存症、パチンコ依存症、麻薬で精神障害を起こした外国人のゲリラ・コマンド訓練者の薬物依存症、警察(主に潜入捜査が対象で外事警察に所属する者)や厚生労働省の潜入捜査官(Government-men)で薬物依存症に罹(かか)った等の幅広い、多くの患者が入院し、開かれた治療を受けている関係上、外出や外泊が自由で、運転免許取得者も居れば、車も自由に運転する事ができる。所謂、全くの野放し状態である。

 このような自由な精神病者の環境の中から、1990年10月21日、元労働大臣の丹羽兵助自民党代議士が、名古屋陸上自衛隊守山駐屯地での、自衛隊創立記念式典の会場に於て、名古屋市内の精神病院に入院していた精神分裂症(統合失調症)患者から刺殺された事件は、まだわれわれの記憶に新しい。
 その他にも、公明党全委員長の竹入義勝代議士も妄想患者から刺傷されている。
 これ等の精神障害者は、どのようなテロリスト組織や犯罪組織にも属さず、妄想から起こる被害意識で、単独行動を行なうというのが特徴である。

 また、このような行動や入院患者が、どういう前歴を持っているかという事も、人権擁護の立場から、警察自体も把握できておらず、野放し状態であり、日本の精神保健体制の甘さが浮き彫りになっている。
 万一、これらの精神分裂症患者に、何者かが強い暗示を与え、被害妄想と敵愾心を植え付けたとしたら、この患者は万難を排いしても、狙撃兵のように、得物を付け狙い、殺傷するであろう。

 昨今、横行しているストーカーは、このタイプの一種の精神分裂症患者である。架空のバーチャル恋愛に、支配欲が発生し錯覚を抱く輩(やから)である。しかし人権擁護委員会は、この種のタイプの人間を精神に障害が出ていると、絶対に犯行を認めようとしない。ごく普通の、精神的には健全と太鼓判を押しているのである。
 今日はこの脅迫観念と、加害者になるであろうはずの、被害妄想と敵愾心(てきがいしん)とで、一層不安な世の中が出現し、反対勢力や意の儘(まま)にならない人間を、このような手段で脅(おど)しているのである。

 一方こうした脅しに屈して、被害者自身が精神障害を煩う事がある。これは現代が正守護神で動かされている世の中ではなく、物質中真の副守護神によって動かされていると言う事を如実に物語っている現象である。
 しかし、影で暗躍する以上の現象は、あまり知られていない。また、こうした現実が存在すると知っていても、自分には無関係であり、被害者として被害に遭遇する事がないと、多くの人が安易に考えている。
 だが、殺傷の被害に遭遇し、屈辱的な暴行を受け、あるいは精神に異常を来してからでは遅いのである。

 日本は太平洋戦争に敗北を喫し、瓦礫(がれき)の中から蘇(よみがえ)って、経済を復興させ、僅か十数年で高度経済成長を実現させ、今日の経済大国の容貌をみせた。しかし経済成長時代は、その一方に於いて、管理社会の始まりをも意味していた。

 高度成長期を起点として、日本人は総一億中流層の御墨付(おすみつ)きを貰い、「消費者は王様だ」とか、「お客さまは神様だ」とか言われて煽てられ、いい気になっていた庶民の大半は、ある日突然、自分かコンピュータで管理され、背番号で呼ばれる状態になっている事を知って、大いに驚き、憤慨(ふんがい)もした。
 しかしこういう現実を知っても、退路は、既になくなっていた。
 国民の多くは、背番号をつけられた屈辱(くつじょく)よりも、その管理されて生きる事の便利さと快適さを選択した。管理社会に叛逆(はんぎゃく)の牙(きば)を剥(む)く者は、殆ど居ない状態である。

 あるいは、こうした社会が出現した事に疑問も抱かないのである。
 人間の物欲的拡大の伴う、物質的遠心力の働く時代は、近代科学至上主義の暴走の時代は過ぎ、精神的生活の向上を目指す求心的収斂(しゅうれん)の時代が来ると、多くの文化人や有識者が予想したが、その予想は外れたようである。

 現代社会を覆う社会の恥部は、「食」の誤りや、その乱れから起るものである。この根本を改めない限り、今日の不穏な状態や不安からは抜け出すことができないであろう。
 現象人間界と言う、相対界における人間の虚妄から始まった独断的な虚構理論は、自然を制御するつもりで自然を破壊し、自らを滑稽な玩具に仕立てて健康を損ない、ついにその異常は、精神にまで及ぼうとしている。
 現代人が引っ張り出した科学万能主義に手を貸し、動物達を殺傷し、それを追随する者は、現代人とて例外ではなく、次に殺傷される側は、明日の自分の魂であると言えなくもない。まさに悲劇としか言いようがない。

 また、精神的に淘汰され、精神を病んでいく障害者を笑う者も、それを黙った傍観する者も、また悲劇である。そして現代は、多くの霊障が、現代人を気狂いの中に引き込もうとしている恐ろしき時代なのである。
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