昨今問題になっているのは、犯罪の犧牲になって、精神障害を生ずると言う、本来ならば精神障害とは無関係な人達の精神障害現象である。それは犯罪と密接な関係がある。
犯罪に巻き込まれた多くの人やその家族は、必ずと言っていい程、心に大きな衝撃を受け、無惨な傷跡(きずあと)を残し、特に「鬱病」として、多大なダメージを背負い込む。特に、被害状況が残忍であり、惨い殺され方をされた殺人被害や、生涯後遺症となって付きまとう、言語の絶する暴行等の被害を受けた場合、この爪痕は、心に大きなシコリを残す。
犯罪に巻き込まれた被害者に大きな爪痕を残すのは、加害者の人権ばかりが尊厳されて、その刑が軽かった場合は尚更の事である。また狡猾(こうかつ)な加害者が、裁判で有能な、老獪(ろうかい)な弁護士を弁護人に立て、法廷で争い、法の隙間を掻(か)い潜って巧妙に逃げおせ、犯罪者が罰せられずに結審されてしまったら、法秩序や国家権力に対して、止めどもない疑惑と不信感が起る。
昨今は、民主主義の総本山であるアメリカと同様に、日本でも処刑廃止運動が高まりつつある。人権擁護団体や、革新市民団体によって、特に死刑は、人間の尊厳を無視すると言う人権問題を掲げて、その廃止に向けて進歩的文化人や有識者等で組織する権威筋が中心となり、処刑廃止運動が熱気を帯びてきている。こうした現象は「加害者の人権を守る会」などの発足を見ても、明らかである。
アメリカでは民主主義の名の下に、基本的人権や個人の尊重が叫ばれ、ヨーロッパ諸国と同じように、一世紀に亘(わた)り、死刑廃止運動が展開されてきた。しかし、現実問題として、これまでアメリカの多くの州が死刑を廃止しようと試みて来たが、近年の暴力的な犯罪が急増している現実は、必ずしも人権を守り、個人の人権を擁護(ようご)して、無教育者に教育を施す事によって犯罪は減少すると言った、学者達の考える机上の空論は、必ずしも功を奏して居ない事になる。
現実的に、逆方向に向かいつつあるこうした実情を考えて見ても、民主的人権運動が、必ずしも功を奏さない、現象人間界の実際問題が横たわって居るのである。そして加害者の人権保護と、犯罪の発生率の減少関係は、必ずしもイコールでない事が分かる。
特に昨今の特徴は、経済状態や貧困とは無関係な形で、犯罪が多発して居る事である。かつては、犯罪は貧困と環境に関連していると定義付けられた。しかし今日の犯罪の実態を見てみると、貧困とは無関係な事が立証されている。
例えば、世の中には「小悪党」というレベルの人間がいる。
「小悪党」は、表面的には市民生活のルールを守り、法を犯す事の非常識を十分に知っていて、その枠内で自分だけ巧く遣(や)ろう企む人間である。常に隙(すき)あらば、と虎視眈々(こしたんたん)と辺りを窺(うかが)う人間であり、常に自分が基準にあるから、何等かの技術を懸命に駆使したり、法の盲点や自分の持てる小さな知識を絞って奔走する。そして表面的には何処から検(み)ても「スマートさ」に徹しようとする。
しかし、こうした小心者の仕出かす事が、実はチカンと言われる強制猥褻であったり、妻以外の女性を狙って、「あわよくば」という意識から始まる不倫への加担である。企業内で不倫に趨(はし)り、あるいはオフィス・ワイフという重役と役得に浸ろうとする。これらは人の弱味に付け込んだ一種の犯罪と言える。不倫が一種の犯罪であるという定義を上げれば、これに反論する人があるかも知れない。
しかし不倫が行われる場合、女性側の接近のケースは別にしても、普通は男性側から近付き、「隙あらば」と窺う展開が普通であり、食事をする、その後スナック等に誘い酒の飲ます、酔わせてホテルかモーテルへ、というコースが一般的であり、酔った隙に手篭(てご)めにして、酔った女性を力ずくで身体の自由を奪い、その後、自分の女にするという結末に至る。手篭めにされた方は、諦めにも似た感覚に、手篭めにした男に従い、以後、不倫の関係になって腐れ縁を作るというのが一般的である。そして男は、女性が同意したと勘違いする。
しかし女性は同意でなく、諦めである場合が少なくない。したがってこうした手順で不倫が発生する切っ掛けを作った場合、明らかに犯罪と言えよう。ただ、表面上は同意の形で、事後処理されただけの話であり、実質的には強姦擬いである。そしてこうした展開を見た場合、多くの女性は精神的に何等かの狂いを生じさせ、その後の人生も狂いっぱなしになる事が少なくない。
この手の、小悪党的な犯罪を犯す犯罪者は、道徳とモラルの欠如から、犯罪を犯すという実情である。換言すれば、幼児期の前頭葉未発達が祟り、学歴や知的レベルとは関係なく、成人してから種々の犯罪に手を染めると言う実情である。
例えば、高学歴を有し、知的レベルも高く、貧困とは無関係な知的能力者が、電車内でのチカン行為である強制猥褻や、強姦・輪姦、強姦殺人に手を染める事である。
彼等は最高学府の出身者であり、学士や修士た博士の肩書きを取得し、高学歴な教育を身に付け、決して知的レベルも低いとは言い難い人達である。経済的には何等窮するところがなく、両親も健在であり、社会的な地位も占め、家柄の良い、良家から夫人を娶(めと)り、家庭環境も極めて円満・良好である。それなのに、性犯罪を主軸とする、チカンや強姦などの上記の如き犯罪に手を染める。
迷惑条例で禁止されている逆さ撮りなどの「盗撮写真」や「盜撮ビデオ」、それに「覗き」、「チカン」と言う強制猥褻の破廉恥犯罪行為に誘惑されたり、あるいは猟奇犯罪といわれる、通常の常識では考えられない、SMプレー絡みの「狂った性」の犯罪に手を染める。
そして猟奇犯罪に巻き込まれた被害者は、最終的には殺されると言う結果に至る場合が多い。
この犯罪の最たるものがロリコン(ロリータ・コンプレックスの略で、性的対象として少女・幼女、あるいは男女の幼児を愛することで、ナボコフの小説の『女主人公』の名に由来)犯罪やストーカー犯罪の被害者達である。こうした犯罪に巻き込まれ、不運にも殺されれば、その家族は社会的にも相当なダメージを受けるし、また、仮に生き残ったとしても、その後遺症は心身ともに深い傷痕となって生涯消える事がないであろう。
この種の犯罪者の多くは、そもそもが「前頭葉未発達」が挙げられる。前頭葉発育と知的レベルの発育は、相互間に関係を持たないまま、各々が個別に発育を遂げる。したがって知的レベルの高い者でも、前頭葉未発達であれば、強制猥褻や強姦以外にも、「収賄罪」という誘惑で犯罪を構成し、東大閥を頂点とする知的優秀者が犯罪に手を染める現実は、実は、こうした前頭葉未発達に挙げられる。
世界中の先進国の中で、あるいは北半球に位置する文明国の中で、「チカンを犯罪と戒め、チカン防止を促すアナウス」がJRの電車や地下鉄の中で流れているのは日本だけであり、飽食に飽きたホワイトカラー族は、今度は痴情に狂い出すと言う元凶を抱えているようだ。更には、不倫もセクハラも、全く犯罪意識を感じないこの階層が中心だ。
携帯電話のマナーの悪さも、この階層がダントツで、「電源を切れ」「マナーモードにせよ」という鉄道会社の呼びかけや警告にもかかわらず、平気で電話を掛けているホワイトカラー族の図々しさを見ると、実は「善良な市民」と裁判所から定義されるこの階層は、一皮剥(む)くと、それなりの「大卒者」と云う学歴を持ち、最高学府出身の肩書きをひけらかしていても、それでいてこの「ザマ」なのである。
また戦後民主主義教育下で、最高学府までの教育を受けた、一応良識?ある大商社のホワイトカラー族が、この程度の常識と、礼儀しか持ち合わせないのであるから、海外出張などで破廉恥(はれんち)にも、現地の若い女性を買い漁ったりするこの種の階層は、近隣諸国や東南アジアの人々から蔑まれるのも当然であろう。
大悪党顔向けの犯罪を犯す犯罪を「ホワイトカラー犯罪」という。
この名前は、アメリカの犯罪学者エドウィン・H・サザランドが1939年に命名したもので、地位も名誉もあり、経済的にも恵まれているはずの経営首脳が、その利潤追求の経済活動の中で、刑法に違反する犯罪行為を働くというのが、これに入るのだ。
そもそも犯罪学(criminology)と云われるものは、犯罪の原因やその遂行過程についての法則性の発見、犯罪抑止についての施策を対象とする学問であるが、精神医学・犯罪心理学・犯罪社会学・刑罰学などから成る学問である。しかしこれ以外に、近代企業活動に結びついた犯罪は、これまでの犯罪意識と大きく異なっている。
犯罪学からすれば、近代企業が犯す企業犯罪は、これまで犯罪の原点と思われていた「貧困」からは実に程遠いものとなっている。いっぱしの経済的上位階層でありながら、貧困とか環境の悪さとも無縁であり、それでいて、高い地位を占めている実業家や政界の名士と謳(うた)われる政治家が、上流の階級にありながら、刑事訴追をされるような犯罪を犯すという事である。
一般的に見て、犯罪は貧困と環境悪化によって、犯罪が引き起こされると考えられて来た。ところがサザランドは、こうした従来云われてきた犯罪人口の大部分の、経済的困窮者が起こすと言う、下層階級の環境悪化を原因とする犯罪心理を覆して、善良なサラリーマンの仮面を被った、中流以上の階級の人間も、時として犯罪に身を染めると指摘した。
某巨大企業の株式不正売買事件は、この上流階級に位置するワンマン経営者の仕業であった。この経営者自身、貧困や環境悪化から起る経済的困窮者とは無縁の人であった。ところがこの経営者は、地位もあり、名誉もあり、様々なスポーツ団体や、日本オリンピック連盟の役員も勤めた経歴を持ちながら、刑事訴追をされるような犯罪を起こしたのである。
また、東大出のNHKの職員が満員電車の中でチカンと言う強制猥褻を働いたり、早稲田大学の教授が手鏡で覗き込むという迷惑条例違反も例の如しであり、東京都選出の某国会議員は強制猥褻(きょうせいわいせつ)を働き、議員の職を棒に振った。彼もまた、貧困とは無縁であった。
並みの人間、普通と表される人間、善良な市民の一員などと称され、裁判所の定義事項にランクされるこうした善良な市民は、時として荒れ狂い、人間の欲望原理を逸脱した、「常識」を超える不可解な行動をとることがあるのだ。
そしてこの行動が吹き荒れた後の、被害者の心の爪痕(つめあと)は、やがて鬱病(うつびょう)へと変貌し、加害者が想像する以上に大きなものである。
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