食が乱れ、色が乱れ、人倫が乱れて、金融経済が近代資本主義の最後の足掻きとして猛威を振るう時代は、人々の心が杜撰(ずさん)になる。また金銭至上主義を優先させる現代社会は、資本主義の輪廻の循環の輪の中にあって、様々な消費と浪費が繰り返されて、高度大衆社会はこの流行に取り残されまいと、必死に大衆相手に何らかの仕掛けが行われる。
金融経済が生み出した近代市民社会の妄想は、大衆に向けての、「利殖」という甘味を伴う言葉である。大衆を説得し、大衆を惹きつける魅力を有したものを、世間一般には「仕掛人」という。仕掛人は大衆の無知を巧みに利用して、大衆の無知な期待を増幅させる能力を持っている。昨今の知能犯が演ずる、巧妙な詐欺事件はこれを如実に物語っている。
多くの大衆は仕掛人の巧妙なわなに踊らされ、一挙に巨額な金を動かす夢と妄想に取り付かれ、やがて身包みはがれる結果を招く。その金融経済の裏側で暗躍するのが、株券の「一発屋」、中小企業の倒産で甘い汁を吸う「倒産屋」、倒産した会社を整理清算する債権者に成り済ます「整理屋」、自己破綻者を食い物にする臓器売買の「切取り屋」などの裏社会のさまざまな新種商法があり、大衆はこの中で餌食にされていく。
多くの大衆は知恵比べによって、搾取の餌食となり、力相応、あるいは知恵相応の自由主義の犯罪構成に無残に費え、生存競争の荒波にもまれて、人生の藻屑と消え去っていく。
国民の多くは、この輪の中から一歩も外に出られず、精神的かつ肉体的なストレスが蓄積し、こうしたものが病変と複雑に絡み合っている。
そして、こうしたストレスが、精神的肉体的な面に「破綻」と言う名の追い打ちをかける。
時代が高度化され、大衆社会も高度大衆社会に突入すると、時代の移り変わりの変化が激しくなるばかりでなく、「淀む」という現象が顕(あら)われ、この淀みが巨大な渦となって、更に、時の流れを加速させる。
この時の流れは、時代に加速度をつけて早くなり、早くなった関係で、到達距離も短くなった。
地球上で起こる様々なことが、一瞬のうちに全世界に伝えられるようになり、現代社会は情報化の真っ只中にあると言える。
同時に現代人類の意識の拡大が始まり、隣近所の事よりは、アメリカで起こっている事や、ヨーロッパで起こっていることの方が、より詳しく、より知っていると言う、訝(おか)しな現象が生まれた。それに準じて、日常の話題も飛躍して、家庭内のことが、総て二の次になり、話題の中心は、スポーツや芸能情報であり、また、宇宙にまで目が向けられ、時間と空間を超えて広がり始めた。
個人の生活においても、時代の急変の煽(あお)りを受けて、今日は昨日と同じものでなくなり、また、昨年の今日だった日は、今年の今日と、全く違ったものになってしまった。日々新しくなり、真事実が発見され、過去の記憶の活用は、殆ど役に立たないものになってしまった。そしてこれこそが、諺(ことわざ)で言う「一寸先は闇(やみ)」という時代を象徴しているとも言えよう。
このように目紛(めまぐる)しく、激変する時代を、かつて人類は経験したことがあっただろうか。
人によっては、波乱万丈(はらんばんじょう)に富んだ人生を送ったと言う人がいうが、その人を取り巻いていた時代の時の流れは、極めてゆっくりした時間が流れていて、それだけに波乱の生涯は、実に変化に富んでいたものと思われるが、現代はあまりにも時間の流れが早い為に、大きな世代格差の亀裂(きれつ)が生じて、こうした亀裂から、様々な病変が発生するようになった。
親と子の世代格差は、母子の断絶をつくり出すばかりでなく、啀(いが)み合う亀裂すら生じさせ、家庭崩壊が始まる要因をつくり出した。こうした亀裂現象は、自閉症や登校拒否を生み出し、非行や少年犯罪の起因になったり、人間関係の不和までに及んで、離人症(りじんしょう/自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失われ、対象は完全に知覚しながらも、それらと自己との有機的なつながりを実感しえない精神状態)なる病因までもを派生させてしまった。
その為、人格感喪失や有情(うじょう)感喪失が起こり、心の働きや感情までが失われ、心が破壊された状態がつくり出されたのである。
また、こうした現象は、人間のみに留まらず、政治や経済の範囲にまで及び、現代の社会構造が、長い時間を掛けて醸成(じょうせい)すると言う事が無くなり、ただただ時間の短縮が行なわれている為、人為的な操作がこれに加えられて、こうした影響で、巨大かつ鈍重化した組織体が出現した。こうした現象は国家群や大企業に見る事が出来る。
また宗教でさえ、マンモス化され、自らの重さに耐えかねて、内部から崩れると言う現象を起こしている。昨今に見られる世界三大宗教の対立は、これを如実に現していないだろうか。
時間や空間は、意識が生み出した概念ですから、「時間の早さ」や「空間の広がり」は、個人差によって様々である。意識活動の広範囲に及ぶ人は、時間の経つのが早く感じられ、逆に、鬱病(うつびょう)のような狭い空間に閉じ込められて、沈んだ意識を持っている人は、時間の経つのが非常に遲く感じられるのである。
したがって、鬱病の人が、「急いで行なっている行動」も、実は非常にのろまであり、暗い固定観念の記憶から、薄れてしまった意識を、細々と、糸車まで、糸を紡ぎ出しているようなものに過ぎないのである。
そして、壊れた自我、潰された自我の裏には、こうした暗い固定観念と言う、古い記憶が残っていて、それが心に現代に反映を齎(もたら)し、鈍重化をつくり出しているのである。 |
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