登頂目録

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平成20年5月4日の『春の講習・洗心錬成会』が行った福智山への山行きは、初夏の柔らかい陽差しを受け、早朝からほぼ快晴の天気に恵まれた。

●滝行によってグローミューを再生・開発する

 人は、なぜ滝に打たれて修行するのか。また、人はなぜ滝に打たれようとするのか。
 それは、人には人体の裡側(うちがわ)に膨らみ続けるエネルギー情報を持つからだ。このエネルギー情報こそ、古来より「気」といわれたものである。万物には「気」が存在する。「気」によって万物は生み育てられる。水の中にも「気」は存在する。


滝行によって東洋医学上の概念であるグローミュー(glomus)を再生・開発する。この再生・開発で、新たな毛細血管の回路は開かれる。

 特に、落下する水の衝撃の空気中には、精神的なストレスを解消する「マイナスイオン」が存在する。 滝の傍(そば)に行ったとき、気持ちが爽(さわ)やかになるのは、滝の持つ水の効果が作用するためだ。マイナスイオンが作用して、躰(からだ)の機能調整に関与し、自律神経の活性化が行われるためである。

 この状態のとき、同時に細胞の細胞膜の働きもよくなる。それは冷水浴効果が現れるためで、毛細血管に刺激を与えるからだ。そして、この直後、グローミューが再生開発される。これを自律神経調整法といい、自律神経をコントロールするのである。

 皮膚が冷たい空気や、冷水に触れると、血液を全身に供給している先端の毛細血管は、急速に縮み、回路を閉ざしてしまう。そのとき、動脈血液は毛細管の手前にある副毛細管を通ろうとしてバイパス回路を開拓する。これは血液高騰を防ぐ人体の作用である。

 この作用が、毛細血管の回路を開拓する要因となる。
 不健康な状態にあって、血液が急速に高まると、この場合、小動脈が破裂して内出血を派生させる。その最たるものが脳溢血のういっけつ/脳出血のことで、脳の血管が破綻して出血し、脳組織の圧迫・破壊を来す疾患であり、高血圧・動脈硬化によるものが最も多い。喫煙者で高血圧の人は、年齢が高齢に向かうと倶に、その症状としては、発作的に次の病因が顕われる。頭痛・意識消失・悪心・嘔吐・痙攣(けいれん)などがこれであり、出血部位により、種々の神経症状を呈する。出血の部位や大きさにより異なるが、しばしば半身不随などの後遺症を残すことが多いようだ)である。これは動蛋白摂取過剰と、その摂取によって炎症が起り、その炎症が体組織に疾患を作るからだ。

 次に、脳卒中においても同じことが言えるだろう。
 脳卒中は、脳の急激な血液循環障害による症状である。この症状が襲った時、急に意識を失って倒れ、手足の随意運動は不能となる場合が多い。脳出血によることが最も多いが、脳塞栓・脳膜出血などでも似た症状が起る。そして、喫煙者やアルコール常飲者に、極めて多く見られる症状である。

 こうした症状に陥るのが厭(いや)なら、即刻喫煙を止め、アルコール摂取量も程々にするべきであろう。また、タバコにアルコールが絡んだ高血圧症患者は、最悪の死のコースを歩いていることになる。
 本来日本人には、「縄文」の昔より、喫煙をする習慣はなかったのである。それが十六世紀、日本にはポルトガル人によってアメリカ土着のインディアンの習慣が持ち込まれた。その後、アメリカ・中国・インドその他に広く栽培されるが、タバコの葉はニコチンを含み、加工して喫煙用とするのであるが、これには麻薬と同じ常習性があり、高血圧症患者には極めて悪い状態を齎すようである。

 自分が高血圧と知りながら、喫煙の習慣が止められない人は、生きながらに、棺桶に両足を突っ込んでいるばかりでなく、自身の魂までも悪魔に売り渡し、喫煙の常習の囁きに負けているのである。愚かしい限りである。

 死期が近付いた人は、よくその死に方や臨終の態度が問題にされるが、おおかた臨終に失敗して不成仏に陥る人は、タバコやアルコールの常習者に限られているようだ。
 死生観を解決するには、生きている今のうちに決着を付けて置くべきであろう。死が目前に迫ってから、うろたえても間に合わないのである。

 毛細血管の回路やグローミューを開発するには、アルコールの飲酒量は程々にし、タバコはきっぱりと縁を切っておくべきであろう。そして、三次元歩行のトレッキング並びに、滝に打たれるなどして、冷水浴療法などを行うべきであろう。

 また人間は、動物と異なり衣服を着るために副毛細管が脆(もろ)くなっている。特に喫煙者の副毛細管は実に弱いものである。副毛細管の回路が錆(さび)付き、現代人はこの回路の恩恵に預かることが非常に小さくなっている。その上、現代人は等分の多い食品を摂取し、タバコやアルコールを常習的に摂るから、更に副毛細管は脆(もろ)い状態になっている。いつか破裂して血管が破れることも必定だろう。
 したがって、喫煙の習慣を完全に止め、アルコールも“ほろ酔い”の状態で程々に止めておけば、副毛細管は元気に再生するのである。

  多忙に追いまくられる現代社会において、不摂生の限りを尽くしている人が決して少なくないであろう。不摂生の限りを尽くしている人の体質は、躰の裡側が冷たく、表面の体温が高くなっている。このため、冷え症(冷え性)が起り、病気に罹(かか)りやすい体質となっている。

 こうした悪習から抜け出すことも、現代人には、年に一度の行事として必要なのである。
 滝に打たれると、自律神経の活性化が起る。マイナスイオンの影響である。これにより、自分の心が滝の水に溶け込み、やがて滝を介して大自然と、わが心が一つになる。この一体感が、日頃の精神的なストレスを解消し、爽やかにリフレッシュされた、本来の自己を発見できるのである。本来の自己を発見するのに、滝行の行法は存在するのである。

 則(すなわ)ち、滝行とは、単に滝に打たれることを言うのではない。正しい滝行の修法を知らなければならない。御滝場などにいくと、新興宗教の信者等が、声高らかに般若心経(はんにゃ‐しんぎょう)などの経典を唱え、滝に打たれている姿を目にするが、あれは間違いだらけの自己流の悪しき滝行である。つまり、泥丸(でいがん)直撃を行っているからである。

 「泥丸」から直接滝の水に至れると、脳の毛細血管が破壊され、毛細管に目詰まりを起し、脳障害やアルツハイマー型痴呆症の病因になる。
 したがって、「唖門宮(あもん‐きゅう)」を開いて、ここから「水の精気」を体内に送り込み、身体裡側の汚れを浄化するのである。



●現代医学では認識の薄いグローミューと云う概念

 グローミューglomus/動静脈吻合枝)と云う概念は、西式健康法の創始者である西勝造(にし‐かつぞう)先生によって齎(もたら)された解剖学的、生理学的概念である。
 西勝造先生は、『西式健康法』の著書にグローミューの存在を健康上、最も重要な概念に加えている。更に、グローミューが血液循環の調整役として、重要な生理的意義を有していることを強調している。

 つまりグローミューを再生開発することは、副血行路を速やかに造ることが心筋梗塞などの予防と治療に繋(つな)がる自然療法としているのである。

 一方病的な問題を抱える患者の体内の於ては、既に正常な機能を失っているグローミューの閉鎖が毛管運動を妨げているのである。この場合の遮蔽(しゃへい)を解決するには、まず一つは断食療法によりグローミューの再生復活を行うか、あるいは第二の方法として滝行などの冷水に浸かるなどしてグローミューの再生を積極的に行うしかないのである。

 断食療法や滝行療法などをして、一般によくある病気の症状として「冷え症」が挙げられるが、冷え症はグローミューが失われた状態であり、これにより冷え症が起こるのである。
 冷え症は、冷えやすい体質で、「冷え性」とも書く。この性質は、血液の循環のよくない身体をいい、特に足や腰などの冷える女性の体質を指すようだが、これは現代では女性に限らず、男性にも多く、血液の正常循環が不能になった狭心症を抱える男性にも多く発症している。高血圧症の患者にも多い。

 そこでグローミューを開発すると「冷え症が治るメカニズム」を紹介しよう。
 冷え症は断食療法か滝行療法、あるいは温冷水浴療法(温水と冷水を約15分交代で、交互に浸かる温冷浴)で治る。

この度の『春の講習・洗心錬成会』が行った福智山登山は、七重の滝で行う滝行とがセットになったものであった。
七重の滝では、洗心錬成会のメンバーが次々に滝壷に入り、滝打たれに冷水を唖門宮で受けていた。

 さて、冷え症は手や足、腰などにおける抹消の血液循環が正常でないことから起る症状で、もし血液循環の調節が正常ならば、一部の例外を除いて、冷え症は人体メカニズムから云って起こるわけはないのである。

 では、冷水に躰を曝(さら)すと冷え症が治っていくメカニズムを実証してみよう。
 一般に私たちは、冷水か氷水に手を入れると、手の皮膚温度は下がっていく。これは皮膚の表面にある毛細血管が収縮し、血液が皮膚表面に流れないからである。

 筆者は近頃毎日、温冷水浴療法を自らの日課に組み入れ、これを実行しているが、その際、水中で皮膚が青白くなるのを確認できる。これは水中において、皮膚の表面に血流が少なくなり、貧血状態に陥ったからである。また、これは生体の冷たい環境に対する適応反応である。

 則(すなわ)ち、体温が外に奪われない為に、皮膚の表面の血管が収縮し、そこへ血液が流れないようになった為である。ところが、この状態をしばらく放置すると、冷水に生体を浸したままでも皮膚温度が上昇していくのである。

 この事は、毛細血管が収縮したままであるのに、血液が他のルートに流れ、これが静脈の方に帰っていくことを物語っているのである。このルートこそ、グローミューの正体であり、血液はバイパスを経由して帰って行く現象が起こるのである。

 この現象は、手足や腰の表皮などの抹消の血液循環で、グローミューさえ正常に機能していれば、1月・2月の極寒の冬期においても、外気が冷たいのに手足や腰が冷えると云うことはないのである。
 筆者はこの時期、靴下や足袋などを履かず、素足でこの冬場を毎年乗り切っているが、これはグローミュー開発の賜物(たまもの)であると思っている。

 靴下無しでは冬場を乗り切れない人や、靴下を履いていても手足が冷え、霜焼けや皹(あかぎれ)ができる人は、グローミューの機能が正常でないからである。また、こうした人に限って、高血圧症や動脈硬化症であったり、心臓病などの傷害を抱えているのである。

 さて、手足や腰が冷えて困っている人が、断食療法(水だけの本断食17日程度)、半断食療法(玄米粥に菜食の一日600キロカロリー低少食を50日間)、滝行療法(接水時間5〜10分)、温冷水浴療法によって冷え症が治ったとすれば、これがこれらの療法により、グローミューの機能が正常に戻ったか、更には、新たにグローミューが再生開発されて完治したと考えられるわけであるが、事実、これらの療法を紹介し、実践を奨めて、その後、手足や腰が大変暖かくなったと喜ばれることが少なくない。

 冷え症を症例観察すると、グローミューがこれらの療法で再生開発され、その機能が復活したことを雄弁に物語っているのである。



●現代医学では成人病や現代病の慢性化は治らない

 三次元の山歩きと倶(とも)に、断食療法、半断食療法、滝行療法、温冷水浴療法を実践すれば、喩(たと)えば、皮膚表面に時々認められる蜘蛛状(くも‐じょう)血管が消滅する事実である。
 蜘蛛状血管とは、顔や胸、その他の上肢などの皮膚表面に、赤くてごく薄い血管は顕われ、それがちょうど蜘蛛が足を広げた形に似ていることから、この広がった血管を蜘蛛状血管と云うのである。

 この蜘蛛状血管が認められる人は、だいたいにおいて肝臓が悪く、肝機能に異常を来しているのである。特に、肝硬変症や慢性肝炎などの人は、しばしば認められるもので、肝臓に某(なにがし)かの障害を抱えた人である。

 この蜘蛛状血管の消滅を心掛けて、断食療法、滝行療法、温冷水浴療法を実践すればこの肝機能障害を著わす症状は次第に消滅するのである。

 この蜘蛛状血管は解剖学的所見からも検(み)て分かるように、これはグローミューと密接な関係があるのである。つまり、グローミューの再生開発により、グローミュー機能が正常に戻り、血液循環の不到達点がなくなったと云うことである。

グローミューと毛細血管の関係を示した図である。グローミューは解剖学的、生理学的に定義されたもので、動静脈吻合枝であるグローミューが血液循環の調整役を果たしているとする医学的な生理的意義を有している箇所である。
 則ち、グローミューの回路を開発するには、普段閉じている毛管部を冷水などに躰を浸す事が、最も効果的なのである。

 「流れる水は腐らず」という俚諺(りげん)があるが、正常な血液が循環している部位では、細菌類が繁殖することができないのである。

 さて、ここで血液循環のメカニズムについて説明しておく必要があるだろう。
 つまり、私たちの体内を血液が循環するのは何の力によるものであるかと言う、その原動力についてである。

 この原動力について、現代医学の仮説は、「心臓原動力説」である。つまり、心臓がポンプの役割を果たし、それで全血液を体内に送り出していると言う医学上の仮説であり、これが今日では定説として落ち着いているようである。また、これを定説と考え、これを疑う医学者も極めて少ないようである。

 しかし、「心臓原動力説」は果たして正しいだろうか。
 則(すなわ)ち、血液が循環する原動力は心臓のポンプ作用によるもので、更には、心臓だけで力が足らないから、動脈の収縮力なども手伝って血液が全身の細胞に送られると言う医学上の仮説である。

 現代医学の信奉者は多くがこの仮説を支持しており、この仮説に基づいて生理学や生化学が押し進められ、これが現代医療に応用されている。

 ところが、血液循環の動力源は、心臓のポンプ作用であるとするこの仮説では、喩えば、断食療法などによって、慢性中耳炎や蓄膿症(ちくのう‐しょう)における血液循環の不完全がなくなることを説明できないのである。

 この説明不能に西医学の創始者・西勝造先生は、次のように主張している。
 「 血液循環の原動力は、全身の細胞が飢えることによって生ずる血液の吸引力にある」
 つまり、西医学の学説に基づけば、喩(たと)えば断食や温冷水浴療法により、全身の細胞が飢え、更にグローミューの再生開発が行われ、その結果、血液を求めて吸引する力が増大し、全身に隈無く血液が循環するようになると云うことである。

 この事実を真摯(しんし)に受け止め、血液循環の原動力が心臓のポンプ作用にあるか、飢えた細胞とグローミュー再生開発により血液の吸引力働くとする考え方は、根本的に大きな開きがある。
 動脈から静脈へのバイパス回路というのは、グローミューの事を指している。つまり、グローミューが健在ならば、心臓性ショックは起こらないと云うことである。

 則ち、グローミューの活用を充分に行えば、心臓障害や高血圧傷害などは快復(かいふく)させることができると云うことである。また、帰路循環が確保できれば、抹消部における血液の鬱滞(うったい)はなくなり、全身に隈無く送り出された血液は死傷なく心臓に戻ることができるのであある。

 血液の循環が正常ならば、肝臓や肺などで毒素が解毒され、腎臓や消化器、あるいは皮膚を通して漸次排泄されていくことになり、血液は常に浄化された状態が保てるのである。
 こうした状態に戻ることができれば、不浄の血液として受け入れを拒否していた各細胞も安心して浄血された血液を受け入れることになる。その結果、細胞の吸引力も増大することになるのである。このようによい方に変化すれば、血液の循環がスムーズになり、高血圧症は解消され、心臓の畸形鼓動も正常に戻るわけである。

 現代は、病院任せ、医者任せ、薬任せでは病気が治らない時代に入っている。しかし、多くの日本人は「任せ信仰」に頼り切り、他力本願の病気治しを信奉している。これは非常に残念なことであり、こうした意識では、もともと自然治癒力が働いて治る病気も治らないようにして、自分の躰を粗末にしているのである。

 これからの時代は、自分の躰を何よりも大事にして、自分自身で健康を維持していく時代に入ったと言えよう。

福智山に向かう途中の、鱒淵ダム付近で見かけた遅咲きの山桜。



●自然との一体感

 人間は、もともと非存在的な生き物である。つまり、大自然から生かされて生きる生き物である。その意味で、人間も大自然の一部である。この事を忘れると、とんでもない間違いを起こすのである。

 然(しか)し乍(なが)ら、現代という時代は至る所で自我が蔓延(はびこ)り、自我に囚われ、物質欲に捉われる世の中を作っている。何事も、ご都合主義で運営され、金・物・色で動かされている。
 そして現代の物質主義は、現代人に「信ずる心」を失わさせてしまったのである。

 信ずる心を失った現代人達は、なお一層、物に執着する心を露(あらわ)にした。その最たるものが、現代人の食生活の誤りと不摂生から起こった生活習慣病ではなかったか。
 これまで現代人が「科学的なもの」と称してきた多くのものは、その殆どがマイナス面ばかりのものだったのである。信ずる心が、「科学的なもの」に置き換えられ、そこから心身の崩壊が始まったのである。

 この意味で、再び「信ずる心」を鍛え上げなければならない。そして肥満した身体の脂肪と、文明と云う贅肉を落とす為に、心を歪(ゆが)めていた過剰な情報を切り離す必要がある。
 現代人は、あまりにも「人間味のない効率」のみを追い求め、身も心も黄金の奴隸と成り下がっていたのである。物質万能主義、金銭至上主義はその最たるものであった。

 今こそ「信じる心」を取り戻すべきであろう。
 車社会が齎した脆弱な現代人の足腰。また車社会の元凶である騒音と排気ガス。文明の利器と信じられているエネルギーとを引き換えにした核廃棄器物。有害な農薬や化学肥料。合成洗剤や食品添加物などに代表される自然破壊の元凶。自然の生態系を狂わせている、科学の名を借りた物質万能主義。人間が造り出した、「科学的なもの」の正体は、単に自然を破壊し、エネルギー情報を狂わせる諸悪の根源でしかなかった。

 有限な地球上での生活は、先進国への経済集中も、全人類の健康促進の為には、逆の発想でこれに歯止めを駆ければならないだろう。経済優先の物欲から解放されて、富める人は自分一人で富みを抱え込んでいないで、貧しい人々へある程度の散財をする必要があろう。
 また、対人関係で自分の利益と地位の向上を要求するばかりでなく、相手と分かち合うことが必要であろう。

 自他の間に孤立する垣根を作らず、自他の意識をなくし、他人の心を尊重し、まずその人の気持ちになって、その立場を理解することが大事であろう。そうすれば、他人との軋轢(あつれき)がなくなり、自他の垣根が消滅するのである。また、自他との垣根がなくなれば、私利私欲に振り回されることがなくなり、現代人の大半のストレスを形成する悪習は、一挙に解決するのである。

 溜めることより、手放すことだ。単に阿修羅の如くむきになって蓄財するのではなく、ある程度の社会に還元する散財を考えるべきであろう。足し算をする健康法ではなく、引き算をする健康法によって、人間の身体は維持できるのである。
 つまり、「詰め込む栄養学」から解放されて、「出す栄養学」で人間は益々健康に慣れるのである。

 これまで人間は、栄養は口から補給することで健康に慣れると信じて来た。しかしこうした「詰め込む栄養学」では、実際には健康にはなれなかった。栄養・栄養という考えで、現代人は口の中に多くの美食を詰め込んで来た。その結果、現代病や成人病を招いたのではなかったか。

 溜め込んだものは、金でも物でも、みな吐き出さねば健康にはなれない。溜め込んだままでは、病を総抱えしているようなものだ。

 現代人は余りにも食情報や医学情報に弄(もてあそ)ばれ、健康を害する生活をして来た。しかし、自覚によってこれらの乱れに弄ばれて来た自分自身を、もう一度見直す必要がある。「自分とは何か」を掘り下げる必要がある。

自分とは何か。山路を歩きながら自問自答すれば、微かにその答えが見えかけて来る。

 生きとし生けるものが、自らの生命を全うするには、自分自身を改めて自覚する以外にないのである。

 洗心錬成会では、現代社会の実情を踏まえて、「現代」という時代を「自己防衛の時代である」と考えているのである。自己防衛に疎(うと)い者は、犯罪に巻き込まれたり、病魔の毒牙にかかり、命を無慙(むざん)に落としてしまうのである。

 あなたの「自己防衛戦略」は、果たして万全だろうか。



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