修行の場としての福智山考 4


●ヤワからの脱出

 現代人を見ると、「ヤワ」な人が実に多くなった。そして、こうしたヤワな人は、「自分とは何か」という探究も無しに、あるいは死生観を解決することも無しに、無惨に死から逃げ回りながら、悲愴な死を迎える人である。

 著者は平成13年12月中旬、ある大学病院の、その病気では日本でも権威と云われる医師から、「あなたは末期です。せいぜい持って、余命六カ月と云うところでしょう」と告知された事があった。
 爾来(じらい)、この医師の薦める外科的な摘出手術も、あるいは薬物療法やその他の治療法の一切も拒(こば)み、自然医食では著名の、ある医学博士の言に随(したが)い、玄米穀物を中心とした「正食」を実践し、病気と共棲(きょうせい)する道を選び、今日に至っても命を取り留めている。もう、あれから六年ほども生きている。

 著者は人の生き死にを、天命が司る「寿命」の働きで、人は生かされていると考えている。人の生き死には、人間側ではどうしようもないと思っている。総(すべ)て天が定める寿命によると思っているのだ。

 今日、喩(たと)えばガン発症には、早期発見・早期治療が常識のよう実(まこと)しやかに信じられている。しかし、早期発見でガン発症が確認され、ガンそのものは切除できたにもかかわらず、僅か数週間で死んで行く人は多い。

 こうして死んで行く人の中で、主治医の言に随い、早期発見・早期治療の言葉にまんまと乗せられ、外科的摘出手術をしたにもかかわらず、なぜ人は数週間で死んでしまうのか。果たしてガンが人の命を奪ったのか。
 著者の率直な疑問は、そこにあった。そして、主治医の言に随い、早期発見・早期治療で死んで行った患者を解剖すると、体内にはガン発症の欠片(かけら)も見つからなかったと言う。一体このことは、何を意味するのか。

 人の命の生き死には、ガンであろうが、切除手術であろうが、抗ガン剤であろうが、また、その他の病気で、人の命を減らしたり増やしたりは出来るものではない。
 そもそも「人の死」というものは、どのような病因であれ、総ては「命が変化した姿」であると考えている。
 病因によらず、過去世(かこぜ)の因縁によらず、生命が活動し、生物としての命が輝いている生き物は生き、命が衰えた者は死が訪れるのであると考えている。これこそが、現象人間界の「掟(おきて)」である。

 30歳で命の輝きを失い、死んで行く人が居る一方、90数歳を過ぎ、それでも今なお、社会の現役として、矍鑠(かくしゃく)として生き続ける人もいる。つまり前者は命の輝きを失った人で、後者は齢をとってもなお、命が輝いている人である。

 こうして検(み)てくると、人の命には大小がない事が分かる。平均寿命など、個人にとっては何の関係もないことである。ただ言えるのは、死の人の命の輝きにおいて、それは輝いているか、輝きを失っているかに懸(かか)る。「輝き」が、人の寿命を決定付け、命の輝きは、いつまでも人を生かしてくれるのである。

 筆者は最近、福智山登山をよく遣(や)るようになったが、その山行きの中で、何人かの命の輝きのある人に巡り合い、あるいは語らい、自分でも気付かなかったことに、ハッとさせられる事が度々ある。

 最近も、平成19年9月23日に娘と、弟子2名を伴って福知山山頂を目指して山行きを行ったが、そこで出会い、語らった人の中には、半月程前に大怪我をして骨折をし、脚に金具を埋め込まれ、まだ術後の傷が癒(い)えていないのにも関わらず、門司(北九州市門司区)から自転車で鱒淵ダムの登山口まで来て、山頂まで1時間20分で辿(たど)り着き、そこから折り返して、次の山に向かうという50歳代の男性と出逢った。それは丁度、筆者が登りかけている中腹地点であった。その人は筆者がやっと山の中腹に辿り着いた頃、もう、頂上を折り返し、下りに入っているところだった。

 そして、この人はロック・クライミングも、こうした、まだ傷が癒(い)えぬ状態で遣(や)ると言うのである。世の中には、無名でありながら、「プロ並み」と言う人は随分と居る者である。
 何も、芸能タレント擬(まが)いの、よくテレにや新聞や雑誌に顔を出すスポーツ選手や格闘技選手のみが、「凄(すご)い人」とは断言できないのである。

 筆者一行は、地下足袋で山行きを行っていたので、この人も珍しそうに、筆者一行を眺(なが)めていたが、世の中には怪我や病気に負けずに、自ら心身を鍛え直し、「自分とは何か」と、常に反芻(はんすう)している人が居るものだと思った。

 また、この日は曇り空で、山頂から中腹付近までは霧が懸(かか)っていたが、足許が濡れて滑り易い状態でありながら、半袖・短パンのジョギング姿で、山頂に向かって駆け上がっている50歳代の男性を見た。一歩も立ち止まる事なく、駆け足でこの人は駆け上っていた。ただの普通の運動靴を履き、滑りもせず、黙々と駆け上がっているのである。この人を見ていて、「凄いですね」と声を懸ける以外なかった。

 更には、遥かに70歳代と思える老人や、40の初老を越えた年齢と思える華奢(きゃしゃ)な、普通の家庭の主婦のような人が、筆者一行の傍(そば)を、楽々と追い抜いて行くのである。
 こうした人達は、陳家太極拳の素晴らしい旋風脚(せんぷうきゃく)も、また空手の蹴りでバット1本も蹴折る事は出来が、それでも險(けわ)しい山路の悪路を、下界の格闘技愛好者とは違う形で、楽々と、易々と、意図も簡単に遣(や)ってのけているのである。その背景には、黙々とした「心の慎み」があるからではないかと思っている。

 そして、筆者の心に響いた人は、骨折で今なお、治療中の身でありながら、素晴らしいスピードで福智山を登り降りする、門司から来たと言う50歳代の男性だった。まさに、かつてのサラリーマン登山家の加藤文太郎のように「風のようにやって来て、風のように去って行く」あの姿を髣髴(ほうふつ)とさせた。

 一方、こうした人に比べ、今年の7月にある平坦な場所で脚を滑らせて、過去の椎間板ヘルニアから、股関節を亜脱臼させて坐骨神経痛を患った60歳代の、陳式太極拳を使うと言う自称・拳法家という御仁(ごじん)は、今なお、妻君の運転する車に乗って鍼灸治療院に通っている。3ヵ月経った今でも、ろくに歩けず、尺取り虫状態だと云う。

 おそらくこの御仁は、歩けないのではなく、歩く事をしない人なのだろう。要するにヤワな人間であり、かつ甘えがそうさせるのだろう。
 このように、自らの躰(からだ)を腐らせれば、その後の余生は一生、腐れ放しであろう。この御仁は、命が輝いていないのだ。命が腐れきっているのだ。
 こうした人に訪れるのは、間違いなく100%の確率の「不成仏的な死に態(ざま)」であろう。

平成19年9月23日福知山は深い霧の覆われていた。気温が20度で、風速5mの風が吹いていた。したがって、1m吹くごとに1度失われるのであるから、体感温度は15度だった。 この日は凄い霧で、視界が利かず、小雨がバラついて、頂上は半袖では非常に寒かった。頂上に着いたら、冷たい缶ビールの1本でもと思っていたのだが、余りの寒さに呑む気は起らなかった。

 筆者は、16年ぶりに福智山への山行きを開始したが、福智山頂上までを往復3時間と言う驚異的な足の早さは持たないが、あるいは麓(ふもと)からジョギングで山頂まで一気に駆け上がり、駆け降りるというマラソン選手のような心臓と持久力はないが、しかし、地下足袋で山頂までの行き来は、死ぬ、床に臥せる翌日まで、山行きに出掛けていって、歩き続けたいものだと思っている。

 そして、今年7月から9月に懸(か)けて、合計6回、福智山への山行きを試みたが、その道の途中で、武術家とか、武道家とか云う類(たぐい)の人に、一度もお目にかかってないことはなかった。また、この山に登る人の中で、「地下足袋を履いて」と云う人には、一度もお目にかかってないことである。

 筆者は、武術家として大切な行動原理は「歩き方」だと考えている。
 人間が「歩く」と言う行為は、常に大地からの反動を得て、躰(からだ)を移動させるのであるから、この行動の中には、つまり「歩き方」が会得出来ていなければならず、これが武術家としての「足捌(あしさば)き」となる。

 この足捌きは「大地を信頼する」という、日本人の古来からの農耕民族としての畏敬(いけい)の念が示されており、自然の理(ことわり)に適(かな)った「歩き方」をしなければならない。

 「歩き」という行動原理の源(みなもと)は、旧会津藩にあった御式内(おしきうち)の作法にある通り、能(のう)や狂言(きょうげん)の摺(す)り足と考えているので、足の拇指(おやゆび)の付け根部分に当たる拇趾球(ぼしきゅう)の膨らみ部を中心軸として、そこで躰(からだ)を支える歩き方でなければならない。そして他の部分は地面に軽く接するようにするのである。つまり能や狂言の自然の動きこそ、人間の歩く行動原理だと考えているのである。
 拇指の付け根で立脚することこそ、武人の行動原理なのだ。

 拇趾球の中心軸を巧みに利用する為には、足の拇指を鍛え、これを鍛える為には、岩や石に拇指がしっかりと懸(かか)り、「ふんばれる」ことである。これには地下足袋が最適である。
 特に、險(けわ)しい山路に突如、渓流がクロスするようなところが顕われれば、一般の登山靴やスニーカーでは駄目であり、拇指とその他の指が分かれている地下足袋でなければならない。地下足袋によって、拇趾球を中心とする動きが良くなり、拇指が鍛えられるのである。

 こうした險しい山路を歩いて、拇指を鍛える稽古法は、かつては「山稽古」と云われたものである。しかし、こうした稽古法は、今日では殆ど無視され、単に下界の室内での稽古だけが問題にされ、この世界でのみ、トレーニングがされている現実は、何とも寂しいものである。あるいは、こうした事が現代人を、益々「ヤワな人間」に駆り立てているのかも知れない。

 また、著名な先生に師事をし、その正統が正しいと豪語した処で、晩年腰を患って腰痛を発症させたり、坐骨神経痛になってナメクジ速度しか歩く事が出来なくなったり、アルツハイマー型痴呆症を発症させてボケ老人となり、その状態で余生を送る、自称武道家と云われるを何人も見て来たが、こうした人のこれまでの修行法は、これだけの発症をみても、明らかに間違って居た事になる。



●福知山系の山行き

 かつて福智山系の九州自然歩道を通って、山下先生と2泊3日の山行きに出た事があった。
 河内貯水地の林道を通り、田代に至り、田代林道から、田代分れで、尺岳平(しゃくだけだいら)を経由して、尺岳山頂に至って、再び戻って山瀬越、雲取分れ、豊前越(ぶぜんごえ)、烏落、そして福智山に至り、上野越(あがのごえ)、鷹取山(たかとりやま)というルートで、豊前(ぶぜん)へ向かう登山の旅をした事があった。

 また、正規のルートと言うものは、山路で、あまり人に出会わなくても、道がちゃんとしているものである。やはり、昔からの山路であるだけに、何百、何千、何万の人に踏み固められて来たのであろう。こんな感想をもって、当時の山行きから受けた感想であった。

 昭和47年の秋の事であり、あれからもう四十年ほどが経ち、今では何処をどう通ったか、定かに記憶はないが、機会があればこの時のルートを研究し、後進者を連れて、同じルートを通って「山行きの旅」をしたいと考えている。今思うと、目頭が熱くなるほど懷かしい旅であった。

秋の落日の夕空。三稜から見る暮れ泥(なず)む夕空は、何処となく哀愁を感じる風景だった。

 夕陽の傾く、落日に彩られた尾根伝いを歩き、渓流を横切り、草蛙(わらじ)で沢を攀(よ)じ登り、自然林の林を抜け、風当たりの少ない岩影で露営し、翌朝、眼を醒ますと日の出の予兆の美しさに感嘆した。
 この当時の九月の空は、青と言うより、むしろ紺色かかった深い青で、空は高く何処までも澄み切っていた。

 そして、この旅の途中、福智山方面で台風に遭遇した事があった。
 この時、山下先生は、鋭い眼で空を見て、「少し天気が荒れるな」と、ぽつりと云われた事を、今でも印象的に憶(おぼ)えている。
 筆者が「どうしてですか、あんなに空が晴れているではありませんか」と訊(き)いた事があったが、「高曇りじゃ」と云われてその後、口を閉ざしたのが、何とも不可解な印象が、この時残った。

 空を見上げると、筋ばった、やや濃淡で鮮明は雲が浮んでいた。その高雲の下を、台風の前駆現象として、雨雲が低く垂れ込めたまま、矢のような速さで疾(はし)り抜けていた。
 これを見て山下先生は「少し天気が荒れるな」と呟(つぶ)いたのである。

 筆者は気象図が描けるほど、気象に関して研究した事はない。また、高層天気図を読めるほどの専門家でもない。短波放送を聴きながらの、ラジオ気象図も描けない。ただ、繰り返しの山行きで、雲の形から、その後の天気がどのように変化するか、中学生程度のレベルで気象状態を解する事はできる。

 この日、やはり台風が近付いている事ぐらいは分かっていた。温暖前線面が山よりも高い処にある時は、突然雲が高くなるのである。また、風が何時もと違って、山の中が突然静かになるのである。
 山の総(すべ)ての音が黙り込んだように静かになり、多少蒸し暑さを感じるのである。したがって、「一荒れありそうだ」と観(かん)じた時は、山下先生は進んで何処に退避したらよいか詳しく知っていた。

山が一荒れするような前兆は、晴れていても、山麓にかけて低い雲が垂れ込める時である。

 こういう場合、下へ下へと逃げてはならないと云う。むしろ登る方が賢明なのだと云う。特に山の中腹にいて、台風に遭遇すると標高500〜600メートル付近では強風が直接樹木を直撃し、夥(おびただ)しい風倒木が出る。この倒れる時に凄(すさ)まじさは筆舌に尽くし難く、直撃を受ければ人間など一溜まりもない。

 千年杉などと、今まで誇っていた杉の巨木も、根が浅い為に、強風によって倒れる事がある。この倒れた夥しい杉の木の倒れたのを、英彦山の山路で見たした事があった。平成3年の秋、北九州地方は猛烈な台風19号により、甚大な被害を受けた。

 そして翌年、夏季合宿セミナーで英彦山に登ったが、その途中、直径2メートル前後の杉の巨木が倒れていて、これを潜り抜けたり、登り越すのに大変な難儀(なんぎ)をした事があった。辺りはジャングルと言うより、ジャングルジムのようになって、相当な迂回(うかい)をしなければ登れないようになっていた。この時、もしこの山路の途上にあったら一体どうなったのだろうかという反芻(はんすう)が趨(はし)った。

 したがって、今日では山の掟(おきて)として、台風接近中は如何なる理由があっても山に登ってはならないという事が正しいとされるが、当時は、今と違って気象衛星もなく、台風の接近は新聞やテレビの予報で知る程度のものであり、詳細に渡っての天気図などは庶民の知るところではなかった。その為に、山行きで台風に遭遇して命を失う者も多く出ている。気象遭難と言うのは、今に比べて非常に多かったのである。

 筆者も山下先生との最後の山行きになった時に、奇(く)しくも台風に遭遇したが、倒木が起り易い低地や中腹部を離れて、高地へと移動し、木の低い、風を防げる岩影に身を潜めることを教わった。この時、台風をやり過ごし、その直後に雨で濡れて滑り易い山路を、頂上に向かって登った事があった。

 滑って転んで、赤土で泥だらけになって、やっとのことで福智山山頂に着き、台風一過の清々しい空気を、腹一杯吸って爽快感を覚えた事があった。今ではその爽快感も懷かしい記憶の中である。
 そして、いつの日か再び、今度は私が後進者を伴って、同じ路程を歩いてみたいと思っている。



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